第31話 第七分隊の寮が、他分隊に見学されることになりました
よく晴れた、気持ちの良い朝。
私はいつものように早起きをして、第七分隊寮の玄関ホールと廊下の水拭きをしていました。
バケツの水に、殺菌と防虫効果のあるハーブの汁を数滴垂らします。
固く絞った雑巾で木目の床を丁寧に磨き上げていくと、くすんでいた木板がツヤツヤと輝きを取り戻し、廊下全体に清々しい香りが広がっていきます。
『お前、毎日毎日床なんか磨いて、本当に暇なんだな。そんなの誰がやったって同じだろ』
前世の夫である健一は、私が掃除をしている背中を見て、よく鼻で笑っていました。
彼にとって、家事とは『やって当たり前の底辺の作業』であり、そこに技術や価値など存在しないと思っていたのです。
「誰がやっても同じ、なんてことないのに……」
私は小さく呟きながら、ピカピカになった床を見てふうっと息を吐きました。
誰がやっても同じなら、この寮は私が来るまであんなゴミ屋敷や魔境にはなっていなかったはずです。
日々の小さな手入れの積み重ねが、住む人の心と体を整える。そのことを、私はこの異世界に来て、第七分隊の皆さんに教えてもらいました。
「香澄、おはよう。朝から精が出るわね」
ふいに、開け放たれた玄関の扉から声がしました。
顔を上げると、王宮人事官のマチルダさんが立っています。
そしてなぜか彼女の後ろには、見慣れない制服を着た、屈強な騎士たちが数名、おずおずと控えていました。
「マチルダさん、おはようございます。その後ろの方々は……?」
私が首を傾げると、マチルダさんはやれやれといった様子で肩をすくめました。
「第三分隊と、第五分隊の連中よ。最近、第七分隊の連中があまりにも規則正しく、しかも異常なほど戦績を上げているものだから……『第七分隊がどんな魔法薬を使っているのか、寮を偵察させろ』って、王宮で大騒ぎになってね」
「魔法薬だなんて、そんな物ありませんよ」
「分かってるわよ。でも、百聞は一見にしかずって言うじゃない? だから、彼らに実際の寮の様子を見学させようと思って連れてきたの」
マチルダさんが促すと、他分隊の騎士たちは恐る恐る寮の中へと足を踏み入れました。
そして、玄関ホールを見渡した瞬間。
「……な、なんだここは」
「嘘だろ。本当に、あの『第七分隊』の寮なのか……?」
彼らは、まるで信じられない異次元空間にでも迷い込んだかのように、目を丸くして立ち尽くしました。
「靴が……あの狂犬どもが脱ぎ散らかしていた泥だらけのブーツが、壁際に真っ直ぐ揃えられているだと!?」
「それに、なんだこの床は! 血の匂いも、焦げた匂いもしない! 森の中のように空気が澄んでいて、床に自分の顔が映るくらい磨き上げられているじゃないか!」
彼らは、私がさっき磨き上げたばかりの床に這いつくばるような勢いで、ツヤツヤの木目を凝視しています。
「あ、あの、床は毎日水拭きして、週に一度は蜜蝋を塗り込んでいるだけですよ?」
私が不思議に思って声をかけると、騎士たちはビクッと肩を震わせ、私をまじまじと見つめました。
「あ、あなたが……噂の、第七分隊の新しい寮母殿ですか?」
「はい。香澄と申します。いつもうちの団員たちがお世話になっています」
私がペコリと頭を下げると、彼らは顔を見合わせ、ゴクリと生唾を飲み込みました。
「見学、ですよね。どうぞ、中を見ていってください。皆さんは今朝の訓練に出ているので、誰もいませんから」
私が案内して談話室の扉を開けると、彼らは再び驚愕の声を上げました。
「ヒィッ! ま、魔導具が……属性ごとに分類されて、安全な木箱に収納されている!? あのカイル・ブラックウッドが、自分の魔導書を山積みにしていないだと!?」
「それに見てみろ、このソファの上のクッション。誰かが綺麗に並べ直した跡がある。あの自己中心的な連中が、共有スペースを乱さずに使っているというのか……」
彼らにとって、第七分隊とは『近づけば怪我をする猛獣の檻』のような認識だったのでしょう。
それが今や、陽の光が差し込み、塵一つ落ちていない、暖かくて安全な「家」になっている。その事実が、彼らの常識を根底から覆しているようでした。
「あ、ちょうど良かったです。お茶を淹れますね。少し多めに作っておいた、焼き菓子もあるんです」
私は厨房へと向かい、温かいハーブティーと、蜂蜜をたっぷり塗って焼き上げた『月麦』のラスクをテーブルに運びました。
「どうぞ、遠慮なく召し上がってください。訓練の後の糖分補給にぴったりですよ」
私が微笑んで勧めると、騎士たちは恐る恐るラスクに手を伸ばし、一口かじりました。
「……っ!!」
ガタッ、と。
一人の騎士が、勢いよく立ち上がりました。
「な、なんだこれは……! サクサクとした食感の後に、蜂蜜の濃厚な甘さと、微かな塩気が口の中に広がって……疲れが、一瞬で吹き飛ぶようだ……!」
「それに、このお茶! ただのハーブの煮出し汁じゃない。飲むだけで、ささくれ立っていた神経が嘘のように穏やかになっていく……!」
彼らは、まるで神様の食べ物でも口にしたかのように、涙ぐみながらラスクを頬張り始めました。
彼らの寮の食事がどれほど味気ないものなのか、想像に難くありません。
「なるほど、理解した」
第三分隊の騎士が、震える声で言いました。
「彼らを強くしていたのは、違法な魔法薬なんかじゃない。……この、完璧に管理された清潔な環境と、魂まで救われるような美味しい食事……これこそが、第七分隊の異常な強さの『秘密』だったんだ」
彼らは、私の方に向き直りました。
その目には、畏敬の念すら浮かんでいます。
『誰がやったって同じだろ』
そう言われ続けてきた私の家事が。三十五年間、ただ黙々と繰り返してきた私の日常の労働が。
今、この王国のエリート騎士たちから、戦局を左右するほどの『規格外の能力』として、真っ向から肯定されているのです。
胸の奥が、熱くなりました。
私という人間の生きてきた証が、ようやく報われたような気がして、視界が少しだけ滲みます。
その時でした。
ガシッ!
「……っ!?」
第三分隊の騎士が、突然私の両手を強く握りしめました。
そして、その場にガバッと膝をつき、必死の形相で私を見上げたのです。
「香澄殿! いや、香澄女神様!!」
「め、女神!?」
「お願いします! 給料は今の三倍……いや、五倍出します! どうか、どうか我々第三分隊の寮母になってくれませんか!!」
「抜け駆けはずるいぞ! 第五分隊は十倍出す! 一生、あなたを王族のように扱います! どうか我々の寮を、この地獄から救ってください!!」
大の男たちが、床に額を擦り付けるような勢いで私に懇願してきます。
「えっ、あ、あの、急に言われましても……私は、第七分隊との契約が……」
私が戸惑って後ろに下がろうとした、まさにその瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
玄関の方から、背筋が凍るような、凄まじい殺気と魔力の圧が押し寄せてきました。
「ひっ!?」
他分隊の騎士たちが、悲鳴を上げて振り返ります。
そこに立っていたのは。
朝の訓練を終えて帰ってきた、第七分隊の五人の騎士たちでした。
「……おい。てめぇら、俺たちのかすみさんに、その汚ねぇ手で何触ってんだ?」
魔導師のカイルくんが、全身から紫色の魔力の火花をバチバチと散らしながら、地を這うような声で凄みます。
「……論理的に考えて、他分隊の専属職員に対する無許可の接触および引き抜き行為は、重罪に値する。今すぐその腕を切り落とされたくなければ、離れたまえ」
副隊長のセオドアさんが、銀縁眼鏡の奥の目を絶対零度に冷やして剣の柄に手をかけました。
「お姉ちゃんは僕のなの! 絶対に渡さないんだから!」
ノエルくんが、私の腰にギュッと抱きつき、他分隊の騎士たちを威嚇します。
「……消えろ」
ジンさんは、いつの間にか他分隊の騎士たちの背後に回り込み、音もなく暗殺用のナイフを弄んでいました。
そして。
「……俺たちの『家』の心臓を奪おうとするなんて、随分といい度胸ですね」
隊長のルーカスさんが、いつもの爽やかな笑顔を完全に消し去り、空気が凍りつくような冷酷な瞳で、彼らを見下ろしていました。
その圧倒的な狂犬ぶりと、過剰すぎるほどの執着心に、他分隊の騎士たちは完全に腰を抜かしてしまいました。
「ひぃぃぃぃっ! も、申し訳ありませんでしたぁぁ!!」
彼らは悲鳴を上げながら、転がるようにして寮から逃げ出していきました。
「もう……皆さん、やりすぎですよ。他のお客様なんですから」
私が苦笑しながら注意すると、五人は一瞬にしていつもの表情に戻り、「だってかすみさんが取られそうだったから!」と口々に言い訳を始めました。
「はぁ……本当に、騒がしい連中ね」
呆れたようにため息をついたマチルダさんが、私の方を向いて言いました。
「でも、これではっきりしたわ。あなたの『生活管理能力』は、王国の軍事力を底上げするほどの価値がある。……香澄、あなたにお願いがあるの」
「お願い、ですか?」
マチルダさんは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべました。
「来月から入隊してくる新兵たちに向けて、あなたが『生活管理の基本』の講習をやってみない? もちろん、特別手当は弾むわよ」
「私が、新兵の皆さんに講習を……?」
ただの専業主婦だった私が、王国の騎士たちに授業をする。
少し前なら「私なんて」と逃げ出していたかもしれません。
でも今の私には、この五人の騎士たちが証明してくれた『自信』がありました。
「はい。私にできることなら、喜んでお引き受けします!」
私が胸を張って答えると、五人の騎士たちは「かすみさん、すげぇ!」と自分のことのように喜び、私を囲んで大騒ぎを始めたのでした。
(続く)




