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夫に捨てられた専業主婦ですが、異世界騎士団の寮母になったらイケメン達が全員ダメ男でした  作者: 他力本願寺


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第33話 無口な諜報員と、静かな買い物

朝の厨房は、一日のうちで最も戦場に近い場所です。

私はまな板に向かい、トントンと小気味良い音を立てて、大きくて固い『土芋(つちいも)』を切り分けていました。


今日の昼食は、このお芋と豚肉を甘辛く煮込んだ、体力勝負の騎士たちにぴったりのメニューにする予定です。


「よし、次は少し厚めに……」


力を込めて包丁を押し込んだ、その瞬間でした。


ピキッ。


嫌な音と共に、手元にカクンと不自然な衝撃が走りました。

驚いて包丁の刃先を持ち上げてみると、鋼の刃の中央部分が、小さく欠けてしまっていたのです。


「ああ……刃こぼれしちゃった」


思わず、深いため息が漏れました。

この包丁は、私が寮母として着任した時からずっと厨房にあった備品です。

おそらく何年も手入れされずに放置されていたもので、私が毎日研いでだましだまし使っていましたが、ついに金属の寿命が来てしまったようでした。


『おい、飯まだかよ! 手際が悪いのは道具のせいにするなよな』


ふいに、前世の夫の心無い言葉が蘇りました。

健一は、家事に使う道具にお金をかけることを極端に嫌いました。

私が「新しいフライパンが欲しい」と言っても、「お前の使い方が雑だから焦げるんだろ。無駄遣いするな」と一蹴され、私はいつも焦げ付く鍋と切れ味の悪い包丁で、毎日の食事を作らされていたのです。


「……マチルダさんに頼んで、新しいものを買ってもらう申請を出さなくちゃ」


気を取り直して、私は欠けた包丁をそっと布で包みました。

今日のところは、少し小さめの果物ナイフで代用するしかなさそうです。


スッ……。


「えっ?」


背後から、音もなく黒い影が伸びてきて、私の手元を覗き込みました。

漆黒の任務服ではなく、今日は少しラフな黒の私服に身を包んだ、諜報員のジンさんでした。


「ジ、ジンさん? おはようございます。今日は非番でしたよね?」


私が驚いて振り返ると、ジンさんは私の手にある布で包まれた包丁と、切りかけの土芋を交互に見つめました。


「……刃が、欠けたのか」


「はい。古いものだったので、寿命みたいです。今日の料理は別のナイフでなんとかなりますから、心配しないでくださいね」


私が微笑んで答えると、ジンさんは短く「……そうか」とだけ呟き、そのままクルリと背を向けて食堂を出て行ってしまいました。

相変わらず、風のように現れては消える人です。


それから数時間後。

無事に昼食の準備を終え、皆に食事を出し終えた私が一息ついていると。


「……かすみ」


厨房の入り口に、再びジンさんが姿を現しました。

彼は無言のまま、私の前に歩み寄り、そして。


「……行くぞ」


「えっ? 行くって、どこにですか?」


「……市場の、鍛冶屋だ。……あんたの包丁を、買いに行く」


「ええっ!?」


私は目を丸くしました。

私が新しい包丁を必要としていると知って、わざわざ自分の非番の時間を割いて、買い出しに付き合ってくれるというのでしょうか。


「で、でも、包丁なら後日、私が一人で市場に行った時にでも……」


「……だめだ。……不便だろう。……それに」


ジンさんは、私の顔をじっと見下ろし、低い声で言いました。


「……俺たちの飯を作る、……大事な道具だ。……適当なものは、使わせない」


その真っ直ぐで真剣な灰色の瞳に見つめられ、私は小さく息を呑みました。

私の労働の価値を、彼が誰よりも重く受け止めてくれていることが伝わってきたからです。


「……はい。じゃあ、お言葉に甘えて、一緒に行ってもらえますか?」


私が頷くと、ジンさんは微かに口角を上げ、「……あぁ」と優しく答えました。


* * *


王都の市場は、今日もたくさんの人でごった返していました。

特に、鍛冶屋や刃物職人が集まる職人街は、馬車や荷車が行き交い、怒号にも似た威勢の良い声が飛び交っています。


「わっ……すごい人ですね」


私が人波に揉まれそうになった瞬間。

スッ、と私の背中に、ジンさんの大きく温かい手が添えられました。


「……こっちだ。……離れるな」


彼は私を自分の体の内側――荷車や人混みがぶつからない、安全な壁側――へとそっと誘導し、歩幅を合わせて歩き始めました。


彼は言葉で「危ないからこっちへ来い」とは言いません。

ただ、ぶつかりそうになる通行人から私を庇うように立ち位置を変え、さりげない動作で、私をすべての危険から守ってくれるのです。


その静かで大人な気遣いに、私は胸の奥がキュンと甘く疼くのを感じました。


やがて、私たちは一軒の立派な鍛冶屋の前で立ち止まりました。

カンッ、カンッ!と鉄を打つ小気味良い音が響き、奥の炉からは熱気がむわっと押し寄せてきます。


「おお、第七分隊の旦那じゃねえか。今日は暗殺用のナイフのお手入れかい?」


筋骨隆々の鍛冶屋の店主が、ジンさんを見てニカッと笑いました。


「……違う。……彼女の、包丁を頼む」


ジンさんが私を前に押し出すと、店主は「ほう」と興味深そうに私を見ました。


「あんたが噂の、第七分隊の寮母さんか! なるほど、そりゃあ最高の一本を見立ててやらないとな。どんなのがいい?」


店主がカウンターに、大小様々なピカピカの包丁を何本も並べてくれました。


「えっと……お肉も野菜も切りやすくて、あまり重すぎないものがいいのですが」


私がどれにしようか迷っていると、ジンさんが横からスッと手を伸ばし、一本の包丁を手に取りました。


「……持ってみてくれ」


彼が差し出したのは、刃の幅が少し広く、柄の部分が手になじむように滑らかな木でできている包丁でした。


「はい」


私がそれを受け取ると、ジンさんは私の背後に回り込みました。

そして、包丁の柄を握る私の右手を、彼自身の大きな手でそっと包み込むようにして握ったのです。


「ひゃっ……!」


突然の密着に、私は思わず肩をビクッと震わせてしまいました。

彼の少しひんやりとした、けれど剣ダコのある男らしい手が、私の手首から手の甲にかけて、ぴったりと重なっています。


「……どうだ。……重くないか?」


耳元で、彼が低く囁きました。

その吐息がうなじにかかり、私の顔は一瞬にして沸騰したように熱くなってしまいました。


「あ、あの、ジンさん……近いです……っ」


「……柄の太さは、どうだ。……あんたの手に、合っているか?」


私の抗議など全く聞こえていないかのように、彼は至極真面目な声で尋ねてきます。

どうやら彼は、私の手の大きさと握力に合わせて、最も使いやすい重心の包丁を見極めようとしてくれているらしいのです。


「……少し、柄が太いかもしれません。長時間握っていると、親指の付け根が痛くなりそうで……」


私が恥ずかしさを堪えて正直に答えると、ジンさんは「……分かった」と私の手を離し、すぐに別の包丁を手に取りました。


「……これは?」


再び彼の手が私の手を包み込みます。

今度は、驚くほど手にしっくりと馴染み、重さもまったく気になりませんでした。


「あっ、これ……すごく握りやすいです。手に吸い付くみたいにぴったりで」


「……よし。……親父、これをもらう」


私がパッと笑顔を向けると、ジンさんは迷うことなく店主に告げました。


「おう、毎度あり! 一番いい鋼を使った、極上の一本だぜ!」


私がエプロンのポケットからお財布を出そうとした瞬間。

ジンさんは、すでに自分の革袋から銀貨を数枚取り出し、カウンターに置いていました。


「えっ、ジンさん!? だめですよ、これは寮の備品ですから、私がマチルダさんに申請して……」


「……俺が、買いたいんだ」


ジンさんは、綺麗に布で包まれた新しい包丁を受け取り、私に向き直りました。


「……あんたが、俺たちのために美味しい飯を作ってくれる。……そのための道具を、……俺が、贈りたかった」


その不器用で、けれど真っ直ぐな言葉に。

私は、お財布を持ったまま、完全に言葉を失ってしまいました。


『お前の使い方が雑だからだろ』と言われた前世。

自分のための道具を新調することすら、許されなかった私。


けれど今、目の前にいるこの人は。

私の労働の価値を尊び、私の小さな手に最も馴染む道具を、彼自身の時間とお金を使って、真剣に選び抜いてくれたのです。


「……ジンさん」


胸の奥が、温かいものでいっぱいになり、視界が少しだけ滲みました。


「……ありがとうございます。私、この包丁を使って、今夜はジンさんの大好きな、お肉の香草焼きをたくさん作りますね」


私が涙をこらえて最高の笑顔を向けると。

ジンさんは、ほんの一瞬だけ目を見開き、そして、フッと優しく、本当に優しく微笑みました。


「……あぁ。……楽しみにしてる」


帰り道、人混みの中で私を守るように歩いてくれる彼の大きな背中を見つめながら。

私は、新しく手に入れた包丁の重みが、彼からの『信頼』という名の愛情のように思えて、大切に、大切に胸に抱きしめていました。


* * *


温かくて静かな買い物から、寮へ帰還した私たち。

玄関の扉を開けた瞬間、その穏やかな空気は一変しました。


「かすみさんっ!! 大変です!!」


ルーカスさんが、なぜか頭に泡を乗せたまま、半泣きで廊下を走ってきました。


「ル、ルーカスさん!? どうしたんですか、その頭! お風呂の途中ですか!?」


「そうなんです! 顔を洗おうとしたら、脱衣所にあったはずの新しいタオルが……一枚残らず消え失せてるんです!!」


「ええっ!?」


「……論理的に考えて、密室からの備品の集団消失はあり得ない。何者かによる窃盗の可能性がある」

セオドアさんが、真剣な顔で壁を調べ始めています。


静かで甘い時間は、どうやらここまでだったようです。

私は新しい包丁をしっかりと握り直し、第七分隊に巻き起こる新たなトラブルの解決へと、再び寮母の顔に戻ったのでした。


(続く)

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