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夫に捨てられた専業主婦ですが、異世界騎士団の寮母になったらイケメン達が全員ダメ男でした  作者: 他力本願寺


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第20話 不眠症の諜報員に、世界で一番安心できる暗闇を作ります

「……俺に、……近づくな」


静まり返った夜の廊下。

壁に背を預けて座り込む諜報員のジンさんは、ひどく掠れた声で私を拒絶した。


暗がりの中でも、彼の目の下に刻まれた隈が、以前よりも深く、濃くなっているのが分かる。

彼のために作ったアルコーブ(くぼみ)の寝床は綺麗に整えられたままで、今日、彼がここで眠った形跡はなかった。


「ジンさん、どうしてですか? ここで寝ないと、またお仕事中に倒れてしまいますよ」


私が心配して一歩近づこうとすると、ジンさんはビクッと肩を震わせ、さらに壁の奥深く、影に溶け込むように身を縮めた。


「……だめだ。……来ないでくれ」


いつもは私の気配を求めてすり寄ってくる彼が、今は明確に私を遠ざけようとしている。


その時、ふわりと冷たい夜風が廊下を吹き抜けた。

ジンさんの着ている漆黒の任務服から、ツンとした鉄の匂いと、焦げたような土の匂いが漂ってくる。


血の匂いだ。


「ジンさん、怪我をしているんですか!?」


「……俺の血じゃない」


ジンさんは、顔を伏せたままぽつりと答えた。


「……今日、……裏の任務があった。……暗闇の中で、……たくさん、奪ってきた」


彼の大きな手が、自分の膝を強く、白くなるほど握りしめている。


「……俺の体には、……血と、泥と、……死の匂いが染み付いている。……洗っても、……落ちない。……この真っ黒な匂いが、……あんたに、移る」


ジンさんは、ひどく怯えたような、泣き出しそうな目で私を見た。


「……あんたは、……お日様と、温かい飯の匂いがする。……俺が近づいたら、……その綺麗な匂いが、汚れてしまう。……だから、……だめだ」


彼の言葉を聞いて、私は思わず息を呑んだ。


彼が私を遠ざけた理由。

それは、私を嫌ったからでも、私の世話が鬱陶しくなったからでもなかった。

自分の抱える暗闇や汚れで、私という存在を穢してしまうことを恐れたのだ。

自分が安心したいという欲求よりも、私の清らかさを守ることを優先した、あまりにも不器用で、痛ましいほどの優しさ。


『おい! 汗臭いまま俺の服に触るな! お前は本当に薄汚いな!』


ふいに、前世の記憶がフラッシュバックした。

元夫の健一は、私が一日中家事をして汗をかいていると、汚いものを見るような目で私を遠ざけた。

彼にとって、私はただの家政婦であり、少しでも自分の美意識にそぐわないと、容赦なく切り捨てる存在だった。


健一は、私を見下していたから遠ざけた。

けれど、目の前にいるこの人は。

私のことを、世界で一番大切で、尊いものだと思っているからこそ、自分から身を引こうとしているのだ。


「……バカですね、ジンさんは」


私は、小さく息を吐き出し、そして、迷うことなく彼に向かって歩み寄った。


「……っ、かすみ! 来るなと……」


「いいえ、行きます」


私は彼の目の前にしゃがみ込み、彼がギュッと握りしめていた大きな両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。


「……っ!」


ジンさんが、信じられないものを見るように目を見開く。


「血の匂いがなんだっていうんですか。泥の汚れがなんだっていうんですか」


私は、彼の冷たい手を包み込んだまま、真っ直ぐにその灰色の瞳を見つめ返した。


「私は、三十五年間生きてきたおばさんですよ。泥汚れの落とし方も、血の匂いの消し方も、全部知っています。……私を、温室育ちのやわなお姫様と一緒にしないでください」


私がわざと怒ったように言うと、ジンさんは口をパクパクとさせ、完全に言葉を失ってしまった。


「血の匂いが気になるなら、明日、お湯をたくさん沸かして服を洗いましょう。何度でも、お日様の匂いになるまで洗ってあげます。でも、今は……」


私は、彼の手を引いて、アルコーブの寝床へと促した。


「今は、眠ることが一番の任務です」


「……でも、……俺は」


まだ躊躇うジンさんを見て、私は少し考えた。

彼は、広い空間にいると「敵から狙われるかもしれない」という職業病のような警戒心が抜けず、眠れなくなってしまうのだ。

アルコーブのくぼみは三方を壁に囲まれているけれど、廊下側が開いているため、今日の彼のように心が不安定な時は、その「隙間」すら恐ろしいのかもしれない。


「分かりました。じゃあ、ジンさん専用の、絶対に誰も入ってこれない『秘密基地』を作りましょう」


私は一度立ち上がり、リネン室へと走った。

そして、マチルダさんから支給されていた分厚い予備の布――光を完全に遮断する、濃紺色の重い布――を抱えて戻ってきた。


「ちょっと失礼しますね」


私はアルコーブの入り口の天井付近にある梁に紐を通し、その分厚い濃紺の布を、カーテンのように吊るした。

アルコーブのくぼみが、完全に分厚い布で覆われ、小さな『テント』のような空間が出来上がる。


「これで、外からの光も、他人の視線も完全に遮断されます」


私は布を少しだけめくり、中にジンさんを促した。


ジンさんは恐る恐るその狭くて暗い空間に入り、ベッドの上に座り込んだ。

そこは、彼が普段任務で身を潜めている暗闇とよく似ていた。

けれど、決定的に違うものがある。


「はい、これ」


私は、リラックス効果のある『星降草(ほしふりそう)』をたっぷり詰めた香り袋を、彼の枕元に置いた。


「血の匂いなんかじゃありません。ここは、ジンさんが安心して休むためだけの、特別な暗闇です」


狭くて、暗くて、けれど優しいハーブの香りが満ちる安全な空間。

私が布の隙間から顔を覗かせて微笑むと、ジンさんは、堰を切ったように、ふうっと長く、深い息を吐き出した。


彼の肩から、目に見えない重い鎧が落ちていくのが分かった。


「……かすみ」


ジンさんは、毛布を引き寄せ、ゴロンと横になった。

そして、布の隙間から差し出されている私の手を、スッと引き寄せ、彼自身の額にそっと押し当てた。


「……あんたは、……本当に、強いな」


掠れた声には、先ほどまでの怯えはなく、深い安堵と、泣きたくなるような甘い響きが混ざっていた。


「強くなんかありませんよ。ただの、口うるさい寮母です」


「……俺の、……光だ」


ジンさんは目を閉じ、私の手を自分の額に乗せたまま、ゆっくりと呼吸を深めていった。


「……すー……すー……」


数分も経たないうちに、彼から規則正しい寝息が聞こえ始めた。

限界まで張り詰めていた神経が、ようやく休息を許されたのだ。


そっと彼の手を外し、濃紺の布をしっかりと閉じてあげる。

廊下に漏れるのは、彼の穏やかな寝息だけ。


「……おやすみなさい、ジンさん」


私は彼だけの安全な暗闇の前で小さく微笑み、自分の部屋へと戻った。


誰かに必要とされること。

誰かの弱さを、私の持つ『生活の知恵』で包み込んであげられること。

それが、こんなにも私自身の心を強くしてくれるなんて。

前世でボロボロに傷ついていた私に、教えてあげたい気分だった。


* * *


翌朝。


「おはようございます。今日は、お野菜たっぷりのスープと、半熟卵ですよ」


朝の食堂は、今日も五人の騎士たちの活気で満ちていた。


「かすみさん、今日のスープも最高です!」

「ふむ。昨日の徹夜の疲労が、この食事で見事に回復していくのが分かる」

「おい! 俺の肉を勝手に取るなノエル!」

「えー、カイルが食べるの遅いからいけないんだよ」


騒がしい四人をよそに、食堂の隅の席に座るジンさんは、今日も静かに食事を進めていた。

けれど、昨日の夜のような痛ましい隈はすっかり薄れ、その灰色の瞳には、穏やかな光が戻っていた。


目が合うと、彼は少しだけ口角を上げ、


「……美味い」


と、ぽつりと呟いた。

その一言だけで、昨夜のすべてが報われた気がして、私は嬉しくなって微笑み返した。


「よし、これで今日も平和な一日が……」


私が空になった鍋を片付けようとした、その時だった。


バンッ!


「おはよう、みんな! そして香澄!」


勢いよく食堂の扉を開けて入ってきたのは、王宮人事官のマチルダさんだった。

彼女はパリッとした制服に身を包み、なぜか手には立派な籐の買い物かごを提げている。


「マチルダさん、おはようございます。今日は何か王宮からの通達ですか?」


私が尋ねると、マチルダさんは五人の騎士たちをぐるりと見渡し、そして私に向かってニヤリと笑った。


「いいえ。今日は通達じゃなくて、拉致よ」


「ら、拉致!?」


驚く私に構わず、マチルダさんは私の腕をグイッと引いた。


「香澄、あなたがこの寮に来てから、休みなしで働きっぱなしじゃない。彼らの面倒を見るのも大事だけど、たまには外の空気を吸って、自分のための時間を過ごしなさい」


「えっ、でも、お昼ご飯の準備が……」


「昼は王宮の食堂で適当に食べさせるから気にしないで! さあ、今日は王都で一番大きな市場で、特別大売り出しがあるの。私に付き合いなさい!」


マチルダさんの有無を言わさぬ勢いに、私はエプロンを外す暇もなく、引きずられるようにして食堂を出発することになってしまった。


「あ、ちょっと! マチルダさん!」


「いってらっしゃい、かすみさーん! 気をつけて!」

「……論理的に考えて、たまの休息は必要だ。行ってくるといい」


五人の騎士たちは、私を引き留めるどころか、なぜかニコニコと手を振って見送ってくれた。


「もう……!」


私は苦笑しながら、マチルダさんと共に寮を後にした。

ずっとこの寮の中で戦い続けてきた私にとって、異世界での初めてのちゃんとしたお出かけ。

王都の市場には、一体どんな新しい出会いと発見が待っているのだろうか。


(続く)

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