第39話 傷だらけで帰ってきた諜報員は、やっぱり眠れません
ノエルくんの看病を終え、静まり返った一階の食堂へと足を踏み入れた時のこと。
私が手にしたランプの灯りが照らし出したのは、漆黒の任務服に身を包んだ諜報員のジンさんでした。
そして、彼の左腕からは、ポタ、ポタと。
床に向かって、どす黒い赤い血が滴り落ちていました。
「ジンさん……その腕、どうしたんですか!?」
私はランプをテーブルに置き、無我夢中で彼のもとへと駆け寄りました。
血の匂いが鼻を突きます。任務服の袖が大きく裂け、その下の肌が鋭い刃物のようなもので深く切り裂かれていました。
「……かすみ」
ジンさんは、自分の腕から流れる血を隠すように、サッと体を逸らしました。
「……来るな。……汚れる」
「汚れるなんて言っている場合じゃありません! ひどい怪我じゃないですか!」
「……大したことはない。……かすり傷だ」
ジンさんは痛みを微塵も感じさせない、いつも通りの平坦な声で言いました。
彼にとって、これくらいの傷は日常茶飯事なのでしょう。けれど、血が滴り落ちるほどの傷を「かすり傷」と呼ぶ彼のその感覚が、私にはどうしようもなく痛ましく思えました。
「大したことあるかないかは、私が決めます。そこに座ってください」
私が有無を言わさぬ強い口調で指示を出すと、ジンさんは少しだけ驚いたように目を見開き、大人しく近くの椅子に腰を下ろしました。
「すぐに救急箱を持ってきます。絶対に動かないでくださいね」
私は急いで厨房の奥から、清潔な布、お湯、そして傷口を消毒するための『浄化草』の絞り汁が混ざった軟膏を持ってきました。
「袖をまくりますよ」
ジンさんの太い腕に触れると、ひんやりと冷たく、彼がどれほど過酷な夜の闇の中を駆け抜けてきたのかが伝わってきました。
傷口はお湯で丁寧に血を洗い流してみると、やはり深く、けれど幸いなことに命に関わるような血管は避けているようでした。
「……痛みますか?」
私が布で傷の周りを優しく拭いながら尋ねると、ジンさんはふるふると首を横に振りました。
「……痛くない」
「我慢しなくていいんですよ。これからお薬を塗りますから、少し沁みます」
私は軟膏をたっぷりと取って、傷口に優しく塗り込んでいきました。
普通の人間なら顔をしかめるような刺激があるはずの薬ですが、ジンさんはピクリとも動きません。
ただ、その深い灰色の瞳で、手当てをする私の顔を、じっと、穴が開くほど見つめ続けていました。
「……あの、ジンさん? 私の顔に、何かついていますか?」
あまりにも真っ直ぐな視線に、私は少しだけ居心地が悪くなり、手元に目を落としたまま尋ねました。
「…………」
ジンさんは無言のまま、ただ静かに瞬きをしました。
そして、私が傷口に白い包帯を巻き、最後にきゅっと結び目を結んで、彼から手を離そうとした、その瞬間。
スッ……。
彼の手が伸びてきて、離れようとした私の右手を、そっと、けれど逃げられないほどの力で握りしめました。
「えっ……ジン、さん?」
「……痛い」
低く、掠れた声が、静まり返った食堂に響きました。
「ほら、やっぱりお薬が沁みたんじゃ……」
私が慌てて傷口を確認しようとすると、ジンさんは首を横に振り、握った私の手を、彼自身の熱い頬へとそっと引き寄せました。
「……違う」
彼の灰色の瞳が、ランプの灯りに揺らめきます。
「……あんたの、……手が離れるほうが、痛い」
「……っ」
その言葉の破壊力に、私の心臓は、ドクンッ!と狂ったような音を立てて跳ね上がりました。
普段、ほとんど口を開かない彼。
誰に対しても壁を作り、気配を消して、自分から他人に触れることすらしなかった彼が。
私の手のひらに頬をすり寄せながら、こんなにもストレートな独占欲と、隠しきれない寂しさを訴えかけてきているのです。
「……ジンさん」
前世で、私が料理中に火傷をした時。
健一は『気をつけろよ、ドンクサイな』と鼻で笑い、私の傷になど見向きもしませんでした。
誰かの温もりを求めても、触れてもらえることなどありませんでした。
けれど目の前のこの人は、自分の痛みを押し殺してでも、私という存在の温もりを、命綱のように求めてくれている。
「……もう。怪我をして帰ってきたのに、そんなずるいこと言わないでください」
私は、顔から火が出そうなほど赤くなっているのを自覚しながら、彼に握られた手をそのままにして、もう片方の手で彼の黒い髪をそっと撫でました。
「……俺は、……あんたが、いればいい」
ジンさんは、目を閉じ、私の手のひらの温度を確かめるように、深く、長い息を吐き出しました。
それは、過酷な夜の任務から、ようやく彼が『ここ』へ帰還できた合図のようにも思えました。
「……お疲れ様でした、ジンさん。温かいハーブティーを淹れますから、今日は私が側についていますね」
私が優しく語りかけると、ジンさんは微かに口角を上げ、「……あぁ」とだけ、静かに応えました。
血の匂いが微かに残る夜の食堂は、不思議なほど穏やかで、甘い空気に満ちていました。
* * *
翌朝。
「おはようございます! かすみさん、昨日は本当にごめんなさい。俺、すっかり良くなりました!」
食堂に一番乗りで現れたのは、昨夜あんなに苦しそうにしていたノエルくんでした。
私の特製スープと、たっぷり取った睡眠のおかげか、顔色もすっかり元の綺麗な桜色に戻っています。
「ノエルくん、もう起き上がって大丈夫なんですか? 無理は禁物ですよ」
「大丈夫! ほら、魔力もこんなにいっぱい!」
ノエルくんが指先にキラキラと光る治癒の光を灯して見せます。
そこへ、他のメンバーも次々と起きてきました。
「ノエル、もう平気なのか? かすみさんに迷惑かけるなよ」
ルーカスさんが笑いながら肩を叩きます。
「……ジン、お前、その腕はどうした」
セオドアさんが、ジンさんの左腕に巻かれた新しい包帯を鋭く見咎めました。
「……任務だ。……大したことはない」
ジンさんは、いつものように無表情で答えながら、私の淹れたお茶を静かに口に運びます。私と目があった瞬間、ほんの僅かに、彼だけが分かるような優しい瞬きをしてくれました。
ノエルくんの風邪も治り、ジンさんの傷の手当ても終わり。
いつもの騒がしくて温かい、第七分隊の朝が戻ってきた。
そう思って、私が朝食のスープを配り終えた時でした。
コツン、コツン、コツン。
廊下から、規則正しい足音が聞こえ、食堂の扉が開きました。
「おはよう、みんな。それに香澄」
姿を現したのは、王宮人事官のマチルダさんでした。
いつもなら「いい匂いね!」と笑顔で入ってくるはずの彼女ですが、今日の顔つきは、これまでに見たことがないほど険しく、真剣なものでした。
「マチルダさん? どうかしたんですか、そんな怖い顔をして」
私が尋ねると、五人の騎士たちも、マチルダさんの異変に気づき、ピタリと食事の手を止めました。
マチルダさんは、手の中にある、王宮の蝋印が押された一通の重々しい書状を、テーブルの上に静かに置きました。
「香澄」
彼女は、私を真っ直ぐに見つめ、深く息を吸い込みました。
「あなたに、王宮の正式な通達を伝えに来たわ」
「通達、ですか?」
嫌な予感がして、私の心臓がドクンと鳴りました。
マチルダさんは、周囲の五人の騎士たちを一度ぐるりと見渡し、それから、はっきりとした声で告げました。
「香澄。……他分隊から、あなたの正式な『引き抜き』の打診が来たわ」
「え……?」
「引き抜き、だと!?」
ルーカスさんが、ガタッ!と勢いよく椅子を蹴り倒して立ち上がりました。
「条件は、今の給与の三倍。専属の使用人を二名つけ、王宮内に豪華な私室を用意する。さらに、危険な前線部隊である第七分隊とは違い、完全な安全が保障された内勤部隊への異動よ」
マチルダさんが淡々と読み上げる条件は、ただの専業主婦だった私からすれば、目を疑うような破格の待遇でした。
先日、寮に見学に来た他分隊の騎士たちが言っていたことは、冗談でもなんでもなく、本気の王宮を通した正式な要求だったのです。
「ふざけんな!! かすみさんは俺たちの寮母だぞ!!」
カイルくんが、テーブルをバンッと叩いて怒鳴りました。
「……論理的に考えて、彼女の生み出す生活基盤の価値は、その程度の金額で買えるものではない。即座に却下するべきだ」
セオドアさんが、冷や汗を浮かべながら眼鏡の奥の目を鋭く光らせます。
「ダメだよ! お姉ちゃんは僕のなんだから! どこにも行かせない!」
ノエルくんが、すがるように私の腕を強く掴みました。
そして、ジンさんは。
立ち上がり、私の前にスッと立ち塞がるようにして、静かに、けれど明確な殺気を帯びた声で言いました。
「……渡さない」
第七分隊の空気が、一瞬にして凍りつきました。
彼らの、私に対する過剰なまでの執着と、失うことへの恐怖。
思いがけない他分隊からの引き抜き騒動は、私と彼らの関係を、さらなる嵐の中へと巻き込んでいくことになったのです。
(続く)




