第38話 風邪をひいた美少年は、いつもより甘えん坊でした
「……ゴホッ、ゲホッ……」
副隊長と魔導師による台所の料理戦争が、どうにか平和に幕を閉じた日の夜。
談話室のソファで丸くなっていたノエルくんが、ひどく苦しそうな咳をこぼしました。
「ノエルくん、大丈夫ですか?」
私が急いで駆け寄り、丸まった背中に手を添えると、衣服の上からでも分かるほどの熱を帯びていました。
顔を覗き込むと、いつもは透き通るように白い頬が不自然なほど赤く火照り、紫色の瞳は潤んでトロンとしています。
「……お姉ちゃん。なんだか、体がフワフワするの……寒くて、でも熱くて……」
「お熱ですね。急に冷え込みましたから、風邪をひいてしまったんだと思います」
私が彼のおでこにそっと手を当てると、ノエルくんは「ひんやりして、気持ちいい……」と私の手にすり寄ってきました。
「ノエルが風邪!? 大丈夫か!?」
ルーカスさんが慌てて立ち上がります。
「……論理的に考えて、急激な気温の低下による免疫力の低下が原因だ。すぐに隔離と保温、そして栄養補給が必要となる」
セオドアさんが銀縁眼鏡を押し上げながら、テキパキと指示を出そうとします。
「おい、俺の炎魔法で部屋をガンガンに暖めてやろうか!?」
カイルくんが指先に火を灯そうとします。
「カイルくん、火の魔法は空気が乾燥するからダメです! 皆さんは、風邪がうつるといけないので自室に戻っていてください。ノエルくんのことは、私が看病しますから」
私がピシャリと言うと、三人は心配そうにしながらも、大人しく引き下がってくれました。
私はノエルくんの体を支え、一階の彼の部屋のベッドまで運びました。
分厚い毛布をしっかりと掛け、首元までしっかりと保温します。
「少し待っていてくださいね。すぐに温かくて、喉に優しいものを作ってきますから」
「……うん。お姉ちゃん、早く戻ってきてね……」
心細そうに私のエプロンを掴む彼の手を優しく撫でてから、私は厨房へと急ぎました。
高熱の時は、胃腸も弱っています。
私は、甘みと酸味のある『甘蜜果』という果実をすりおろし、体を温める効果のある『温根』の絞り汁と、たっぷりの蜂蜜をお湯で割りました。
とろみをつけるために、少しだけ『月麦』の粉を溶かし入れます。
これなら、喉が痛くても飲み込みやすく、ビタミンと糖分をしっかりと補給できるはずです。
「ノエルくん、入りますね」
湯気の立つマグカップと、冷たい水で絞った布を持って部屋に戻ると、ノエルくんは苦しそうな息を吐きながら、ベッドの中で小さく丸まっていました。
「ノエルくん、起きられますか? 少しだけ、これを飲みましょう」
私が背中を支えて抱き起こすと、彼はぐったりと私の肩に寄りかかりました。
いつもなら「お姉ちゃんがあーんして?」とあざとく甘えてくる彼ですが、今は本当に具合が悪いのか、そんな冗談を言う余裕もないようです。
「はい、ゆっくり飲んでくださいね」
スプーンですくって口元へ運ぶと、ノエルくんは小さな口を開けて、こくりと飲み込みました。
「……甘くて、あったかい……」
「喉、痛くないですか?」
「うん……お姉ちゃんのご飯だから、痛くない。すごく、おいしい……」
彼は熱で潤んだ目で私を見つめ、一生懸命にカップの中身を半分ほど飲んでくれました。
「よく頑張りましたね。もう横になりましょう」
私は彼をベッドに寝かせ、冷たく絞った布を、火照ったおでこにそっと乗せました。
「んっ……」
「これで少しは楽になりますよ。汗をかいたら、またすぐに拭きますからね」
私がベッドの縁に座り、彼の銀色の髪を優しく撫でていると。
スッ……。
ノエルくんの細く熱い手が、毛布の中から伸びてきて、私の手をギュッと強く握りしめました。
「……お姉ちゃん」
「はい。ここにいますよ」
「……どこにも、行かないで」
その声は、いつもの甘ったるいおねだりとは全く違う、ひどく切実で、怯えきった声でした。
「……僕、神殿にいた頃……風邪をひいて、治癒魔法が使えなくなった時……誰も、僕のことなんか心配してくれなかった」
ノエルくんは、熱に浮かされたように、ぽつり、ぽつりと過去の記憶をこぼし始めました。
「神殿の人たちは、僕の顔を見て、『使えない道具だ』って……すごく冷たい目をしたの。早く治して仕事に戻れって、怒られただけだった……」
彼の握る手に、ぎゅっと力がこもります。
「……だから、怖いんだ。僕が風邪をひいて、何の役にも立たなくなったら……お姉ちゃんも、僕のこと嫌いになって、いなくなっちゃうのかなって……」
その言葉を聞いて、私は息を呑みました。
彼は、自分が「治癒の道具」としてしか価値がないと思い込まされて育ってきました。
だからこそ、自分が弱って何もできなくなった時、見捨てられるのではないかという恐怖が、熱のせいで浮き彫りになってしまったのです。
『おい、熱があるからっていつまで寝てるんだよ! 俺の飯はどうするんだ!』
ふいに、前世の夫の怒鳴り声が脳裏をよぎりました。
三十八度の熱を出して動けなかった私に、健一は心配の言葉一つかけず、ただ『家事をしない無能な妻』として私を責め立てました。
あの時、高熱の苦しさよりも、誰からも心配されない孤独と絶望の方が、よほど私の心を冷たく凍らせたのです。
だから、ノエルくんのその怖さが、私には痛いほどよく分かりました。
「……ノエルくん」
私は、彼が握りしめている手を、もう片方の手で優しく、しっかりと包み込みました。
「私は、どこにも行きませんよ」
「……ほんと?」
「本当です。……それにね、ノエルくん。あなたは『治癒の道具』なんかじゃありません」
私が真っ直ぐに彼の紫色の瞳を見つめて言うと、ノエルくんは小さく息を吸い込みました。
「あなたは、第七分隊の大切な回復術師で……そして、私にとって、とても愛おしくて、放っておけない大切な人です」
「……っ」
「役に立つとか立たないとか、そんなことは関係ありません。あなたが風邪をひいて苦しんでいるなら、私はあなたが元気になるまで、ずっとこうして側にいます。だから……もう、怖いことなんて何も考えずに、安心して眠ってください」
私の言葉に、ノエルくんの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちました。
彼は、毛布の中から体を少しだけ起こし、私の手におでこをすり寄せるようにして、甘く、深く息を吐き出しました。
「……お姉ちゃん」
「はい」
「……僕、お姉ちゃんのこと、すっごく好き」
その声は、いつもの『弟としての甘え』ではなく。
熱を帯びた、一人の大人の男性としての、静かな熱情を含んでいました。
「……だから、ずっと僕の側にいて。僕だけのお姉ちゃんでいて」
「……っ」
あまりにも無防備で、ストレートな言葉に、私の心臓がトクンと大きく跳ねました。
「ほ、ほら、あまり喋ると喉が痛くなりますよ。目を閉じてください」
私が照れ隠しのように彼のおでこの布を直してあげると、ノエルくんは「ふふっ……お姉ちゃん、顔赤い」と悪戯っぽく笑い、やがて安心したようにスヤスヤと深い寝息を立て始めました。
「……もう、心臓に悪いですよ」
私は小さくため息をつきながらも、彼の手の温もりを感じて、自然と口元を緩めていました。
彼が元気になったら、またあの騒がしい日常が戻ってくる。
それが、今はとても待ち遠しく思えました。
* * *
ノエルくんが完全に寝付いたのを確認し、私はそっと部屋を抜け出しました。
「ふう……さて、皆さんが夜更かししないように、食堂の片付けをしてしまおう」
寮の廊下は静まり返り、冷たい夜の空気が張り詰めています。
私はランプの灯りを頼りに、一階の食堂へと足を踏み入れました。
「あれ?」
食堂は真っ暗でしたが、奥の方に、かすかに誰かの気配がしました。
「誰か、いるんですか?」
私がランプを高く掲げると、そこには。
「……あ」
漆黒の任務服に身を包んだ、諜報員のジンさんが立っていました。
「ジンさん? 任務からお戻りになったんですね。おかえりな……」
私が笑顔で近づこうとした、その時。
ランプの灯りが、彼の姿をはっきりと照らし出しました。
「……ジン、さん……?」
彼の左腕から。
ポタ、ポタと、床に赤い血が滴り落ちていたのです。
「……かすみ」
ジンさんは、自分の血で赤く染まった腕を押さえたまま、無言で、けれどひどく深い灰色の瞳で私を見つめていました。
静まり返った夜の寮に、微かに血の匂いが漂います。
私は、持っていたランプをテーブルに置き、無我夢中で彼のもとへと駆け出していました。
(続く)




