第52話 寮母の戦場は、王宮厨房にあります
王城の夜空を切り裂くように鳴り響いた警鐘は、かつてない未曾有の危機の始まりを告げていました。
王都郊外の地平線に現れた、禍々しい紫色の巨大な渦。
それは、王国史上最大規模の『魔物溜まり』でした。
「……あれは、神殿の罪の残滓です」
窓の外を見つめながら、副隊長のセオドアさんが重々しい声で告げました。
「神殿が過去三十年にわたり、治癒能力者たちを道具として過使してきたことで、世界の魔力循環に致命的な歪みが蓄積していたのでしょう。……それが、ノエルの解放と神殿の崩壊を契機に、一気に噴出したのです」
私たちがノエルくんを救い出したことが、世界を歪みから浄化するための引き金になった。
けれど、その反動として生まれた魔物の群れは、王都を飲み込もうとするほどの規模に膨れ上がっていました。
「……行くぞ、お前ら」
第七分隊長のルーカスさんが、純白の軍服の襟を正し、背中の大剣に手をかけました。
カイルくん、ノエルくん、ジンさん、そしてセオドアさん。
さっきまで私に甘く微笑みかけてくれていた五人の顔は、すでに王国最強の騎士としての冷徹な戦士の顔に切り替わっていました。
「かすみさんは、安全な王宮の奥にいてください。……必ず、すぐに帰ってきますから」
ルーカスさんが私の頭を優しく撫でると、五人は一陣の風のように出撃していきました。
(私にできることは……)
安全な場所で、ただ待っていること?
いいえ、違います。
戦う彼らを支える『土台』を作ることこそが、私の戦い方のはずです。
私は、彼らが私のために作ってくれた、大切な五色の刺繍が入った琥珀色のドレスの裾をギュッと握りしめました。
ヒールを脱ぎ捨て、裸足のまま、王宮の長い廊下を駆け出します。
向かった先は、王宮の裏手にある巨大な『大厨房』でした。
バンッ!!
「厨房をお借りします!!」
私が勢いよく扉を開け放つと、そこは阿鼻叫喚のパニック状態でした。
「急いで前線への兵糧を用意しろ!」
「ダメです、これだけの数の携帯食と回復薬、今の備蓄じゃとても足りません!」
二十人以上の王宮料理人たちが右往左往し、五十代の恰幅の良い料理人長が、青ざめた顔で怒鳴り声を上げていました。
「そこのあなた! ここは戦場への補給拠点だ、平民の、しかもドレス姿の女が入ってきていい場所ではない! すぐに出て行きなさい!」
料理人長が、プライドと焦りが入り混じった声で私を追い出そうとしました。
けれど、私は一歩も引きませんでした。
「ドレスなんて関係ありません! 私は第七分隊の寮母です! ……あなたたちのやり方では、前線の消耗に絶対に間に合いません!」
私は、近くにあったエプロンをドレスの上から強引に巻きつけ、髪を一つに束ねました。
「大きな肉を焼いている時間はありません、すべて細切りにして強火で炒めて! 回復薬を煮出すのではなく、魔力回復効果のある薬草を刻んでスープに直接投入します! 栄養価と吸収速度だけを最優先にした『即席魔力回復スープ』を作ります!」
私が厨房の中心に立ち、迷いのない声で的確な指示を飛ばすと、パニックに陥っていた料理人たちがハッと動きを止めました。
「な、何を言っている! そんな下品な調理法、王宮の料理人ができるか!」
「見栄を張っている場合ですか! 彼らは今、命を懸けて戦っているんです! 美味しいフルコースなんて誰も求めていません、彼らが明日も生きて帰るための『命の糧』を作るのが、私たちの仕事でしょう!?」
私の気迫に、料理人長は息を呑みました。
そして、私の指示が理にかなった最も効率的な『補給戦術』であることを、長年の料理人の勘で瞬時に悟ったのでしょう。
「……お見事です、寮母殿。いや、香澄特別顧問」
料理人長は、深く頭を下げました。
彼が私を敵視していた時間は、わずか五分。
「我々を、お使いください。あなたの指示に、すべて従います!」
「ありがとうございます! 皆さん、第二かまどに火を! カイルくんが繋いでくれた転送魔法陣へ、完成したものから次々と送り込みます!」
『はいっ!!』
二十人の王宮料理人たちが、私という指揮官を得て、一糸乱れぬ動きで調理を開始しました。
野菜を切る音、肉を炒める音、スープが煮立つ音。
厨房の熱気の中で、私は額の汗を拭いながら、これまでの人生を振り返っていました。
料理、洗い物、火加減、配膳、保存、補給。
それは全部、私が前世から、狭い家の台所で毎日毎日やってきたことでした。
元夫から『家事しかできない』と馬鹿にされ、見下され続けた私の手。
でも、その手で培ってきた技術は今、王国最強の騎士団の命を繋ぐ『兵站』という軍事オペレーションの要となっているのです。
(負けないで……っ。皆さんの帰る場所は、私が必ず守るから!)
* * *
同時刻。王都郊外の最前線。
「ハァッ……ハァッ……」
第七分隊の五人は、無尽蔵に湧き出す魔物の群れを前に、極限まで疲弊していました。
神殿の三十年分の怨念がこもった魔物たちは強力で、いくら彼らが王国最強とはいえ、魔力も体力も底を突きかけています。
「……くそっ、キリがねぇ……!」
カイルが膝をつき、ノエルの治癒魔法の光も弱まりかけていました。
ルーカスの大剣を振るう腕も、鉛のように重くなっています。
その時でした。
彼らの後方の地面がまばゆく光り、巨大な転送魔法陣が展開されました。
魔法陣の中から次々と現れたのは、まだ湯気を立てている大量の『即席魔力回復スープ』と、食べやすく包まれた温かい携帯食の山でした。
そして、その包みには、見覚えのある琥珀色のリボンが結ばれていました。
「……香澄さん」
ルーカスがスープを一口飲み込むと、爆発的な魔力と温かさが、枯渇していた全身の細胞に一瞬で行き渡りました。
それは、彼らが毎日食べてきた、世界で一番優しくて、力強い『我が家の味』でした。
「……論理的に考えて、完璧な補給だ」
「へっ、あの人はドレス着てても、結局俺たちの寮母ってわけだ」
「お姉ちゃんのご飯だ! 魔力が、どんどん溢れてくるよ!」
「……美味い」
極限まで疲労していた五人の目に、かつてないほどの強烈な光が戻りました。
背中を預けられる、世界で最も頼もしい『家族』からの後方支援。
「行くぞ、お前ら」
ルーカスが、黄金の闘気を全身から立ち上らせ、太陽のような笑顔で大剣を構え直しました。
「俺たちの寮母を、これ以上心配させるな!!」
彼らの反撃の咆哮が、紫色の空を真っ二つに切り裂いていきました。




