第36話 隊長、ボタン付けを覚える
朝晩の風が随分と冷たくなり、吐く息が白く色づき始めた頃。
私は、第七分隊寮の奥にある大きな収納庫を開け、冬支度を始めていました。
「よいしょ……っと。やっぱり、男の人たちの冬服は重いですね」
大きな木箱から引っ張り出したのは、分厚いウールで作られた真っ黒な冬外套や、毛足の長い立派な毛布たちです。
夏の間ずっと防虫用のハーブと一緒にしまわれていたため、少し独特な匂いがします。これを裏庭に運んで、お日様の光と風に当てて干さなければなりません。
私が大量のコートを抱えて廊下を歩いていると、朝の訓練を終えたルーカスさんが通りかかりました。
「あっ、かすみさん! 重そうなもの持ってますね、俺が運びますよ!」
「ルーカスさん。ありがとうございます、助かります。そろそろ本格的に寒くなってきたので、皆さんの冬服を出していたんです」
ルーカスさんは私の抱えていたコートの山を軽々と片手で受け取ると、もう片方の手で一番上にある自分用の冬外套を器用に広げました。
「おっ、懐かしい! これ、すごく暖かくて好きなんですよね。ちょっと羽織ってみてもいいですか?」
「ええ、もちろん。サイズが合わなくなっていないか、確認しておきましょうか」
ルーカスさんがバサッとマントのように外套を羽織り、前を合わせようとした、その時でした。
カラン、と。
乾いた音を立てて、黒い大きなボタンが一つ、石畳の床に転がり落ちました。
「あ」
「あ……」
私とルーカスさんは、床に落ちたボタンと、外套の胸元からだらんと垂れ下がった糸くずを、交互に見つめました。
「あはは……取れちゃいましたね」
ルーカスさんが、バツが悪そうに犬耳をペタンと垂らします。
「ルーカスさん、もしかして去年の冬、ボタンが取れかかっているのにそのまま仕舞いましたね?」
「うっ……すみません。俺、そういう細かいことに全然気づかなくて……」
シュンと落ち込む王国最強の剣士を見て、私は小さくため息をつきました。
彼がこの寮で洗濯物を熱湯で煮込んで全滅させた、あの日の惨状を思い出します。あの頃から比べれば、服の脱ぎ散らかしも減り、随分と成長したのですが。
「……ちょうどいい機会ですね」
私は床に落ちたボタンを拾い上げ、ルーカスさんに向き直りました。
「ルーカスさん。今日は、自分でボタンを付ける特訓をしましょう」
「えっ!?」
ルーカスさんは、信じられないものを見るように目を見開きました。
「お、俺がですか!? 無理ですよ、俺、剣を握ることしかできない不器用な男ですよ!? 針なんて持ったら、絶対に指を刺して大惨事になります!」
ブンブンと首を横に振って逃げようとする彼を、私はガシッと腕を掴んで引き留めました。
「逃がしませんよ。自分の身の回りのことを、少しずつでも自分でできるようになるのは大事なことです。……戦場でボタンが取れた時、私がいつも隣にいるとは限らないじゃないですか」
私が真剣な声でそう言うと、ルーカスさんはピタリと動きを止めました。
『私がいない時』という言葉が、彼の心を少しだけ動かしたようです。
「……分かりました。かすみさんが教えてくれるなら、俺、頑張ります」
数分後。
談話室の明るい窓際のテーブルで、私とルーカスさんは隣り合って座っていました。
テーブルの上には、私の愛用の裁縫箱が開かれています。
「はい、まずはこの針に、黒い糸を通してください」
私が一本の針と糸を渡すと、ルーカスさんは戦場に赴くような悲壮な顔つきでそれを受け取りました。
大剣を軽々と振り回す、剣ダコだらけの大きくて無骨な手。
その指先で、小さな小さな銀色の針をつまんでいる姿は、なんだかとてもアンバランスで、少し微笑ましく見えます。
「えっと……この穴に、糸を入れるんですよね。……くっ、穴が見えない……!」
ルーカスさんは眉間にシワを寄せ、針の穴と糸の先端を睨みつけていますが、手がプルプルと震えてしまって一向に通りません。
「ルーカスさん、肩の力を抜いてください。糸の先を少しだけ舐めて、ピンとさせると通りやすいですよ」
「こ、こうですか……?」
私が横から覗き込みながらアドバイスをすると、ルーカスさんは顔を真っ赤にしながら悪戦苦闘を続け、数分後、ようやく「通りました!」と歓声を上げました。
「よくできました。では、糸の端を玉結びにします。……指にくるっと巻いて、こうやって……」
私は自分の手でお手本を見せながら、彼に縫い方を一つずつ教えていきます。
「外套の生地の裏から針を刺して、ボタンの穴を下から上に……そうです、ゆっくりで大丈夫ですよ」
「うわっ、生地が分厚くて針が通らない……っ!」
「力任せに押すと針が折れちゃいます。少し指先をひねるようにして……」
ルーカスさんがつっかえる度に、私は彼の手元に自分の手を添え、優しく軌道を修正しました。
「あっ……」
私が彼の手の甲に触れた瞬間、ルーカスさんが小さく息を呑みました。
至近距離で顔を見合わせると、彼の透き通るような青い瞳が、ほんの数センチの距離で私を見つめています。
「か、かすみさん……近いです……」
ルーカスさんの耳の先が、みるみるうちに赤く染まっていきます。
言われてみれば、糸の通り道を確認するために身を乗り出していたせいで、お互いの肩が触れ合うほど顔が近づいていました。
「ご、ごめんなさい! 邪魔でしたか?」
私が慌てて離れようとすると、ルーカスさんは私の手をそっと握り返し、引き留めました。
「違います! 邪魔じゃないです……むしろ、すごくドキドキして、心臓の音がうるさくて、針先に集中できないというか……その……」
大型犬が甘えるように、少し上目遣いで訴えかけてくる彼に、私の顔まで熱くなってしまいました。
「と、とにかく! あと二、三回糸を通せば終わりますから、集中してくださいね!」
私は誤魔化すように言い、彼から少しだけ視線を逸らしました。
その後も、針が指に刺さりそうになって彼が「ひゃあっ!」と変な声を上げたり、糸が絡まって私がほどき直したりと、騒がしい特訓が続きました。
そして。
「……で、できました」
玉止めを終え、糸をハサミでプツリと切ったルーカスさんが、深々と息を吐き出しました。
「かすみさん、見てください! 俺、ボタン付けられました!」
彼が誇らしげに掲げた冬外套。
その胸元には、黒いボタンがしっかりと――少し糸が不格好に絡まってはいますが、絶対に取れないほど頑丈に――縫い付けられていました。
「わぁ……! すごいですよ、ルーカスさん!」
私が心から拍手を送ると、ルーカスさんはパァァッと顔を輝かせ、満面の笑みを浮かべました。
「俺、やりました! 初めて自分で服を直せました! これで、戦場でボタンが取れても、かすみさんに心配かけずに済みます!」
自分の手柄を誇るような無邪気なその笑顔は、王国最強の騎士隊長という肩書きなど忘れてしまうほど、純粋で可愛らしいものでした。
『お前は俺がいないと何もできないな』
そんな風に私を支配しようとしていた前世の夫とは、正反対です。
私が少しずつ教えることで、彼は自分でできることを増やし、それをこんなにも無邪気に喜んでくれる。
彼が成長していく姿を見守ることが、私にとってどれほど大きな喜びであるか、きっと彼自身は気づいていないでしょう。
「よく頑張りましたね。これで冬の寒さもバッチリですね」
私が彼の金髪を優しく撫でると、ルーカスさんは「えへへ……」と目を細め、本当に尻尾を振っているかのように嬉しそうに微笑みました。
* * *
ほのぼのとしたボタン付けの特訓が終わり、ルーカスさんが上機嫌で自室へ戻っていった後のこと。
「よし、私もそろそろお昼ご飯の準備を……」
裁縫箱を片付けた私が、エプロンの紐を結び直して厨房の方へと歩き出した時でした。
「……論理的に考えて、香澄ばかりに世話を焼かせる現状は不公平だ。彼女は先日、立ちくらみも起こしていた。我々が栄養価の高い食事を提供し、彼女の健康スコアを回復させる義務がある」
「ハッ、口では偉そうなこと言って、アンタは前にお湯も沸かせなかっただろうが。俺の究極の炎魔法と火力調整で、アンタの理論なんてぶっ飛ばしてやるよ」
厨房の入り口から、何やら不穏極まりない話し声が聞こえてきました。
そっと中を覗き込むと。
そこには、腕まくりをした副隊長のセオドアさんと、火の魔力を指先に纏わせたカイルくんが、まな板と鍋を挟んでバチバチと激しい火花を散らしていました。
「せ、セオドアさん!? カイルくん!? 二人とも、台所で何を……!?」
「あ、香澄」
「ちっ、見つかったか」
二人は私を見ると、少しだけバツが悪そうにしながらも、胸を張って宣言しました。
「……香澄。今日は君に休んでもらうため、我々が君のために最高のランチを調理してあげよう。私の計算式とカイルの火力が融合すれば、王宮の料理長すら凌駕する一品が完成するはずだ」
「おう! アンタは座って待ってろ! 俺たちが、特大の肉をドカンと焼いてやるからな!」
料理能力ゼロ。
台所の爆発神と、火力過多の暴走魔導師。
この二人がタッグを組んで、料理を作る?
「…………」
私の背筋を、冬の木枯らしよりも冷たい悪寒が駆け抜けました。
「あの、お気持ちは嬉しいですが、やっぱり私が……」
「「ダメだ(です)!」」
二人の声が綺麗にハモり、私は厨房から追い出されるようにして扉を閉められてしまいました。
「……どうしよう。お昼ご飯の前に、台所が吹き飛ぶかもしれない……」
冬の訪れを感じる穏やかな一日は。
どうやら、第七分隊史上最大の、料理対決という名の『戦争』によって幕を開けることになりそうでした。
(続く)




