第22話 いつもと違う匂いがすると、騎士たちが首筋に鼻を近づけてきます
マチルダさんに連れ出された王都の市場から、ルーカスさんと共に寮へ帰ってきたのは、夕方に差し掛かる頃でした。
「かすみさん、荷物は俺が厨房に運んでおきますから。かすみさんは自分の部屋で少し休んでください」
私服姿のルーカスさんは、両手いっぱいの荷物を軽々と持ち上げながら、爽やかに笑ってくれました。
お言葉に甘え、私はマチルダさんから買ってもらった私物だけを抱えて、一階の自室へと戻りました。
「ふう……」
ベッドに腰を下ろし、小さな紙袋を開けます。
中に入っていたのは、マチルダさんが「絶対に似合うから」と強引に買ってくれた、綺麗な小瓶でした。
『星蜜花のヘアオイル』。
この世界特有の、夜にだけ甘く香る花から抽出したという、とても高価な美容液です。
『香澄。あなた、もっと女性としての自信を持ちなさい』
『あの子たち、口には出さないけど、あなたに完全に惚れ込んでるわよ』
カフェでのマチルダさんの言葉が蘇り、私は思わず頬に手を当てました。
「惚れ込んでるなんて……そんなわけないじゃないですか」
私は三十五歳の、元専業主婦です。
前世の夫である健一からは、「色気がない」「所帯染みている」と散々見下されてきました。
そんな私が、あの美しくて才能溢れるエリート騎士たちから、女性として見られているなんて。到底信じられません。
でも……。
「……少しだけ、つけてみようかな」
私は洗面台で顔を洗い、髪をくしで梳かしてから、小瓶の蓋をそっと開けました。
手に数滴だけ垂らし、手のひらで温めてから、毛先と首筋のあたりに優しく馴染ませます。
ふわり。
石鹸の清潔な香りの中に、柑橘系の爽やかさと、夜に咲く花のような上品で甘い香りが入り混じった、とても素敵な匂いが漂いました。
「いい匂い……。なんだか、少しだけ背筋が伸びる気がする」
ほんの少しの魔法。
女性としての自分を、少しだけ大切にできたような気がして、私は自然と笑顔になっていました。
「よし。夕食の準備に行かなくちゃ」
私はいつものエプロンを身につけ、部屋を出て厨房へと向かいました。
「ルーカスさん、荷物を運んでくれてありがとうございました……って、あれ?」
食堂に入ると、なぜか第七分隊の五人がすでに勢揃いしていました。
いつもなら夕食の匂いがしてから集まってくるのに、今日はルーカスさんだけでなく、セオドアさん、カイルくん、ノエルくん、ジンさんまでが、テーブルを囲んで何やら談笑しています。
「あ、かすみさん! 少しは休めまし……」
私に気づいて笑顔で振り返ったルーカスさんが、ふいにピタリと動きを止めました。
「ルーカスさん? どうかしましたか?」
「…………」
ルーカスさんは目を丸くしたまま、ツカツカと私に近づいてきました。
そして、私との距離が三十センチもないところまで迫ると、ふんふんと犬のように鼻を鳴らしました。
「ちょっ、ルーカスさん? 近いです、近いですよ!」
「かすみさん……なんか、いつもと違う匂いがします」
ルーカスさんは、私の首筋のあたりに顔を近づけ、深く息を吸い込みました。
「お日様とお味噌汁の匂いもするんですけど……すごく甘くて、綺麗な花の匂い。……かすみさんから、すっごくいい匂いがします」
透き通るような青い瞳が、至近距離で私を見つめてきます。
普段の大型犬のような無邪気さの中に、大人の男としての熱が混じっていて、私は思わずドギマギしてしまいました。
「そ、それは、今日マチルダさんに買ってもらったヘアオイルの匂いだと思います。お、お腹空きましたよね、すぐに夕食を……」
私が慌てて誤魔化そうとした、その時でした。
「……待て、ルーカス。私にも確認させろ」
背後から、ひどく低い、冷静さを装った声が響きました。
振り返る間もなく、私のもう片方の側面に、銀縁眼鏡を光らせた副隊長のセオドアさんが立っていました。
「セオドアさんまで、何を……っ」
「不審な嗅覚刺激だ。外部から持ち込まれた未知の薬品の可能性がある以上、副隊長として成分を特定し、安全性を担保する義務がある」
セオドアさんは、そんな理屈っぽいことをスラスラと言いながら、ルーカスさんと同じように、私の耳元へと顔を寄せてきました。
「ひゃうっ……!」
彼の冷たい吐息が首筋にかかり、私は変な声を上げて肩をすくめてしまいました。
「……なるほど。星蜜花と、微かな月橘の抽出成分か。副交感神経を刺激し、精神を弛緩させる作用がある。……だが、それ以上に……」
セオドアさんの顔が、さらに数センチ近づきます。
「香澄自身の体温と混ざり合うことで、論理的な計算式では導き出せない、非常に……その、依存性の高い香りに変化している」
「副隊長! 離れてくださいよ、俺が先に匂いを嗅いでたんですから!」
ルーカスさんが、私の腕をグイッと引っ張って自分の背中に隠そうとします。
「君こそ離れたまえ、ルーカス。お前のような野性的な嗅ぎ方では、香澄が怯えるだろう。私はあくまで科学的な検分を……」
「検分って言いながら、顔が赤くなってますよ! 役得を狙ってるだけじゃないですか!」
王国最強の隊長と副隊長が、私の匂いを巡って、なぜか一触即発の睨み合いを始めてしまいました。
「あ、あの、二人とも……」
私が困惑していると、今度は背中からギュッと細い腕が回ってきました。
「んん~っ……お姉ちゃん、すっごくいい匂い……」
「ノ、ノエルくん!?」
回復術師のノエルくんが、私の背中にぴったりと張り付き、うなじのあたりに顔を埋めてすりすりと頬擦りをしています。
「お菓子みたいに甘いのに、食べられない匂い。……ねえ、お姉ちゃん。一口だけ噛んでみてもいい?」
「ダメに決まってるでしょ!? 私は食べ物じゃありません!」
「えー、ケチ。でも、ずっと嗅いでいたいなぁ。このままベッドに連れて行きたい……」
「おいコラ! ノエル、お前どさくさに紛れて何言ってんだ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り込んできたのは、魔導師のカイルくんでした。
彼はノエルくんの襟首を掴んで私から引き剥がそうとしますが、ノエルくんも負けじと私にしがみついて離れません。
「カイルだって、さっきから顔真っ赤にしてるくせにー」
「う、うるせぇ! 俺は別に、そんな花の匂いなんか気になってねぇし! ただ、その……アンタに似合ってるとは思うけど……っ!」
カイルくんはそっぽを向きながらも、チラチラと私の首元を見て、耳の先まで茹でダコのように真っ赤にしています。
「もうっ! 皆さん、離れてください! 夕食の準備ができません!」
ルーカスさんに腕を引かれ、セオドアさんに顔を近づけられ、ノエルくんに背中から抱きつかれ、カイルくんに怒鳴られる。
四人の騎士たちに囲まれ、私は完全に身動きが取れなくなってしまいました。
マチルダさんの言う通り、彼らは私が思っている以上に、私に対して過敏になっているようです。
「本当に、いい加減に……」
私が抗議の声を上げようとした、まさにその瞬間でした。
スッ……。
音もなく、まるで影が伸びるように。
私の目の前に、高い背中が割り込んできました。
「……あ」
黒い髪。深い灰色の瞳。
諜報員のジンさんでした。
彼は、私を囲んでいた四人の間に静かに割って入り、私を自分の背中の後ろへと隠すように立ち塞がりました。
「……うるさい。……かすみが、困っている」
低く、けれど絶対的な威圧感を持った声。
その言葉に、騒いでいた四人がピタリと動きを止めました。
「……ジン。お前、ずるいぞ」
ルーカスさんが不満げに口を尖らせます。
「……物理的な壁を作るとは、原始的だが効果的な防御策だな」
セオドアさんが眼鏡を押し上げます。
ジンさんは四人の文句を無視し、くるりと私の方を振り返りました。
そして、私を見下ろすようにして、静かに、本当に静かに。
「……その匂い、」
彼の顔が、スッと私の耳元に近づきました。
心臓が跳ね上がるような至近距離で、彼の低い声が鼓膜を震わせます。
「……嫌いじゃない。……あんたらしくて、……いい」
ボソリと呟かれたその言葉は、誰よりも不器用で、誰よりも真っ直ぐな称賛でした。
「っ……!」
私は、一瞬にして顔から火が出るほど赤くなってしまいました。
ジンさんは、僅かに口角を上げて微笑むと、そのまま私の頭をポンと優しく撫で、静かに自分の席へと戻っていきました。
「あ、あ、あああっ! ジン、お前今、かすみさんの頭撫でただろ!」
「抜け駆けだ! 諜報員のスキルをそんなことに使うな!」
再び騒ぎ出した騎士たちを前に、私は茹で上がった顔を両手で覆うことしかできませんでした。
『あなた、もっと女性としての自信を持ちなさい』
マチルダさんの言葉が、頭の中でリフレインします。
「……自信を持つ前に、心臓が持ちませんよ……」
私は小さく呟きながら、騒がしい食堂から逃げるようにして、急いで厨房へと駆け込んだのでした。
私の立てる生活の音と匂いが、彼らの心を惹きつけている。
その事実が、くすぐったくて、恐ろしくて、けれど……どうしようもなく嬉しかったのです。
(続く)




