第23話 大雨の日、隊長と諜報員が洗濯物を救出しました
「いいですか、香澄。今日はあなたの『完全休日』よ。台所にも洗濯場にも、絶対に近づかないこと!」
昨日の夕方、王宮人事官のマチルダさんが寮にやってきて、私にそう厳命していった。
私がこの第七分隊の寮にやってきてから、初めての正式な「お休みの日」だった。
とはいえ、三十五年間、特に専業主婦としての十年間を「休みなし」で駆け抜けてきた私にとって、何もしない一日というのは、逆に落ち着かないものだ。
「うーん……でも、お天気がいいから、シーツくらいは洗っておきたいな」
朝食は、昨日多めに作っておいたスープとパンを各自で温めてもらうようにお願いしてある。
私はこっそりと自室を抜け出し、裏庭の洗濯場へと向かった。
よく晴れた空。冬が近づいているとはいえ、日差しはまだ十分に暖かい。
私は大量のシーツやタオルを木たらいに入れ、灰石鹸でゴシゴシと洗い始めた。
冷たい水が気持ちいい。誰にも邪魔されず、黙々と汚れを落としていくこの時間は、私にとって大切な気分転換でもあった。
「よし、これで全部……」
洗い終えたシーツを固く絞り、裏庭に張られたロープに次々と干していく。
風に揺れる真っ白な布から、お日様と石鹸のいい匂いが漂ってくる。この「整っていく」瞬間が、私はたまらなく好きなのだ。
「あーっ! かすみさん!!」
背後から、悲鳴のような声が響いた。
振り返ると、金色の髪を揺らして、ルーカスさんが血相を変えて走ってくる。
「ル、ルーカスさん? どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないですよ! 今日はかすみさんの休日だって、マチルダさんからきつく言われてたじゃないですか! なんで洗濯なんてしてるんですか!」
ルーカスさんは、私の手から残りの洗濯物が入ったカゴをひったくるようにして取り上げた。
「だって、お天気がよかったから……これくらいなら、すぐに終わりますし」
「ダメです! かすみさんはいつも働きすぎなんです。今日は俺たちが全部やりますから、かすみさんは談話室のソファでゆっくりしていてください!」
「いや、でも……」
私が反論しようとした時、裏庭の勝手口から次々と他のメンバーも姿を現した。
「……ルーカスの言う通りだ。論理的に考えて、休養の欠如はパフォーマンスの低下を招く。今日は我々が寮の管理を代行しよう」
セオドアさんが、エプロン(なぜか私の予備のエプロンだ)を首から下げながら眼鏡を押し上げる。
「アンタはすっこんでろ。俺の魔法で、こんな洗濯物一瞬で乾かしてやるからよ」
カイルくんが、指先に小さな炎と風の魔力を纏わせながらニヤリと笑う。
「お姉ちゃん、僕が肩もみしてあげる! だからお部屋で休んでて!」
ノエルくんが、私の腕にすがりついてくる。
「……休め。……命令だ」
ジンさんが、いつの間にか私の背後に立ち、短く言い放つ。
五人のエリート騎士たちが、私を休ませようと一斉に立ち上がってくれたのだ。
『おい! 日曜日だからってダラダラするな! 俺のワイシャツのアイロンがけ、まだ終わってないだろ!』
ふいに、前世の夫の言葉が脳裏をよぎる。
健一にとって、休日は「自分が休む日」であって、家政婦である私に休みなど存在しなかった。私が少しでもソファで横になろうものなら、舌打ちをして不機嫌になった。
それなのに、この人たちは。
私を少しでも休ませようと、本来ならやらなくてもいい家事を、不器用ながらも全力で手伝おうとしてくれている。
「……ふふっ。ありがとうございます。でも、カイルくん、魔法で乾かすのは焦げるから絶対にダメですよ。セオドアさんも、お掃除の薬品の調合は危険ですからやめてくださいね」
「ちっ、過保護だな……」
「……計算外だ。私の化学的アプローチが否定されるとは」
文句を言いながらも、彼らは私の言うことに素直に従ってくれた。
結局、私は談話室のソファに座らされ、ノエルくんに肩を揉まれ、ジンさんに温かいハーブティーを淹れてもらいながら、窓の外で洗濯物を干すルーカスさんたちの姿を眺めることになった。
「あはは、カイルくん、シーツの端っこが地面についてますよ!」
「うるせぇ! 布が重いんだよ!」
「……風の抵抗を考慮して、ロープの張力を調整する必要があるな」
窓の外から聞こえてくる騒がしいやり取りに、私は思わず笑声をこぼした。
完璧な休日は過ごせそうにないけれど、こんな騒がしくて温かい時間も悪くない。
お茶を一口飲み、ソファの背もたれに深く体を預けた。
心地よい疲労感と、ハーブティーの温かさが、私のまぶたを少しずつ重くしていく。
(このまま、少しだけ……)
私が微睡みの世界へ落ちかけたまさにその時だった。
ゴロゴロ……ドカンッ!!
「ひゃあっ!?」
突然、窓ガラスを揺るがすような雷鳴が轟いた。
同時に、空が急激に暗くなり、冷たい強風が裏庭の木々を激しく揺らし始めた。
「嘘……さっきまであんなに晴れていたのに!」
私が跳ね起きると、窓の外ではすでに、バケツをひっくり返したような大雨が降り始めていた。
「うわあああっ! 雨だ! シーツが濡れる!」
「カイル、魔法で雨を防げないのか!?」
「バカ、こんな広範囲の結界を急に張れるかよ!」
裏庭は大パニックに陥っていた。
せっかく洗って干したばかりの大量のシーツや制服が、無残にも雨に打たれている。
このままでは、灰石鹸で洗った苦労が水の泡になるだけでなく、泥はねでさらに汚れてしまう。
「大変! 取り込まないと!」
私が慌てて窓を開け、裏庭へ飛び出そうとした瞬間。
「かすみさんは中にいてください! 濡れたら風邪を引きます!」
雨音を切り裂くような、力強い声が響いた。
ルーカスさんだった。
彼は雨に濡れるのも構わず、凄まじいスピードで裏庭を駆け回っていた。
そして、私が干すのにも一苦労した分厚いマントや、水を吸って石のように重くなったシーツの束を。
「はぁっ!」
なんと、五人分、十枚以上の濡れたシーツと制服を、両腕に一気に抱え込んだのだ。
「ええっ!?」
私は自分の目を疑った。
濡れた布の束は、どう考えても数十キロ以上の重さがあるはずだ。
それを、ルーカスさんは涼しい顔で――いや、戦場で見せるような真剣で鋭い顔つきで――軽々と抱え上げ、屋根のある回廊へと運び込んでいく。
「隊長、こっちも頼む!」
「任せてください!」
セオドアさんとカイルくんが外した洗濯物を、ルーカスさんが次々と回収していく。
その腕力と脚力は、まさに王国最強の騎士団の部隊長の名にふさわしい、圧倒的な身体能力だった。
「すごい……」
私が呆然と見とれていると。
バサァッ!
突風が吹き荒れ、ロープに干してあった一枚の白いシーツが、留め具を引きちぎって空高く舞い上がってしまった。
「ああっ! シーツが!」
シーツは風に乗って、寮の二階の屋根の、さらに上にある高い煙突の飾りに引っかかってしまった。
雨風に打たれ、今にも破れてしまいそうだ。
「くそっ、あんな高いところ……俺の風魔法で落とすか!?」
カイルくんが手を構える。
「ダメです、布が破れます!」
私が叫んだ。
その時だった。
「……俺が行く」
私のすぐ横を、黒い影が音もなく通り過ぎた。
ジンさんだった。
彼は回廊の柱に足をかけると、まるで重力が存在しないかのように、一瞬で二階のバルコニーへと跳躍した。
「ジンさん!?」
さらにそこから、滑る石造りの壁のわずかな窪みに指を掛け、猫のようにしなやかな動きで屋根の上へと駆け上がっていく。
雨で滑りやすい危険な足場。
しかし、彼にとってそれは「暗殺任務での日常」なのだろう。
音もなく、無駄な動きが一切ないその姿は、息を呑むほどに美しく、そして恐ろしいほど格好良かった。
タッ、と煙突の横に降り立った彼は、引っかかっていたシーツを素早く回収し、胸に抱え込んだ。
そして、そのまま二階のバルコニーへと音もなく飛び降り、回廊へと戻ってきた。
「……かすみ。……取ってきた」
少しだけ息を弾ませたジンさんが、濡れたシーツを私に差し出す。
「ジンさん……! 怪我はないですか? 滑らなかったですか?」
「……問題ない。……これくらい、いつものことだ」
ジンさんは、濡れた黒髪をかき上げながら、静かに目を細めた。
その仕草から滲み出る大人の色気に、私は思わず心臓を跳ねさせてしまった。
「よし、これで全部だ!」
ルーカスさんが、最後の洗濯物の束を抱えて回廊に飛び込んできた。
カイルくん、セオドアさんも、ずぶ濡れになりながら息をついている。
「皆さん……本当に、ありがとうございました」
私は急いで清潔なタオルを何枚も持ち出し、彼らに手渡した。
「……かすみさん。俺たち、ちゃんと役に立ちましたか?」
タオルで金髪をワシャワシャと拭きながら、ルーカスさんが犬のように期待に満ちた目で私を見る。
「はい。もう、百点満点です。あんなに重いものを軽々と運ぶルーカスさんも、あんな高いところまで一瞬で登るジンさんも……本当に、格好良かったです」
私が心からの称賛を口にすると、ルーカスさんは「やったぁ!」とガッツポーズをし、ジンさんは耳の先を少し赤くしてそっぽを向いた。
「さあ、風邪を引く前に、早く着替えてください。温かいお茶を淹れますから」
「お姉ちゃん、僕もお手伝いする!」
濡れなかったノエルくんが、私にぴったりとくっついてくる。
騒がしい大雨の午後。
けれど、暖炉の火が入れられた談話室は、とても暖かくて、安全だった。
全員が着替えを終え、私の淹れたハーブティーを飲んで一息ついた頃。
「……かすみさん?」
私は、ソファの深いクッションに沈み込むようにして、微睡みの淵にいた。
「……しーっ。お姉ちゃん、寝ちゃったみたい」
ノエルくんの小さな囁き声が聞こえる。
雨の音と、暖炉のパチパチとはぜる音。そして、私を守ってくれる五人の騎士たちの気配。
「……今日は一日、俺たちが静かにさせようって言ってたのに、結局かすみさんに心配かけちまったな」
カイルくんの、少し反省したような声。
「……だが、こうして彼女の寝顔を見守るというタスクも、悪くない」
セオドアさんの、優しい響きを含んだ声。
ふわりと、私の上に温かい毛布が掛けられた。
誰の手かは分からないけれど、とても大きくて、安心できる手だった。
(……温かいな)
『お前は俺がいなきゃ生きていけない』
そんな呪いの言葉は、もうどこにもない。
私は、私を大切にしてくれる人たちの気配に包まれながら、深い眠りへと落ちていった。
* * *
数時間後。
「ん……」
ふと目を覚ますと、外はすっかり暗くなり、雨音だけが静かに響いていた。
談話室には、私に毛布を掛けてくれた五人の姿はない。夕食の時間まで、私を一人でゆっくり寝かせてくれたのだろう。
「……よく寝た。みんなの夕食の準備をしなきゃ」
私は体を起こし、談話室を出た。
廊下を歩いていると、二階にあるセオドアさんの執務室のドアの下から、光が漏れているのに気がついた。
「セオドアさん、またお仕事してるのかな」
合同演習の作戦立案で、彼はここ数日、明らかに無理を重ねていた。
私は心配になり、そっとドアをノックした。
しかし、返事はない。
「セオドアさん? 入りますよ」
ドアを押し開けると、そこには、書類の山に埋もれるようにして、机に突っ伏して眠り込んでいるセオドアさんの姿があった。
「セオドアさん!」
私が駆け寄ると、彼の顔色は青白く、呼吸も少し浅くなっていた。
あの完璧主義の副隊長が、自分の限界を超えて倒れるまで働き続けてしまったのだ。
「どうしよう、お熱がある……!」
私は、彼の冷たい額に手を当て、青ざめた。
せっかくの休日の終わりは、またしても波乱の幕開けになりそうだった。
(続く)




