第41話 侯爵令嬢は、私の隊長を返してほしいそうです
「──あら。平民の家政婦風情が、ずいぶんと自分を高く売るのね」
王宮の人事部を出ようとした私の背中に、氷のように冷たい声が投げかけられました。
振り返った先に立っていたのは、豪華なフリルがあしらわれたドレスに身を包む、絵画のように美しい女性でした。
美しく結い上げられた金色の髪に、宝石を散りばめた扇。
侯爵令嬢、クラリッサ・ヴァルトハイム。
彼女は、私を見るなり、親の仇でも見るかのような強烈な嫌悪の目を向けました。
「先ほどの話、少し聞こえましたわ。他分隊からの好条件をすべて蹴って、第七分隊にしがみつくなんて。……本当に、浅ましい女ですこと」
クラリッサ様は、コツ、コツ、とヒールの音を響かせて私に歩み寄ってきました。
その圧倒的な貴族の威圧感に、私は思わず一歩後ずさりそうになります。
「あなたが、あの第七分隊の隊長を誑かしている平民ね?」
「誑かす、ですか……?」
「とぼけないでちょうだい! 三年前に私の婚約の申し出を断ったルーカスが、どうしてあなたのような女の側にいるのよ!」
パチンッ!と、彼女は手にした扇を苛立たしげに閉じました。
「三十も過ぎた、子どもも孕めないような年増女のくせに。家事しかできない底辺の平民が、侯爵家の名にかけて、絶対に許しませんわ!」
ビクッ、と。
彼女の放った言葉の刃に、私の肩が大きく跳ねました。
『三十過ぎた、家事しかできない無能女』
前世の夫、健一から何百回と投げつけられた呪いの言葉。
私の一番柔らかくて弱い部分を抉るその言葉に、冷たい汗が背中を伝い、視界がグラリと揺れかけました。
ごめんなさい、私なんかが、生きていてごめんなさい。
また、いつものように萎縮して、俯いて、ただ嵐が過ぎ去るのを待とうと──。
(……ううん。違う)
目を閉じかけた私の脳裏に、第七分隊の皆の顔が浮かびました。
「かすみさんのご飯は世界一です」と笑うルーカスさん。
私を心配して、怒って、守ろうとしてくれる大切な家族たち。
私は、もう一人じゃありません。
だから、こんな理不尽な言葉に、もう怯えたりしない。
私は、ゆっくりと、深く深呼吸をしました。
そして、逃げることなく、クラリッサ様の冷たい瞳を真っ直ぐに見つめ返しました。
「……私は、ルーカスさんに『結婚してください』と言ったことは、一度もありません」
「なっ……! 言い訳──」
「私はただの寮母です。毎日、温かいご飯を作っているだけです。夜帰ってきた彼らに『お疲れ様』と言って、温かいお茶を淹れているだけです」
声を荒らげることなく。
ただ静かに、事実だけを、私の誇りだけを口にしました。
「それで彼の心が私に傾いているのだとしたら──」
私は、ぎゅっとエプロンの端を握りしめ、言葉を紡ぎました。
「それは、あなたが三年間、彼にそれをしてあげなかった結果ではないでしょうか」
「──っ!?」
クラリッサ様の美しい顔が、サァッと青ざめ、次いで屈辱に真っ赤に染まりました。
彼女の握りしめた扇が、ワナワナと小刻みに震えています。
「ふっ……くくっ」
不意に、廊下の奥から小さな笑い声が聞こえました。
見ると、通りすがりの他分隊の騎士たちが、クラリッサ様の言い負かされた様子を見て、ヒソヒソと嘲笑を漏らしていたのです。
「……っ! こ、この下賤な平民が! 覚えていなさい、絶対に後悔させてやりますわ!!」
周囲の視線に耐えきれなくなったクラリッサ様は、真っ赤な顔で私を睨みつけると、ドレスの裾を翻して逃げるように立ち去っていきました。
(……言えた)
彼女の背中を見送りながら、私は小さく息を吐き出しました。
膝は少し震えていたけれど、私はもう、言葉の暴力にただ殴られ続けるだけの私ではありませんでした。
* * *
その日の夜。
王宮の地下深くに位置する、薄暗い来賓用の密会室。
「……忌々しい。あの平民の女、よくも私に恥をかかせてくれましたわね」
クラリッサは、苛立ちに任せて高級なティーカップを壁に投げつけ、粉々に砕きました。
そんな彼女の背後に、音もなく白い装束をまとった男が歩み寄ります。
神殿本院から派遣された、特務の使者でした。
「お怒りのようですね、クラリッサ様」
「当然ですわ! お父様が神殿の便宜を図って差し上げているのですから、あなたたちも少しは私の役に立ちなさいな」
クラリッサの八つ当たりにも、神殿の使者は不気味な笑みを崩しませんでした。
「ええ、もちろん。我々も、あの第七分隊には少し『返していただかなければならない財産』がありますからね」
使者は、テーブルの上に一枚の書類を滑らせました。
そこには、第七分隊の若き治癒術師、ノエルの名前が記されていました。
「あの生意気な平民女と、第七分隊の回復術師。……我々の計画のためにも、両方とも、早急に片付けるしかありませんね」
王宮の深い闇の中で。
私と、私の大切な家族を脅かす黒い陰謀が、静かに産声を上げていました。




