第54話 あなたは私を『家事しかできない』と言いましたね
『おい! 聞いてるのか香澄!! お前は俺のものだろ!!』
異界観測鏡の向こう側から、血走った目をした健一の怒号が響き渡りました。
『今すぐ戻ってこい! 家政婦の分際で、俺から逃げるなんて許されると思ってんのか!! さっさと部屋を片付けて、俺の飯を作れ!!』
ガンッ! ガンッ! と。
健一が、こちらの世界へ手を伸ばそうと、見えない壁を狂ったように叩き続けています。
その怒鳴り声を聞いた瞬間。
私の体は、十二年間という長い年月をかけて骨の髄まで植え付けられた恐怖の記憶によって、氷のように冷たくなり、ガタガタと震え始めてしまいました。
(怖い……っ)
怒らせてはいけない。逆らってはいけない。
何か言い返せば、また何時間も理不尽な言葉の暴力を浴びせられる。
前世の私は、そうやって心を殺して、ただ息を潜めて生きてきました。
私が目を閉じ、耳を塞ごうとした、その時でした。
スッ……と。
私の背後に、温かくて、大きくて、何よりも頼もしい五つの気配が並び立つのが分かりました。
『かすみさん』
『香澄』
『アンタはもう一人じゃねぇ』
『お姉ちゃん』
『……俺たちがいる』
声に出さなくても。
彼らが私を見守り、絶対に守り抜くという強い意志が、背中からじんわりと伝わってきます。
(そうだ。……私はもう、あの狭くて冷たい部屋にいた、空っぽの私じゃない)
私は、ギュッと強く握りしめていた拳の力を、ゆっくりと抜きました。
震えていた膝に力を込め、しっかりと大地を踏みしめます。
そして、閉じかけていた目を見開き、鏡の向こうで醜く喚き散らしている男を、真っ直ぐに見据えました。
『香澄!! ふざけるな、聞こえてるんだろ!!』
「……健一さん」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど、静かで、冷たく、そして透き通っていました。
健一が、私の声に反応して一瞬だけ動きを止めました。
私は、彼から受けた十二年間の呪いを解くために。私自身の魂を完全に解放するために、言葉を紡ぎました。
あなたは私に、『家事しかできない』と言いましたね。
誰でもできることを、やっているだけだと笑いましたね。
私の作った肉じゃがを、味が薄いと文句を言いましたね。
熱を出した私に、ご飯はまだかと聞きましたね。
誕生日のケーキを、一瞥もしませんでしたね。
私はあなたに、何を返してもらえましたか?
『ありがとう』も、『お疲れ様』も、『美味しい』も。
一度も。一度も、聞けませんでした。
私は、便利な家政婦が欲しかったわけじゃない。
あなたの妻として、ひとりの人間として、ただ、思いやってほしかっただけです。
それを十二年間、あなたはずっと拒み続けた。
私を空気のように扱い続けた。
ねえ、健一さん。
今、あなたの家がゴミ屋敷になっているのは、私がいなくなったからではありません。
あなたが、自分の手で、自分の生活を作る努力を、一度もしてこなかったからです。
私のせいでは、ない。
私が一気に言い切った言葉は、鏡の向こうの健一に、決定的な現実を突きつけました。
彼は信じられないものを見るように目をむき、口をパクパクと動かして、再び何かを激しく喚き散らし始めました。
でも、不思議なことに。
彼がどれほど恐ろしい顔で怒鳴り声を上げても、その声はもう、私の耳にはただの雑音にしか聞こえませんでした。
私を縛り付けていた鎖は、私自身の言葉によって、完全に断ち切られたのです。
「私はもう、あなたの家政婦じゃありません」
私は、最後に一度だけ、彼に向かって静かに微笑みました。
「私の名前は、香澄です。ただの、香澄です」
私がそう告げた瞬間。
異界観測鏡の表面が、スゥッと白い霧に覆われるように曇り始めました。
『待て! 香澄!! お前がいなきゃ俺は──』
健一の惨めな叫び声は、霧の向こうへと完全に吸い込まれ、二度と聞こえなくなりました。
鏡の表面はただの冷たい銀色に戻り、向こうの世界との『縁』は、永遠に消え去りました。
「……終わった」
私は、大きく、深い息を吐き出しました。
胸の中につかえていた真っ黒な鉛のようなものが、嘘のように消え去り、澄み切った空気が全身を満たしていくのが分かります。
私は、ゆっくりと振り返りました。
そこには、私を信じて、私の戦いを最後まで見守ってくれた、大好きな五人の家族が立っていました。
(続く)




