第16話 隊長の朝は壊滅的です
私が半日いなかっただけで、寮の生活機能が完全に崩壊するという大事件から数日が経った。
「私がいないと生きていけない」と五人の騎士たちに泣きつかれて以来、彼らの私に対する態度は、目に見えて甘く、そして従順になった気がする。
第七分隊の朝は早い。
今日も私は夜明けと共に起き出し、厨房で朝食の準備に取り掛かっていた。
魔力炉の火を点け、大きな鍋で『月麦』をふっくらと炊き上げる。
隣の小鍋では、『甘珠葱』と細かく刻んだ干し肉を炒め、お湯と『ルグ豆味噌』を溶かし入れて温かいお汁を作る。
ジュゥゥッ、と香ばしい匂いが立ち上り、厨房の冷たい空気がじんわりと温められていく。
「ふふっ、今日も美味しくできた」
味見をして満足げに頷いた頃、食堂の扉が開いて、寮の住人たちが次々と姿を現した。
「おはようございます、香澄。……今日の汁物も、完璧な香りのバランスだな」
一番乗りは、すでに軍服をきっちりと着込んだ副隊長のセオドアさんだ。
「ふわぁ……お姉ちゃん、おはよう。お腹すいたぁ……」
目をこすりながら、夢遊病のようにふらふらと歩いてきたのは回復術師のノエルくん。
「おい、今日の肉のおかず、俺の分多めにしてくれよな」
寝癖を爆発させながらも、ちゃっかり自分の席につく魔導師のカイルくん。
そして、いつの間にか食堂の隅の席に音もなく座り、静かに私を見つめている諜報員のジンさん。
「皆さん、おはようございます。冷めないうちに食べてくださいね」
私は四人分の配膳を済ませ、ふと首を傾げた。
「あれ? ルーカスさんは?」
いつもなら、「かすみさーん! ご飯の匂いがします!」と、一番に犬のように飛び込んでくるはずの金髪の隊長さんの姿がない。
「隊長なら、まだ起きていないはずだ。何度か部屋のドアを叩いたのだが、返事がなくてね」
セオドアさんが、眼鏡を押し上げながらため息をついた。
「えっ、もうすぐ午前の演習の時間ですよね?」
「あぁ。だが、彼は一度深い眠りにつくと、魔物の咆哮でも起きない時がある。……香澄、すまないが様子を見てきてくれないだろうか。我々が無理に起こすと、寝ぼけて剣を振り回す危険性があってね」
王国最強の剣士の寝起きが悪いなんて、そんな恐ろしいことがあるだろうか。
「分かりました。私が起こしてきます」
私は自分のエプロンで手を拭い、二階にあるルーカスさんの部屋へと向かった。
コンコン、と控えめにドアを叩く。
「ルーカスさん、朝ですよ。朝ご飯が冷めちゃいますよ」
しかし、中からは何の返事もない。
「入りますね」と断りを入れて、重い木製のドアをそっと押し開けた。
部屋の中は、不思議な空間だった。
壁際に立てかけられた立派な大剣と、美しく磨き上げられた銀色の鎧。それらは塵一つなく、神聖なほどに輝いている。
しかし、その対極にあるベッドの上は、まるで巨大な獣が暴れた後の巣のように、シーツと毛布がぐちゃぐちゃに丸まっていた。
そして、その毛布の山の中心から、金色の髪の毛だけがちょこんと飛び出している。
「……ルーカスさん」
私がベッドに近づいて声をかけると、毛布の山がもぞもぞと動いた。
「んんぅ……」
「起きてください。もう皆さんは下でご飯を食べていますよ」
私が容赦なく毛布をバサァッ!と引っぺがすと、そこには、長い手足を丸めて丸太のように眠りこけているルーカスさんがいた。
「……かすみ、さん……?」
彼は薄く目を開け、焦点の合わない青い瞳で私を見上げた。
いつもは太陽のようにキラキラしている王国最強の騎士が、今はただの眠たそうな大型犬にしか見えない。
「はい、香澄です。ほら、起きて着替えないと、演習に遅れちゃいますよ」
私が腕を引っ張って起き上がらせようとすると。
「……んあぁ……まだ、ねむい……」
ルーカスさんは、私の手を引っ張り返すどころか、長い腕を伸ばして、私の腰にギュッと抱きついてきたのだ。
「ちょっ、ルーカスさん!?」
「あったかい……。かすみさんの匂い、お日様とお味噌汁の匂いがする……すき……」
彼は私のエプロンにおでこをぐりぐりと押し付け、そのまま再び寝息を立て始めようとしている。
大柄な彼に体重をかけられ、私は身動きが取れなくなってしまった。
『おい! 早くコーヒー淹れろよ! 俺の朝の準備が遅れたらどう責任取るんだ!』
ふいに、前世の夫である健一の怒鳴り声が脳裏をよぎった。
健一の朝は、いつも不機嫌だった。
ネクタイの柄が気に入らない、トーストの焼き加減が違う。少しでも彼の機嫌を損ねれば、一日中無視されるか、罵倒されるかのどちらかだった。
私は毎朝、時限爆弾を扱うような緊張感で彼の世話をしていた。
――でも、目の前にいるこの人は。
「……重いですよ、ルーカスさん」
「……んーん……あと五分だけ……」
私の腰にすがりついて、無防備に甘えきっている。
怒鳴り声も、不機嫌な舌打ちもない。ただ純粋に、私の温もりに安心して寄りかかっているだけだ。
それがなんだか無性に可笑しくて、愛おしくて。
私は、彼のサラサラとした金色の髪を、優しく撫でた。
「はいはい。もう、しょうがないですね」
私が魔法の言葉を口にすると、ルーカスさんは「えへへ……」とだらしない笑顔を浮かべた。
「でも、本当に時間がありませんから。ほら、冷たいタオルで顔を拭きますよ」
私はあらかじめ持ってきていた濡れタオルで、彼の顔をポンポンと優しく叩いた。
冷たい感触に、ルーカスさんは「ひゃうっ!」と変な声を上げて飛び起きた。
「お、起きました! 俺、起きてます!」
「おはようございます。さあ、早く制服を着てください」
私が急かすと、ルーカスさんは慌ててベッドから転げ降り、椅子に掛けられていた紺色の制服(私が正しい方法で洗濯し直して、縮みを直したものだ)に袖を通し始めた。
しかし、まだ寝ぼけているせいで、手元がひどく覚束ない。
「あれ……? ボタンが……」
見れば、一番上のボタンを二番目の穴に、二番目のボタンを三番目の穴に入れてしまっていて、襟元がちぐはぐに歪んでいる。
剣を振る時はあんなに素早くて正確なのに、どうして自分の服のボタン一つまともに留められないのだろう。
「貸してください。私がやりますから」
私はため息をつきながら、ルーカスさんの前に立った。
彼が椅子に座り、私がその前に立つと、ちょうど目線が同じくらいの高さになる。
「すみません、かすみさん……。俺、こういう細かいこと、本当に苦手で……」
シュンと犬耳を垂らす彼をよそに、私は間違ったボタンを一つずつ外し、下から丁寧に留め直していく。
「剣の手入れはあんなに丁寧なのに、不思議ですね。はい、これで制服はOKです」
襟元のシワをパンッと伸ばしてあげると、彼は嬉しそうに目を細めた。
「かすみさんの手、魔法みたいです。かすみさんが触ってくれると、服がピシッとして、すごく気持ちいい」
「魔法じゃありませんよ。ただの主婦の知恵です。……さあ、次は髪の毛です。鳥の巣みたいになっていますよ」
私は彼の背後に回り、木製の櫛を取り出した。
寝相が悪すぎて、美しい金髪の後頭部が見事な爆発を起こしている。
「少し痛いかもしれませんけど、我慢してくださいね」
「はいっ!」
私は、絡まった髪の毛を毛先から少しずつ、丁寧に梳かしていった。
サラサラとした髪が、私の指の間を滑り落ちていく。
石鹸の清潔な香りと、彼自身の少し男らしい体温の匂いが混ざり合って、ふわりと鼻をかすめた。
「……かすみさん」
髪を梳かされている間、大人しくしていたルーカスさんが、ぽつりと口を開いた。
「かすみさんにこうやってお世話してもらってると、なんだか、ずっと昔から一緒にいたみたいな気がします」
「昔から、ですか?」
「はい。俺、ちっちゃい頃からずっと剣の修行ばっかりで、親にも『お前は剣だけ振っていればいい』って言われて育ったから……。朝、誰かに『おはよう』って言ってもらって、こうやって優しく髪を梳かしてもらうの、初めてなんです」
彼の声は、いつもの元気なトーンとは少し違って、どこか静かで、切実だった。
「……かすみさんが来てくれて、本当に嬉しいです。俺の人生に、かすみさんがいてくれてよかった」
その真っ直ぐすぎる言葉に、私の心臓が、トクンと大きく跳ねた。
『俺の人生の邪魔をするな』
前世でそう言われ続けた私が、今、この人から『人生にいてくれてよかった』と言われている。
「……私もですよ、ルーカスさん」
少しだけ声が震えてしまったのをごまかすように、私は最後の寝癖を梳かし終え、彼の前に回り込んだ。
「はい、これで完璧です。王国最強の騎士様に戻りましたよ」
私が微笑んで見上げると。
「…………」
いつの間にか立ち上がっていたルーカスさんが、すぐ目の前で、私を見下ろしていた。
椅子に座っていた時は目線が同じだったけれど、立ち上がった彼は180センチの長身だ。
先ほどまでの寝ぼけた大型犬のような雰囲気は消え去り、そこには、戦場を駆ける大人の男の、鋭くて深い青の瞳があった。
「……えっと、ルーカス、さん?」
距離が近すぎる。
彼の大きな手が、スッと伸びてきて、私の頬にかかっていた後れ毛をそっと耳にかけた。
「……俺のこと、ただの手のかかる弟みたいに思ってますか?」
低く、少し掠れた声。
普段の彼からは想像もつかないような、雄としての熱を帯びた視線に、私は息を呑んだ。
「あ、あの……」
私が戸惑って後ずさろうとした瞬間。
「あーっ! 俺、今日、新しい剣の試し斬りがあるんだった! 早くご飯食べて行かないと!」
ルーカスさんはパッといつもの屈託のない笑顔に戻り、ものすごい勢いで部屋を飛び出していった。
「かすみさん! 早く行きましょう! 俺、お腹ペコペコです!」
廊下の奥から手を振る彼を見て、私はへなへなとその場にしゃがみ込みそうになった。
「……もう、なんなのよ、心臓に悪い……」
胸の奥で早鐘のように鳴り続ける鼓動を必死に落ち着かせながら、私はパタパタと彼を追いかけて一階の食堂へと降りていった。
「遅いぞ、ルーカス。……む?」
食堂に戻ってきた私たちを見て、セオドアさんがピタリと食事の手を止めた。
「……今日の隊長は、随分と身なりが整っているな。寝癖もなく、制服のボタンも正しく留まっている。しかも、微かに石鹸と……香澄と同じ匂いがする」
セオドアさんは、銀縁眼鏡をクイッと中指で押し上げ、ひどく真剣な、そしてどこか不満げな目で私を見た。
「……香澄」
「は、はい! なんでしょうか?」
「私にも、その朝の『管理』を要求できないだろうか。論理的に考えて、出勤前の身だしなみチェックは、副隊長である私にこそ必要不可欠だと思うのだが」
「えぇっ!? セオドアさんは自分で着替えられるじゃないですか!」
「着替えられるが、効率の問題だ。君の手が入った方が、より完璧な一日をスタートできると推測される」
「ズルいぞ副隊長! かすみさんは俺の髪を梳かしてくれたんですからね!」
「お姉ちゃん、僕も明日から髪結んでほしいなー」
「アンタら、朝からうるせぇ……」
朝の食堂は、今日もひどく騒がしくて、そして温かかった。
『家事しかできない』と言われた私の手は、今日もこの愛すべきダメ男たちをピカピカに磨き上げている。
それがなんだかとても誇らしくて、私は思わずふふっと笑い声をこぼしたのだった。
(続く)




