第35話 焦げた匂いを思い出しても、今は泣かずにいられました
『家の中が洗剤臭いぞ! 飯が不味くなるだろ、換気くらいしろよ!』
煮え立つ大鍋の蒸気と共にフラッシュバックした、前世の夫の冷たく苛立った声。
胃の腑を握り潰されるような絶望感に襲われ、私は手から木べらを落とし、その場に立ち尽くしていました。
「……かすみさん?」
ふいに、背後から声がしました。
「かすみさん、どうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
振り返ると、洗い場の入り口に心配そうな顔をしたルーカスさんが立っていました。
彼の声を聞いた瞬間、私の視界を覆っていた『ステンレスの冷たいキッチン』の幻影が、パリッと音を立てて砕け散りました。
そこにあるのは、異世界の裏庭。石造りの魔力炉と、ぐつぐつと煮立つ大きな鍋です。
「る、ルーカスさん……」
「かすみさん、手が震えてます! 少し休んでください!」
ルーカスさんは慌てて私に駆け寄り、私の両肩を支えて、近くの木箱にそっと座らせてくれました。
そして、足元に落ちていた木べらを拾い上げると、魔力炉の火力を少しだけ弱めてくれました。
「ご、ごめんなさい……ちょっとだけ、立ちくらみがしてしまって……」
私が必死に言い訳をすると、ルーカスさんはしゃがみ込み、私の顔を下から覗き込みました。
その青い瞳には、純粋な心配だけが浮かんでいます。
「立ちくらみって、もしかして俺たちがタオルを隠し持ってたせいで、かすみさんに無理をさせちゃったから……」
ルーカスさんが犬耳をペタンと垂らして落ち込んでいると、騒ぎを聞きつけたのか、他の四人も裏庭に集まってきました。
「……論理的に考えて、高熱の蒸気を至近距離で浴び続ければ、脳への血流が低下し貧血状態を引き起こす。すぐに水分補給と休息が必要だ」
セオドアさんが、素早く私の顔色を確認しながら言います。
「おい、大丈夫かよ! だから一気に洗おうとするからだろ! ……ほら、水飲め」
カイルくんが、少し乱暴な手つきで、冷たい水の入った木杯を差し出してくれました。
「お姉ちゃん、お熱ある? 僕が治癒魔法かけようか?」
ノエルくんが私の額に自分の額をすり寄せて、体温を確かめようとします。
「……風が、冷たい。……中へ」
ジンさんが、無言で自分の着ていた厚手の外套を脱ぎ、私の肩にふわりとかけてくれました。
五人のエリート騎士たちが、たかが立ちくらみを起こしただけの寮母を囲んで、本気でオロオロと心配しているのです。
『熱があるくらいで寝込むなよ。薬飲んで、早く俺のメシ作れよ!』
不意に、また健一の言葉が頭をよぎりました。
彼は、私が体調を崩しても心配するどころか、自分の世話をしてもらえないことに苛立ち、怒鳴り散らしました。
私が家事のために強い洗剤を使ったり、熱湯で煮洗いをしたりして、部屋に匂いがこもれば『不快だ』『気が利かない』と見下しました。
でも、目の前にいるこの人たちは違います。
「俺たちが悪いのに……かすみさんが倒れちゃったら、俺たちどうしていいか……」
ルーカスさんが、本当に泣きそうな声で言いました。
「……私のせいですよ。一気に洗おうとして、蒸気に当てられただけですから。皆さんのせいじゃありません」
私が微笑んで見せても、彼らの心配そうな顔は晴れません。
「……それに、洗剤の匂い、臭くないですか? 皆さんの休憩の邪魔になっていたら……」
私が恐る恐る尋ねると、五人は一斉に不思議そうな顔をしました。
「臭い? なんでですか。この『灰石鹸』の匂いがすると、かすみさんが寮を綺麗にしてくれてるんだなって分かって、俺、すごく安心しますけど」
ルーカスさんが首を傾げて言いました。
「ああ。俺も、この匂いがすると、なんか……ホッとする」
カイルくんが、少し照れくさそうに同意します。
「……かすみの、匂いだ。……清潔で、いい匂いがする」
ジンさんが、ぽつりと呟きました。
その言葉たちが、私の心の奥底にこびりついていた、冷たくて暗い泥のようなトラウマを、静かに洗い流してくれました。
私が家族のために手間をかけている、この煮洗いの匂い。
健一にとっては『不快な生活臭』であり、私を貶めるための材料でしかなかったこの匂いを。
彼らは『安心する匂い』だと言って、全肯定してくれたのです。
「……あ、あはは……っ」
私は、肩にかけられたジンさんの外套をぎゅっと握りしめながら、思わず声を上げて笑ってしまいました。
「かすみさん?」
「ふふっ……ごめんなさい、なんでもないんです。ただ、皆さんが優しすぎて、なんだか可笑しくなっちゃって」
私は立ち上がり、大きく一つ深呼吸をしました。
もう、大丈夫。
ステンレスのキッチンの冷たさも、健一の不機嫌なため息も、ここにはありません。
私は今、私を必要とし、私の労働の価値を心から尊んでくれる人たちの真ん中にいるのです。
「心配かけてすみませんでした。もうすっかり元気です! さあ、煮洗いも終わったみたいですから、一気に干してしまいましょう!」
私が袖をまくり直して大鍋に向かうと、五人の騎士たちは「手伝います!」と一斉に動き出しました。
「俺が絞ります! 力仕事は任せてください!」
「……布の繊維を傷めないよう、均等な力で脱水する必要がある。私が指示を出そう」
「火はもう止めていいんだろ? 俺が消しとくわ」
「僕はお姉ちゃんにタオルを渡す係!」
「……干すのは、俺がやる」
王国最強の騎士たちが、湯気を上げる熱いタオルを不器用に、けれど一生懸命に絞り、ロープに干していきます。
パァンッ、パァンッ。
シワを伸ばす小気味良い音が、裏庭に響き渡ります。
やがて、裏庭のロープには、数十枚の真っ白なタオルがずらりと並びました。
太陽の光を浴びて輝くその白い布たちは、見ているだけで心が洗われるような、圧倒的な『整う快感』を与えてくれます。
「……綺麗ですね」
私が眩しそうに見上げていると、隣に並んだルーカスさんが「はいっ!」と元気よく頷きました。
「これでまた、かすみさんのいい匂いのするタオルが使えます! ……あ、でも、もう勝手に部屋に持ち込むのはやめますからね!」
「当たり前です。次やったら、夕食のお肉抜きですからね」
私がわざとらしく睨むと、ルーカスさんをはじめ、五人全員が「それだけは勘弁してください!」と本気で青ざめました。
その騒がしいやり取りの中で、私は気づいていました。
(私……今はもう、泣かずにいられる)
過去の記憶がフラッシュバックして、一瞬だけ恐怖に呑まれそうになったけれど。
今の私は、こうしてすぐに現実の温かさに引き戻り、笑い飛ばすことができる。
自分の作り出した日常が、どれほど彼らに愛され、私自身の盾となって私を守ってくれているかを知っているからです。
「さて、お洗濯も終わりましたし、おやつにしましょうか」
私が言うと、五人は「やった!」と歓声を上げて食堂へと向かっていきました。
その背中を見送りながら、私はふと、肌に当たる風が少しだけ冷たくなっていることに気がつきました。
見上げれば、空は高く澄み渡り、秋から冬へと季節が移り変わろうとしています。
「……そろそろ、冬支度を始めないといけませんね」
第七分隊の寮に来てから、初めて迎える冬。
みんなの分厚いコートや毛布を出して、干して、綻びがないか確認しなければ。
やるべきことはたくさんありますが、そのどれもが、私にとっては楽しくて愛おしい『仕事』です。
私は、足取りも軽く、彼らの待つ食堂へと戻っていったのでした。
(続く)




