第32話 「家事は誰でもできる」とは、もう言わせません
王宮の敷地内にある、新兵用の大講義室。
私は今、数十人の若き騎士の卵たちを前に、教壇に立っていました。
「――というわけで、今日から週に一度、皆さんに『野営と生活管理の基本』を教えに来てくださる、第七分隊寮母の香澄先生よ」
王宮人事官のマチルダさんが私を紹介すると、講義室に集まった新兵たちから、ヒソヒソと困惑の声が漏れ始めました。
彼らは皆、厳しい訓練をくぐり抜けてきた十代後半から二十代前半の血気盛んな若者たちです。
教壇に立つ私が、特別な魔力も武術の心得もない、ただの地味な平民の三十代女性であることは、一目で分かったのでしょう。
「あのさぁ……」
最前列に座っていた、体格の良い赤毛の新兵が、あからさまに不満そうな顔で挙手もせずに口を開きました。
「俺たち、剣を振って魔物を倒すために騎士団に入ったんスよ。なんでこんなおばさんに、女のやるような雑用を教わらなきゃなんないんスか? そんな暇があったら、一回でも多く素振りしたいんですけど」
その言葉に、周りの新兵たちも「そうだそうだ」「洗濯なんて適当でいいだろ」と同調し始めます。
『おい、お前が毎日やってる掃除だの洗濯だの、そんなの誰がやったって同じだろ? ただの底辺の作業じゃないか』
ふいに、前世の夫である健一の声が脳裏をよぎりました。
家事は、生産性のない雑用。
誰にでもできる、価値の低い労働。
十二年間、そう言われ続けてきた私は、少し前までなら、彼らの見下すような視線に耐えきれず、萎縮してしまっていたかもしれません。
でも、今の私は。
王国最強と呼ばれるあの不器用で愛おしい五人の騎士たちの、命と生活を預かっている『奇跡の寮母』です。
私はマチルダさんに「大丈夫です」と目配せをし、ゆっくりと教壇の前に進み出ました。
「……あなたがたは、剣の振り方は一生懸命に練習してきたようですね。では、お聞きします」
私は、静かに、けれど講義室の隅々まで通る声で問いかけました。
「魔物の血や泥がべっとりとついた鎧を、そのままにして寝たらどうなりますか?」
「え……?」
赤毛の新兵が、不意を突かれたように言葉を詰まらせました。
「そりゃあ……錆びるか、革が腐るか……」
「そうですね。では、錆びて関節部分の動きが悪くなった鎧を着て、次の日、魔物の素早い一撃を避けられますか? 泥を吸って本来の何倍も重くなったマントを羽織って、何時間も行軍できますか?」
「うっ……」
「野営の時、泥だらけの手でご飯を食べたらどうなりますか? お腹を下して、高熱を出しますね。もし、部隊の半数が感染症にかかって動けなくなったら、残りの半数でどうやって敵を倒すんですか?」
講義室の中が、水を打ったように静まり返りました。
私は、新兵たちの顔を一人ひとり、ゆっくりと見渡しながら言葉を紡ぎます。
「『雑用』だと、あなたがたは言いましたね」
私の声に、怒りはありませんでした。
ただ、三十五年間、生きて、生活を回してきた者としての確かな『重み』だけが乗っていました。
「間違った洗濯をして制服を縮ませれば、剣を振る可動域が狭まります。
食事を抜いて糖分が不足すれば、戦術の計算式が狂い、判断が遅れます。
部屋が散らかっていれば、魔力経路が塞がれて暴発の危険が高まります。
偏食で栄養が偏れば、治癒魔法の回復量は半減します。
睡眠が足りなければ、索敵の範囲が極端に狭まります」
私が挙げたのはすべて、第七分隊の彼らが実際に陥っていた危機です。
彼らのような天才でさえ、土台が崩れれば命を落としかけるのです。ましてや、これからの若者たちなら尚更でしょう。
「あなたがたが言う『雑用』とは、あなたがたが明日も生きて剣を振るための、最大の『防具』なんです。……自分の命を守るための管理すらできない人が、どうして国や誰かを守れると言うんですか?」
私の言葉が講義室に響き渡ると、新兵たちは完全に圧倒され、誰一人として口を開くことができませんでした。
先ほどまで反抗的だった赤毛の新兵も、ハッとしたように目を見開き、そして、姿勢を正しました。
「……だから、私は今日、皆さんに『死なないための生活の術』を教えに来ました。……話を聞く準備は、できましたか?」
私が微笑んで問いかけると。
「……っ、はい!! よろしくお願いします、先生!!」
赤毛の新兵が大きな声で返事をし、他の新兵たちも慌てて筆記用具を取り出し、真剣な眼差しを私に向けました。
そこからの講義は、とてもスムーズでした。
血や泥汚れの効率的な落とし方、少ない水での体の清め方、野営地での干し肉の戻し方や、魔力が回復しやすい食材の組み合わせ。
私が主婦として培ってきた、ただの『生活の知恵』。
それが今、この国の若き騎士たちの命を繋ぐ『戦術』として、熱心にノートに書き留められているのです。
「はい、今日の講義はここまでです。お疲れ様でした」
私が締めくくると、新兵たちは全員立ち上がり、深々と頭を下げてくれました。
「ありがとうございました!」
「先生、来週は『月麦』の美味しい炊き方を教えてください!」
彼らの尊敬の眼差しを浴びながら、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていました。
『お前は家事しかできない』
健一からかけられたあの呪いの言葉は、もう、私の心を縛ることはありません。
私は、私のやってきたことを誇りに思います。
家事は、誰かの命を支え、未来を温める、本当に尊い仕事なのだと、胸を張って言えるようになったのです。
* * *
講義が終わり、王宮を出る頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていました。
冬の足音が近づく冷たい風が、火照った頬を撫でていきます。
「ふう……さすがに、少し疲れちゃったな」
私は、実演で使った重い鍋や、汚れ落としの薬品が入った大きな麻袋を両手で抱えながら、第七分隊の寮へと続く石畳を歩いていました。
講義中は気を張っていましたが、数十人の前で喋り続けるというのは、想像以上に体力を消耗するものです。
「早く帰って、みんなのご飯を作らないと……」
少しだけ腕が痛くなり、荷物を持ち直そうと立ち止まった、その時でした。
スッ……。
私の隣に、音もなく黒い影が落ちました。
「え?」
振り返るよりも早く、私の両手から、ずっしりと重かった麻袋がふわりと浮き上がり、奪われました。
「……あ」
そこに立っていたのは、いつもの漆黒の任務服に身を包んだ、諜報員のジンさんでした。
灰色の瞳が、静かに私を見下ろしています。
「ジ、ジンさん? どうしてここに……お仕事の帰りですか?」
「……迎えに、来た」
彼は短くそう言うと、私の重い荷物を片手で軽々と持ち上げ、もう片方の手を、私の背中にそっと添えました。
「えっ、でも、これ重いですし……」
「……これくらい、羽と同じだ。……あんたは、疲れてる」
ジンさんは、私が何かを言う前に、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めました。
その横顔は相変わらず無表情で、口数も少ないけれど。
彼が私を気遣って、わざわざここまで迎えに来てくれたという事実が、私の心を強く打ちました。
冷たい夕暮れの風の中、彼の大きな体から、微かに星降草の安心する香りと、男の人特有の温かい体温が伝わってきます。
「……ありがとうございます、ジンさん」
私が小さくお礼を言うと、ジンさんは前を向いたまま、ほんの少しだけ口角を上げました。
「……あんたの、……声がした」
「私の声?」
「……講義室の、外で。……あんたが、堂々と話してる声が……聞こえた。……すごく、綺麗だった」
ジンさんの言葉に、私は思わず立ち止まりそうになりました。
彼は、私が新兵たちに向かって語っていたあの言葉を、外でずっと聞いていてくれたのでしょうか。
「……俺たちの寮母は、……世界で一番、かっこいい」
ボソリと呟かれたその言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸を激しく高鳴らせました。
「……っ」
私は顔が赤くなるのを必死に隠しながら、急いで彼に並んで歩き出しました。
「もう……ジンさんは、たまにずるいことを言いますね」
「……事実を、言っただけだ」
夕日に照らされた長い影が、石畳の上に二つ並んで伸びていきます。
荷物を持ってもらい、隣を歩いてくれる誰かがいる。
ただそれだけのことが、こんなにも幸せだなんて。
「……ジンさん」
「ん?」
「今日の夕食は、何が食べたいですか?」
私が尋ねると、ジンさんは少しだけ考えて、静かに答えました。
「……あんたが、……作ってくれるものなら、なんでもいい」
私たちは、小さく笑い合いながら、温かい光が待つ『私たちの家』へと、歩みを進めました。
(続く)




