第21話 市場の賑わいと、無自覚な聖女への進言
「見て香澄! あそこの極彩色の果物、あんなに安くなってるわよ!」
マチルダさんに腕を引かれ、辿り着いたのは王都の中央広場。
そこは、私の想像を遥かに超える熱気に包まれていました。
石畳の広場を埋め尽くすように、色とりどりの屋根を持った露店が並んでいます。
香辛料の刺激的な香り、焼きたてのパンの甘い匂い、そして威勢のいい商人たちの掛け声。
寮の狭いキッチンで戦っていた私にとって、その光景はあまりにも眩しく映りました。
「……すごい。本当に活気があるんですね」
「そうよ。今日は半年に一度の『豊穣祭』の直前市。王宮の御用達から、路地裏の名店まで全部揃ってるんだから」
マチルダさんは、高いヒールの靴を鳴らしながら、人混みをスイスイと縫うように進んでいきます。
私は慣れない人混みに少し気後れしながらも、彼女の背中を追いました。
「ほら、これなんてどう? 第七分隊の、あの筋肉ダルマたち……カイルやノエルも喜びそうじゃない?」
彼女が指差したのは、大きな燻製肉が吊るされた専門店でした。
脂の乗った肉が、琥珀色に輝いています。
「そうですね。あの子たち、お肉がないとすぐに『力が出ない』って騒ぎますから。……でも、マチルダさん。今日は私を休ませるために連れ出してくれたんじゃなかったんですか?」
苦笑しながら尋ねると、マチルダさんは立ち止まり、腰に手を当てて私を見つめました。
「もちろんそうよ。でも、あなたは買い物一つとっても、結局あの子たちの顔を思い浮かべちゃうんでしょ? それが『寮母』の性分というか……いえ、あなたの性分なのね」
彼女の言葉に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じました。
確かに、珍しい食材を見るたびに「セオドアさんならこう調理するかな」とか「ルーカスさんの夜食に良さそう」と考えてしまっています。
「……染み付いちゃってるみたいです。誰かのために何かをすることが」
「それは素晴らしいことよ。でもね、香澄」
マチルダさんは私の手をそっと取り、市場の端にある小さなテラス席のあるカフェへと誘いました。
少し落ち着いた場所で、私たちはハーブティーを注文しました。
「あなた、自分のことを『ただのおばさん』だなんて思っていないかしら?」
ティーカップを置いたマチルダさんの目が、真剣な色を帯びます。
「えっ……。それは、実際そうですし。三十五歳で、特筆すべき魔法も剣術もない、ただの主婦ですから。……前世では、誰にでも代わりが務まる家政婦だって、そう言われていましたし」
健一さんの冷ややかな声が、一瞬だけ脳裏をよぎります。
『お前がやってる掃除なんて、誰がやったって同じだろ?』
その言葉は、今でも私の胸の奥に小さな棘として刺さっていました。
「……馬鹿ね、あの元夫」
マチルダさんは吐き捨てるように言い、私の手を強く握りしめました。
「いい? 今の第七分隊を見てごらんなさいよ。あの、王国最強と言われながらも中身は『生活能力皆無の獣』だった連中が、今やあなたなしでは一日もまともに過ごせない状態なのよ」
「それは、単にお料理が気に入っているだけで……」
「違うわ。ジンが昨夜、あなたの作った『暗闇』で眠れたんでしょう? あんな偏屈で人間不信の塊みたいな諜報員が、他人に弱さを見せて、その上で安眠するなんて……王宮の魔法師たちが束になっても無理だったことなのよ」
マチルダさんの言葉は、熱を帯びていました。
「あなたは彼らにとって、ただの飯炊き係じゃない。……傷ついた心を癒やし、立ち上がる活力を与える、唯一無二の場所なの。あの子たち、口には出さないけど、あなたに完全に惚れ込んでるわよ」
「っ……惚れ込んでるなんて、そんな……!」
思わず立ち上がりそうになる私を、マチルダさんは余裕の笑みで制しました。
「男っていうのは単純よ。自分の汚れた部分やダメな部分を、笑って『洗えば落ちますよ』って言ってくれる女性に、弱いの。特に第七分隊の連中は、戦場や権力争いの中に身を置いているから、あなたのその『普通の温かさ』が、何よりも尊い奇跡に見えるはずよ」
マチルダさんは悪戯っぽく微笑み、身を乗り出しました。
「香澄。あなた、もっと女性としての自信を持ちなさい。鏡を見てごらんなさいな。この世界に来てから、表情がずっと柔らかくなって、本当に綺麗になったわよ」
「……私が、綺麗……?」
私は戸惑いながら、カフェの窓ガラスに映る自分の姿を見ました。
そこには、前世のあの頃のような、怯えて顔色を伺う疲れ切った女の姿はありませんでした。
少し日焼けして、生き生きと目を輝かせた、一人の女性が立っていました。
「さあ、買い物はここまで! 次はあなたのためのドレス……は無理でも、素敵なヘアアクセサリーくらいは買わせてもらうわよ。これは私の奢り。寮母のスカウトを成功させた、私自身のボーナスみたいなものだから」
「あ、マチルダさん! そんな、悪いです……!」
抵抗も虚しく、私は再びマチルダさんに手を引かれ、市場の賑わいの中へと戻っていきました。
胸の奥に刺さっていた棘が、彼女の言葉で少しだけ溶けていくのを感じながら。
* * *
数時間後。
両手に抱えきれないほどの荷物(その大半はマチルダさんが無理やり選んだ私のための日用品や、美味しいお菓子でした)を持って、私たちは市場の入り口まで戻ってきました。
「ふう、ちょっと買いすぎたかしらね。馬車を呼ぶわ」
マチルダさんが周囲を見渡した、その時でした。
「――かすみさん」
人混みの向こうから、低くて聞き覚えのある声が届きました。
振り返ると、そこには見慣れた黒い軍服を脱ぎ、私服姿の青年が立っていました。
白いシャツの襟元を少し崩し、深い紺色のコートを羽織ったその姿は、寮で見る彼とはまた違った、都会的な洗練された格好良さがあります。
「……ルーカスさん!? どうしてここに?」
第七分隊の隊長、ルーカスさんでした。
彼はいつも通り、冷徹なようでいてどこか優しげな笑みを浮かべて歩み寄ってきます。
「そろそろ買い物が終わる時間かと思いまして。……マチルダ殿、彼女を借り出しておいて、こんなに重いものを持たせるとは、隊長として見過ごせませんな」
「あら、ルーカス。迎えに来るなんて気が利くじゃない。……それとも、香澄がいない寮が寂しくて耐えられなかったのかしら?」
マチルダさんの意地悪な指摘に、ルーカスさんは否定することなく、私の手から大きな荷物をヒョイと取り上げました。
「否定はしませんよ。……かすみさんがいないと、あの寮はただの『冷たい建物』に戻ってしまいますから」
彼はさらりとそう言って、私の隣に並びました。
「さあ、帰りましょう、かすみさん。みんな、あなたの帰りを……いえ、あなたの夕飯を首を長くして待っています」
「ルーカスさん……」
彼の大きな背中を見上げながら、私はマチルダさんの言葉を思い出していました。
『彼らにとって、あなたは唯一無二の場所なの』
少しだけ面映ゆい気持ちになりながらも、私は「はい!」と元気に返事をして、ルーカスさんの後を追いました。
この世界に、私を待っていてくれる場所がある。
その幸福を噛み締めながら。
(続く)




