第26話 私の誕生日なんて、もう何年も祝っていませんでした
王都の広場で開催される『収穫祭』。
第七分隊が任された軽食屋台のメニューが『肉巻き月麦スティック』に決まり、みんなで役割分担をしてから、数日が経ちました。
お祭りに向けて、寮の中は活気に満ちている……はずだったのですが。
「あの、ルーカスさん。今日の分の月麦の仕込み、手伝ってもらえま……」
「わあっ!? か、かすみさん!?」
私が談話室のドアを開けた瞬間、テーブルを囲んで何やらヒソヒソと話し込んでいた五人の騎士たちが、弾かれたように一斉に飛び退きました。
「ど、どうしたんですか、皆さん。そんなに驚いて」
私が首を傾げると、ルーカスさんは顔を引きつらせ、両手を後ろに隠しながら後ずさりました。
「ななな、なんでもないです! 俺たち、ただその、演習の……じゃなくて、屋台の……えっと、すごく機密性の高い戦術の話をしてただけで!」
「……そうだ。論理的に考えて、香澄にはまだ聞かせられない、高度な国家機密の領域だ」
セオドアさんが、冷や汗をかきながら銀縁眼鏡を押し上げます。しかし、その手元がわずかに震えていて、机の上の羊皮紙を慌てて裏返したのを私は見逃しませんでした。
「お前ら、声がでけぇよ! ……ちっ、アンタ、入ってくるならノックくらいしろよな!」
カイルくんがそっぽを向きながら怒鳴りますが、彼の耳の先はなぜか真っ赤に染まっています。
「お姉ちゃん、ごめんなさい! あのね、僕たち別に悪いことしてるんじゃなくて……むぐっ」
「……余計なことを、……言うな」
言い訳をしようとしたノエルくんの口を、背後からジンさんが大きな手で咄嗟に塞ぎました。
五人とも、明らかに様子がおかしいのです。
私が部屋に入ると、ピタリと会話を止める。
何かを隠すように視線を泳がせる。
私が近づくと、そそくさとその場を離れてしまう。
ここ数日、ずっとこんな調子でした。
「……そうですか。お邪魔してすみませんでした。お仕事、頑張ってくださいね」
私は静かに頭を下げ、足早に談話室を後にしました。
廊下に出た途端、ズンと重い鉛のようなものが、胃の奥に落ちていくのを感じます。
(私、何か……皆さんを怒らせるようなこと、したのかな)
厨房に戻り、一人で月麦を洗いながら、私はここ最近の自分の行動を振り返っていました。
お祭りの準備で、私が少し口うるさく指示を出しすぎたのでしょうか。
料理の味が、急に落ちてしまったのでしょうか。
それとも、私が寮母としてでしゃばりすぎて、彼らの『騎士としてのプライド』を傷つけてしまったのでしょうか。
考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが頭の中を駆け巡ります。
『おい、お前最近ちょっと調子に乗ってないか?』
冷たい水に手を浸していると、不意に、前世の夫である健一の顔が脳裏に浮かびました。
『俺が養ってやってるから生活できてるんだろ。誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ。少し家事ができるからって、偉そうにするな』
健一は、私が少しでも自分の意見を言おうとしたり、彼のやり方に口を出したりすると、決まってそう言って私を見下しました。
私には価値がない。
言われたことを黙ってこなすだけの、便利な道具でしかない。
この異世界に来て、王国最強の彼らに「かすみさんがいないと生きていけない」と言ってもらえて、私は少しだけ浮かれていたのかもしれません。
でも、彼らはエリート騎士で、私はただの三十五歳のおばさんです。
彼らが本気で怒ったり、呆れたりすれば、私なんていつでもこの寮から追い出されてしまう存在なのです。
(……怖いな)
冷たい水で悴んだ手をエプロンで拭いながら、私は小さく息を吐き出しました。
今日は、なんだかとても、心が冷える日でした。
それもそのはずです。
今日は、私の三十六歳の誕生日でした。
* * *
誕生日といっても、私にとってはもう、何年も「特別な日」ではありませんでした。
『今日、私の誕生日なんだけど……』
三十歳の誕生日。
私は、彼が好きだと言っていたケーキ屋で、奮発して小さなホールケーキを買って待っていました。
夜遅くに帰ってきた健一は、テーブルの上のケーキを一瞥しただけで、重いため息をつきました。
『……は? お前、いくつになったんだよ』
『三十歳、だけど』
『いい年したおばさんが、誕生日くらいで浮かれてんじゃねえよ。こっちは疲れて帰ってきてるんだ。そんな甘ったるいもん、食えるか』
結局、健一は一口もケーキを食べてくれませんでした。
次の日、少し硬くなったスポンジを一人で飲み込みながら、私は「もう二度と、自分の誕生日に期待するのはやめよう」と心に決めたのです。
だから、この異世界で迎える初めての誕生日も、誰にも言うつもりはありませんでした。
マチルダさんが私の身上調書を持っているから、もしかしたら気づかれているかもしれませんが、あの五人の騎士たちが知るはずもありません。
それでいい。
祝われないことには、もう慣れています。
それよりも、彼らのよそよそしい態度の方が、私にとってはよほど堪えました。
「……よし。夕食の前に、お祭りのための備品を少し買い足してこよう」
私は気分を変えるため、お財布の入った小さな袋を手に取りました。
マチルダさんから「今日は午後から夕方まで、市場で祭りの買い出しをお願い。絶対に夕方まで帰ってきちゃダメよ」と、なぜか時間指定のお使いを頼まれていたのです。
きっと、王宮の手続きか何かで、私がいない方が都合のいい時間帯があるのだろうと思っていました。
「行ってきます」
誰にも聞こえないような小さな声で呟き、私は寮を出ました。
王都の市場は、収穫祭を目前に控えて、いつも以上の活気に満ちていました。
色とりどりの旗がはためき、商人たちの明るい声が飛び交っています。
家族連れや恋人同士が、楽しそうに笑い合いながらすれ違っていきます。
そんな温かい光景を見れば見るほど、私の心の中の隙間風は、冷たく吹き荒れました。
(私……また、一人ぼっちになっちゃうのかな)
市場の端で、お祭り用の紙皿や香辛料を買い集めながら、私はぼんやりと考えていました。
彼らは、私がいないと生活が回らないと言ってくれました。
でも、人間は成長します。
ルーカスさんは洗濯の仕方を覚えました。セオドアさんは火の扱いを学びました。カイルくんは片付けができるようになり、ノエルくんは食事を摂るようになり、ジンさんは眠れるようになりました。
彼らが「普通の生活」を一人でできるようになった時。
私という存在は、用済みの家政婦として、また静かに切り捨てられるのではないか。
買い出しを終え、重い荷物を抱えて寮へと続く石畳を歩く頃には、空はすっかり暗くなっていました。
冬の冷たい夜風が、私の頬を容赦なく叩きます。
「……早く帰って、みんなの温かいご飯を作ろう」
冷え切った心を奮い立たせるように呟き、私は第七分隊の寮の前に辿り着きました。
「あれ……?」
重い木製の扉の前に立った私は、ふと違和感を覚えました。
いつもなら、この時間になれば、一階の食堂や談話室の窓から、明るい魔導ランプの光がこぼれているはずです。
けれど、今日に限って。
寮の窓は、すべて真っ暗でした。
建物の外まで聞こえてくるはずの、ルーカスさんの元気な声も、カイルくんの怒鳴り声も、何も聞こえません。
不気味なほどの静寂が、寮全体を包み込んでいました。
「みん、な……?」
私は、震える手で扉の取っ手を押し下げました。
ギィィ……と軋む音を立てて、重い扉が開きます。
中は、月明かりすら届かないほどの、完全な暗闇でした。
「ルーカスさん? セオドアさん……?」
声をかけても、返事はありません。
気配もありません。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てました。
(……どうして? みんな、どこに行っちゃったの?)
まさか。
私を避けていた彼らは、ついに私に何も言わず、どこかへ行ってしまったのでしょうか。
それとも、私が買い出しに行っている間に、マチルダさんを通じて『新しい寮母』を手配して、私を追い出す準備を……?
「嫌……」
手から力が抜け、持っていた紙袋がバサッと床に落ちました。
私には、ここしかないのに。
家事しかできない私が、ようやく見つけた、大切で愛おしい居場所だったのに。
暗闇の中で、私は膝から崩れ落ちそうになりました。
視界が涙で滲み、前世で一人ぼっちの部屋に取り残された時と同じ、絶望的な寒さが全身を覆い尽くそうとした、まさにその瞬間。
パァァァァッ……!
突然。
何の前触れもなく、食堂と談話室の扉が勢いよく開き、眩いばかりの光が玄関ホールに溢れ出しました。
「え……?」
私は、涙で滲む目を瞬かせました。
そこには。
「かすみさーーん!! お帰りなさい!!」
満面の笑みを浮かべたルーカスさんが立っていました。
「……作戦のタイミングとしては、完璧だったな」
眼鏡を光らせて、少し誇らしげなセオドアさん。
「っつーか、アンタ遅ぇよ! 俺の魔法の花火、待ちくたびれて消えそうだったんだぞ!」
天井付近で、キラキラと輝く小さな魔法の光を操っているカイルくん。
「お姉ちゃん! 早く早く、こっち来て!」
私の手を引こうと、ぴょんぴょんと跳ねているノエルくん。
「……帰って、きたな。……良かった」
暗闇からスッと姿を現し、私の落ちた荷物を静かに拾い上げてくれるジンさん。
そして、明るく照らされた食堂の天井には、不格好ながらも一生懸命に飾られた色とりどりの布の装飾と。
「……香澄。三十六歳のお誕生日、おめでとう!」
大きなケーキのようなものを手にしたマチルダさんが、優しく微笑んで立っていました。
(続く)




