第29話 自分を治せない回復術師は、今日も無茶をします
カイルくんの香り袋を巡る騒がしい朝が過ぎ、第七分隊の面々はそれぞれの任務へと出かけていきました。
「ノエルくん、今日はおやつを用意して待っていますから、無理しないで帰ってきてくださいね」
玄関でそう声をかけると、ノエルくんは「うん! 行ってきます、お姉ちゃん!」と満面の笑みで手を振り返してくれました。
最近は三食きちんとご飯を食べるようになり、顔色も随分と良くなっていたので、私は安心して彼を送り出しました。
しかし、その日の夕方。
「かすみさんっ! 救急箱と、温かい毛布をお願いします!」
バンッ!と玄関の扉が蹴り開けられ、泥だらけのルーカスさんが飛び込んできました。
彼の広い背中には、ぐったりと力なくうなだれるノエルくんがおぶさっていました。
「ノエルくん!? どうしたんですか、怪我!?」
「怪我じゃないです。魔力枯渇の極限状態です! 今日、合同演習で事故があって……ノエルが、怪我人を全員治癒して回って、そのままぶっ倒れたんです!」
ルーカスさんの焦った声に、私は血の気が引くのを感じました。
急いで一階にあるノエルくんの部屋の扉を開け、ベッドに彼を寝かせます。
「ノエルくん、ノエルくん! 分かりますか!?」
彼の顔は、透き通るような白さを通り越して、死人のように青ざめていました。
額には冷たい脂汗が浮かび、呼吸は浅く、指先は氷のように冷え切っています。
「ルーカスさん、毛布をもう一枚! それから、すぐに栄養のあるものを作ってきます!」
私は大急ぎで厨房へ向かいました。
魔力枯渇の回復には、良質な糖分と栄養が必要です。
私は小鍋にたっぷりのミルクを入れ、『火鶏卵』の黄身と蜂蜜を加えて温めました。そこに、消化を助ける甘い果実のすりおろしを混ぜ込み、香りの良い『月橘』の汁を数滴垂らします。
冷え切った体を内側から温め、即座に魔力に変換される特製のホットエッグミルクです。
「ノエルくん、飲めますか?」
部屋に戻り、ベッドの縁に腰掛けて彼の体をそっと抱き起こします。
ノエルくんは薄く目を開けましたが、焦点が定まっていません。
「……おねえ、ちゃん……」
「はい、お姉ちゃんですよ。ゆっくりでいいから、これを飲んでください」
スプーンで少しずつ温かいミルクを口に運ぶと、ノエルくんは反射的にそれをこくりと飲み込みました。
何度か繰り返すうちに、少しずつ、本当に少しずつですが、彼の頬に血の気が戻ってきました。
「……ん……ごめんなさい、お姉ちゃん……」
カップが半分ほど空になった頃、ノエルくんは私の胸に顔を埋め、消え入りそうな声で呟きました。
「おやつ、食べるって約束したのに……帰るの、遅くなっちゃった……」
そんな極限状態でも、私の作ったおやつのことを気にしてくれている彼に、私は怒りと悲しみが入り混じったような、複雑な感情を抱きました。
「どうして、ここまで無理をしたんですか」
私はカップを机に置き、彼を抱きしめたまま、静かに問いかけました。
「ルーカスさんから聞きましたよ。演習の事故で、自分の魔力の限界を超えてまで、全員を治癒したそうですね。……少し休んでからとか、他の治癒士と交代するとか、方法はあったはずです」
「だって……」
ノエルくんの細い指が、私のエプロンをぎゅっと握りしめました。
「血が出てて、痛がってる人たちを見たら……僕がやらなきゃって。僕の魔力を使えば、みんなの痛いのがなくなるから……」
「だからって、自分が倒れるまで魔力を絞り出したら、本末転倒でしょう?」
「でも……僕が少し我慢すれば、みんな助かるんだもん。神殿にいた時も、ずっとそう言われてた。『お前の痛みは、大勢の命には代えられない』って。だから、僕が我慢するのは……当たり前なの」
彼の言葉を聞いて、私は息を呑みました。
末っ子気質で、わがままで、甘えん坊。
お菓子ばかり食べて、面倒なことを嫌がる子ども。
それが、ノエルくんの表向きの姿でした。
けれど、本当は違ったのです。
彼は「誰かを助けたい」「自分さえ我慢すれば丸く収まる」という、恐ろしいほどの献身と自己犠牲の精神を、その細い体の中に隠し持っていたのです。
神殿という場所で、ただの『治癒の道具』として扱われてきた彼にとって、自分を削って他人を癒すことは、息をするのと同じくらい『当たり前の義務』になってしまっていたのでしょう。
『お前が俺のために動くのは当たり前だろ! 俺が稼いできた金で食わせてもらってるんだからな!』
不意に、前世の夫である健一の言葉が脳裏に蘇りました。
高熱を出しても休ませてもらえず、家族のために自分を削り続けるのが『主婦の義務』だと思い込まされていた私。
誰かのために自分を犠牲にすることを、無自覚に受け入れてしまっていた、かつての私。
だからこそ、私は。
彼のこの危うい自己犠牲を、絶対に許すわけにはいきませんでした。
「……ノエルくん」
私は彼の肩を掴み、少しだけ体を離して、真っ直ぐに彼の紫色の瞳を見つめました。
「お姉ちゃんの目を見てください」
「……お姉ちゃん、怒ってる……?」
「はい。すごく怒っていますし、すごく悲しいです」
私がはっきりと告げると、ノエルくんは不安げに目を潤ませました。
「いいですか、ノエルくん。自分が傷ついても他人が助かればいいなんて、そんなの絶対に間違っています」
「でも、僕の魔力は、治癒のために……」
「治癒魔法は、ノエルくんの命を削って使うものじゃありません! あなたが倒れたら、あなたを心配して、悲しむ人がここにいるんです!」
私は、思わず声を荒らげていました。
「ノエルくんがボロボロになって帰ってきた時、私がどれだけ怖い思いをしたか分かりますか? 自分が我慢すればいいなんて、そんな悲しいこと、二度と言わないでください。……あなた自身の命を、体を、もっと大切にしてください!」
私の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちました。
ノエルくんは驚いたように目を丸くし、そして、震える手で私の頬の涙を拭ってくれました。
「……お姉ちゃんが、泣いてる。僕の、ために……?」
「当たり前です! 大切な弟みたいなあなたが倒れたら、泣くに決まってるじゃないですか!」
「……っ」
ノエルくんの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出しました。
彼は嗚咽を漏らしながら、私の首にすがりついてきました。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、お姉ちゃん……! 僕、お姉ちゃんを泣かせるつもりなんて、なかったの……!」
「分かっています。ノエルくんが優しい子だってこと、私はちゃんと分かっていますよ」
私は彼の銀色の髪を優しく撫でながら、背中をポンポンと叩きました。
「……僕、誰も僕のこと心配してくれないと思ってた。治癒魔法が使える『道具』だから、壊れるまで使われるのが当たり前だって……」
「ここは神殿じゃありません。第七分隊の寮です。そして、私は口うるさい寮母です。道具なんて言わせませんよ」
私は彼を少しだけ離し、涙を拭ってあげてから、ビシッと言い渡しました。
「今日から、新しいルールを作ります。ノエルくんの『食事・睡眠・回復魔法の使用量』の管理表を壁に貼りますからね!」
「えっ? 管理表?」
「はい! 朝昼晩ご飯をちゃんと食べて、しっかり眠れた日じゃないと、大規模な治癒魔法の使用は禁止です! 魔力が基準値まで回復していない時は、私がストップをかけます!」
私が腕を組んで宣言すると、ノエルくんはぽかんとした後、ふにゃりと、心底安心したような、とろけるような笑顔を浮かべました。
「……うん。分かった。僕、お姉ちゃんの言うこと、全部聞く」
管理され、制限されること。
普通なら嫌がるようなことでも、彼にとっては、それが『自分を大切に思ってくれている証拠』なのだと、ちゃんと伝わったようでした。
「お姉ちゃんに管理されてるの、すごく……気持ちいい。あったかくて、安心する」
ノエルくんは、残りのホットエッグミルクを自分でしっかりと飲み干し、再びベッドに横たわりました。
「ちゃんと寝て、魔力を回復させます。だから……明日のおやつ、期待してもいい?」
「はいはい。とびきり甘くて美味しいのを作りますから、今日はもうゆっくり休んでくださいね」
私は彼の頭を撫で、安らかな寝息が聞こえ始めるのを見届けてから、部屋を後にしました。
* * *
翌日の朝。
「おはようございます! かすみさーん、今日の朝ご飯は何ですか!?」
いつものように元気な声で食堂に飛び込んできたルーカスさんが、ピタリと足を止めました。
「おはよう、ルーカス。今日のスープも絶品だよ」
そこには、すっかり顔色も良くなり、昨日の魔力枯渇が嘘のように元気なノエルくんが、私のすぐ隣の席でスープを飲んでいました。
「ノ、ノエル! お前、もう大丈夫なのか!?」
「うん。お姉ちゃんが作ってくれた特製ミルクのおかげで、バッチリ回復したよ。……ほら、お姉ちゃん、あーんして?」
ノエルくんは、自分が食べていたパンをちぎり、なんと私の口元へと運んできました。
「えっ、ちょ、ノエルくん!?」
「いいからいいから。お姉ちゃんもちゃんと食べないと倒れちゃうよ?」
「抜け駆けだぞノエル!! そこはいつも俺が座ってるかすみさんの隣の席だ!!」
ルーカスさんが慌てて駆け寄ろうとします。
「……論理的に考えて、患者に優先権があるとはいえ、回復した今となってはその席を独占する正当な理由はない。速やかに退去したまえ」
いつの間にか背後に立っていたセオドアさんが、銀縁眼鏡をキラリと光らせてノエルくんに迫ります。
「えー? やだ。僕、これからはお姉ちゃんにしっかり『管理』してもらうことになったから、ずっとそばにいないとダメなんだもんねー」
ノエルくんは、私の腕にギュッと抱きつき、ルーカスさんとセオドアさんに向かって、あっかんべーと舌を出しました。
「なっ……! 俺だってかすみさんに管理されたい!!」
「……私の方が、より効率的に管理される自信があるのだが」
朝の食堂で、私の隣の席を巡って、大の大人が三人も静かに火花を散らしています。
呆れ果ててため息をつこうとした私の背後に、今度は音もなく黒い影がスッと立ちました。
「……かすみ、お茶」
ジンさんが、空になった私のマグカップを差し出しながら、ちゃっかりと私の反対側の隣の席を陣取っていました。
「あああっ! ジン、お前いつの間に!!」
騒がしい騎士たちの声が響く食堂で。
私は、彼らのどうしようもない不器用さと可愛らしさに、思わずふふっと声を上げて笑ってしまったのでした。
(続く)




