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夫に捨てられた専業主婦ですが、異世界騎士団の寮母になったらイケメン達が全員ダメ男でした  作者: 他力本願寺


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第40話 給与三倍の引き抜きを、私は笑顔でお断りしました

昨夜、他分隊の騎士たちから突然突きつけられた『引き抜き』の打診。

その余波は、翌朝の第七分隊(だいななぶんたい)の寮に、嵐のような混乱をもたらしていました。


「マチルダさん……これは、一体どういうことなんですか?」


朝食の片付けもそこそこに、寮の共有スペースに集まった私たち。

テーブルの上にドサリと積まれたのは、王宮の正式な蝋印が押された、何通もの分厚い封筒でした。


王宮人事官であるマチルダさんは、ふぅと呆れたようなため息をついてから、その封筒の束を指差しました。


「昨日、視察に来た他分隊の連中が言っていたこと、冗談じゃなかったのよ。……これ、全部あなた宛ての正式な『引き抜き』の要望書」


「ええっ!?」


「第一分隊からは『現在の給与の三倍と王宮内の私室を用意する』。第三分隊からは『我が隊の新兵たちの特別生活指導係として迎えたい』……他にも、第五、第八分隊からも似たような条件の打診が来ているわ」


マチルダさんが読み上げる破格の条件に、私は目を丸くするしかありませんでした。

つい数ヶ月前まで、前世で夫から「家事しかできない無能」と捨てられ、行く当てもなく途方に暮れていたただの主婦だった私が。

王国のエリート騎士たちから、こんなにも必要とされているなんて。


しかし、私が驚きに固まっている間に。

私の背後に控えていた五人の騎士たちの堪忍袋の緒が、完全にブチッと音を立てて切れたようでした。


「ふざけるな!!」


第七分隊長だいななぶんたいちょうのルーカスさんが、バンッ!とテーブルを叩き、そのまま私の足元にガバッと崩れ落ちるように膝をつきました。


「か、かすみさん……っ! 行かないでください! 俺たちを捨てないでください! 給料が三倍だっていうなら、俺が魔物を今の十倍狩ってきますから!」


ほとんど土下座のような勢いで私のエプロンの裾を掴む、王国最強の騎士。

その青い瞳は、まるで捨てられる寸前の大型犬のように潤んでいます。


「ルーカスさん、落ち着いて……っ」


「……論理的に考えて、第一分隊の提示した『王宮内の私室』など、日当たりと風通しの計算が甘すぎる。それに比べ、この寮の香澄の部屋は私が完璧な採光角度を計算して家具を配置している。生活の質において、彼らの条件は完全に破綻しているな」


副隊長(ふくたいちょう)のセオドアさんが、銀縁眼鏡をギラリと光らせながら、他分隊の契約書の不備を恐ろしいスピードで分析し、ペンで真っ赤に添削していきます。


「あぁ? うっせぇな、そんな紙切れどうでもいいだろ。……おい、第一分隊も第三分隊も、寮ごと俺の魔法で丸焦げにしてやる。かすみさんを横取りしようとしたこと、あの世で後悔させてやるよ」


カイルくんが、両手に危険な紫色の炎をチリチリと燃え上がらせ、本気で王宮方面へ向かって歩き出そうとしています。


「だめだよカイル! 火事になったらお姉ちゃんが悲しむでしょ! ……うぇぇん、お姉ちゃぁん! 僕、お姉ちゃんがいなくなったら生きていけないよぉ……っ! ずっと一緒にいるって約束したもん!」


ノエルくんが、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら私の腰にぎゅっとしがみつき、絶対に離さないとばかりに体重をかけてきます。


そして。


「……」


ジンさんは、一言も発しませんでした。

ただ、さっきから私の影にピタリと溶け込むように立ち、私が一歩動けば彼も一歩動くという、絶対に私の側から離れないという無言の、しかし最も重い執着を放っていました。


「……はぁ。見事なまでのパニックね」

マチルダさんが、呆れ果てたように肩をすくめます。


「あ、あの、マチルダさん! これって、王宮からの『命令』なんですか? 私、絶対に行かなきゃいけないんでしょうか……?」


私が不安な声で尋ねると、マチルダさんは柔らかく微笑んで首を振りました。


「安心して、香澄。これはあくまで『打診』よ。あなたが第七分隊の寮母として残りたいなら、何の問題もないわ。あなたの意志が一番に尊重されるの」


その言葉を聞いて、私は心の底からホッと息を吐き出しました。

そして、足元で縋り付くルーカスさんや、大騒ぎしている皆の顔を、一人ずつゆっくりと見渡しました。


かつて、生活能力が皆無で、ゴミ屋敷のような寮で暮らしていた彼ら。

でも、彼らは誰よりも優しくて、不器用で、私の作るご飯を「世界で一番美味しい」と笑って食べてくれる。

私を「無能」だと見下した前世の夫とは違う。

彼らは私を、ひとりの人間として、こんなにも真っ直ぐに必要としてくれているのです。


(私……ここに、いていいんだ)


胸の奥が、温かいもので満たされていくのを感じました。


「皆さん、心配しないでください。……私、どこにも行きませんよ」


私が優しく微笑みかけると、五人の騎士たちの動きがピタリと止まりました。


「かすみ、さん……?」


「これだけたくさんの要望書をいただけたことは、寮母として本当に誇らしいです。でも……私は、皆さんのご飯を作るのが好きなんです。皆さんの帰ってくるこの寮が、大好きなんです」


私は、エプロンの紐をキュッと結び直しました。


「マチルダさん。私、王宮へ行きます。……このお手紙をくださった方々に、直接、自分のお口でちゃんとお断りをしてきたいんです」


私の決意を聞いた五人の顔に、パァッと花が咲いたような明るい光が宿ったのは、言うまでもありませんでした。


 * * *


その日の午後。

私はマチルダさんに付き添われ、王宮の人事部へと足を運んでいました。


(さすがに、皆さんがついてくると大騒ぎになっちゃうから、お留守番してもらって正解だったわね)


王宮の荘厳な廊下を歩きながら、私は少しだけ緊張していました。

人事部の広い執務室に入ると、そこには第一分隊や第三分隊の代表の騎士たちが、私の到着を待ち構えていました。


「おお、香澄殿! 来てくれたか!」

「ぜひ、我が隊へ! 条件ならいくらでも上乗せするぞ!」


身を乗り出してくるエリート騎士たち。

以前の私なら、こんな立派な方々に囲まれただけで、萎縮して何も言えなくなっていたでしょう。

でも、今の私の背中には、第七分隊の皆がくれた温かい自信があります。


私は、彼らに対して深く一礼しました。


「皆様、これほど素晴らしい条件をご提示いただき、本当にありがとうございます。心から、光栄に思います」


私は、顔を上げ、彼らの目を真っ直ぐに見つめ返しました。


「ですが、大変申し訳ありません。……私は、第七分隊の寮母を辞めるつもりはありません」


「なっ……なぜだ!? 給与の額が不満か!? それとも、第七分隊のようなむさ苦しい寮の環境が……」


食い下がる騎士たちに向かって、私は静かに、けれどはっきりとした声で告げました。


「給与の額でも、王宮の豪華な私室でもありません」


私は、あの騒がしくて、愛おしい彼らの顔を思い浮かべました。


「私が欲しいのは……あの五人が、『おかえりなさい』と帰ってこられる場所を、私自身の手で守れることなんです。それが、私にとっての何よりの宝物ですから」


私の迷いのない言葉に、人事部の執務室は水を打ったように静まり返りました。

勧誘に来ていた騎士たちは、私の覚悟の強さに圧倒されたのか、それ以上何も言えず、やがて諦めたように深く息を吐きました。


「……そうか。第七分隊の奴らが、そこまであなたに愛されているとはな。……完敗だ」


彼らが苦笑いをして身を引き、無事にお断りが済んだことに、私は胸を撫で下ろしました。

(よかった。これで、明日からも皆の寮母でいられる)


マチルダさんに「よく言えたわね」と微笑みかけられ、執務室を出ようとした、まさにその時でした。


「──あら。平民の家政婦風情が、ずいぶんと自分を高く売るのね」


背後から、氷のように冷たく、ひどく耳障りな声が響きました。


「え……?」


振り返ると、人事部の奥の扉から、一人の女性が歩み出てくるところでした。


豪奢なフリルがあしらわれたドレス。

美しく結い上げられた金色の髪に、宝石を散りばめた扇。

そして、私を見るその瞳には、隠しきれないほどの強烈な『見下し』と『嫌悪』が渦巻いていました。


「たかが家事しかできない底辺の女が、王宮の騎士たちを手玉に取って……本当に、虫酸が走りますわ」


パチンッ、と。

彼女が手にした扇を閉じる音が、静まり返った部屋に不吉に響き渡りました。


侯爵令嬢、クラリッサ・ヴァルトハイム。

この異世界で、私の前に立ちはだかる、最大の『悪意』との出会いでした。


(続く)

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