第15話 たった半日いなかっただけで、寮が軽く崩壊しました
「これだけあなたに頼り切っている現状……もしあなたが、一日でもこの寮からいなくなったら、一体どうなるのかしらね?」
数日前、王宮人事官のマチルダさんが言い放ったその言葉が、まさかこんなにも早く現実のものになるとは思っていなかった。
その日の朝、私は夜明けと共に寮を出た。
冬の足音が近づき、寮の備品や厚手のシーツ、保存食の香辛料などを大量に買い込む必要があったため、王都の中心にある大市場へ向かったのだ。
『皆さんへ。今日のお昼過ぎまで買い出しで出かけます。朝ご飯のルグ豆味噌のスープは鍋に入っているので、魔力炉の火を一番弱くして温めてください。月麦のパンは切って籠に入れてあります。怪我をしないように気をつけてくださいね。 香澄より』
食堂のテーブルに置き手紙を残し、準備は万端だった。
いくら生活能力が壊滅的とはいえ、相手は王国最強の頭脳と身体能力を持つエリート騎士たちだ。「火を一番弱くして温める」だけの作業なら、半日くらい私がいなくてもどうにかなるだろう。
そう高を括っていた私を、数時間前の自分に会って小一時間ほど問い詰めたい。
「ふう、けっこう買っちゃったな……」
昼過ぎ。
両手に抱えきれないほどの紙袋や木箱を持ち、私は第七分隊の寮へと続く石畳を歩いていた。
市場の人たちは「奇跡の寮母さんだ」と私を大歓迎してくれ、おまけの野菜をたくさん持たせてくれた。少し重かったけれど、心がぽかぽかと温かくて足取りは軽かった。
今日の夕食は、もらったお肉と野菜で温かいシチューにしよう。そんなことを考えながら、寮の重い木製の扉を開けた。
「ただいま戻りまし……」
挨拶の言葉は、最後まで続かなかった。
「……焦げ臭い!?」
玄関を開けた瞬間、鼻を突いたのは、鼻腔の奥までツンとくるような酷い焦げの匂いだった。
それに加えて、廊下にはなぜか水たまりができている。
さらには、二階からバチバチという不穏な魔力の火花が散る音まで聞こえてくるではないか。
「ちょ、ちょっと! みんなどうしたんですか!?」
私は慌てて荷物を放り出し、一番匂いの強い厨房へと駆け込んだ。
「あ……」
厨房は、地獄絵図だった。
私が朝に作っておいたスープの鍋からは、真っ黒な煙がモウモウと上がっている。
「……香澄」
煙の中で銀縁眼鏡を白く曇らせていたのは、副隊長のセオドアさんだった。
彼は真っ黒になった木べらを握りしめ、呆然と鍋を見下ろしていた。
「セオドアさん! 火を一番弱くしてって手紙に書いたじゃないですか!」
「……書かれていた。だが、『一番弱い』という定義が曖昧だった。論理的に考えて、早く温めるためには火魔石の出力を少し上げるべきだと判断し……結果的に目を離した数分の間に、水分が完全に蒸発した」
「それは弱火じゃなくて強火です! しかもまた目を離したんですか!?」
私が急いで魔力炉を止めていると、今度は廊下からバシャァッ!という派手な水音が聞こえた。
「うわあああっ!? また布が破れた!」
飛び出していくと、裏庭の井戸の近くで、隊長のルーカスさんが頭を抱えていた。
彼の足元には、水浸しになったシーツと、無残にも引きちぎられたシャツが散乱している。
「ル、ルーカスさん! 何をしてるんですか!」
「かすみさんっ! あ、あの、かすみさんが帰ってくる前に、俺が洗濯を手伝っておこうと思って……でも、絞る時に力が入りすぎて、布がビリビリに破れちゃって……シャツのボタンも全部飛んでいきました……」
ルーカスさんは、水も滴るいい男どころか、泥だらけの大型犬のようにシュンと肩を落としている。
ドンッ!! バチチチッ!!
「うわっ、今度は二階!?」
私は階段を駆け上がった。
カイルくんの部屋のドアが開け放たれており、紫色の魔力の火花がバチバチと飛び交っていた。
「おい! 俺のあの魔導書どこやった! ……って、くそっ、また探し物してたらゴミの山が崩れて魔力がショートした!」
せっかく私が綺麗に整理したはずの部屋が、彼が適当に物を引っ張り出したせいで、たった半日で再び魔境へと逆戻りしようとしていた。
「カイルくん! 探し物なら私がやるって言ったでしょ!」
「ア、アンタがいないから自分でやろうとしたんだろ! 俺のせいじゃねぇ!」
逆ギレしながらも、彼の顔はあからさまに「助けてくれ」と訴えていた。
私は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、一階の共有の談話室へと向かった。
そこには、残り二人の問題児がいるはずだ。
「……お姉ちゃん……」
ソファの上で、ノエルくんが消え入りそうな声を出してぐったりとしていた。
「ノエルくん!? 顔色が真っ青じゃないですか! 朝ご飯のパンは食べたんですか!?」
「……お姉ちゃんがよそってくれないと、美味しくないもん……。代わりに飴玉食べたら、気持ち悪くなっちゃった……」
見事なまでの栄養失調と魔力切れの症状だ。
私が朝に食べさせなかっただけで、この回復術師はあっという間に元の虚弱体質に戻ってしまったらしい。
そして、そのソファの影、最も暗い壁際に。
体育座りをして、膝に顔を埋めている大男がいた。
「……ジンさん」
私が声をかけると、諜報員のジンさんは、幽鬼のようにゆっくりと顔を上げた。
その灰色の瞳には、光が一切なかった。
「……音が、ない」
「え?」
「……かすみの、足音。……包丁の音。……気配。……全部、消えた。……俺の体も、消えそうだ」
ジンさんは、私がいない半日の間、一睡もできずにただ暗闇の中で気配を探し続けていたのだ。
朝食抜きで倒れるノエルくん。
不眠症が再発するジンさん。
魔力暴走を起こすカイルくん。
洗濯物を破るルーカスさん。
鍋を炭に変えるセオドアさん。
たった半日。
私が買い出しで寮を空けた、たった半日の間に。
王国最強と呼ばれる第七分隊は、見事なまでに崩壊していた。
「……はあ」
私は、深く、深くため息をついた。
「皆さん、全員食堂に集合してください!」
私の号令に、五人の騎士たちはビクッと肩を震わせ、ぞろぞろと食堂に集まってきた。
焦げた匂いを漂わせるセオドアさん、ずぶ濡れのルーカスさん、髪を爆発させたカイルくん、ふらふらのノエルくん、目の下に濃い隈を作ったジンさん。
まるで、ひどい悪戯をして叱られるのを待っている子供たちのようだ。
「……あの、かすみさん」
ルーカスさんが、恐る恐る口を開いた。
「俺たち、かすみさんが帰ってくるまでに、全部自分たちでやって驚かせようと思ったんです。かすみさん、いつも俺たちのために頑張ってくれてるから、少しは楽をさせてあげたくて……」
その言葉に、他の四人も無言で頷いた。
彼らは、私を困らせようとしたわけじゃなかった。
彼らなりに、私のいないところで、私の負担を減らそうと努力してくれた結果が大惨事になっただけなのだ。
その不器用で、どうしようもない優しさに触れた瞬間。
私の中で張り詰めていた怒りや呆れが、ふっと音を立てて溶けていった。
「……ふふっ」
気がつけば、私は口元を押さえて笑っていた。
「かすみさん?」
「……笑うなんて、計算外だ。怒られると予測していたのだが」
目を丸くする彼らを見て、私は優しく微笑んだ。
「怒っていませんよ。ただ……やっぱり、私がいないとダメなんですね、皆さんは」
その言葉を口にした瞬間。
私の胸の奥に、じんわりと、けれど確かな『熱』が広がっていくのを感じた。
前世の私は、夫である健一にずっと呪いをかけられていた。
『お前は家事しかできない』
『俺がいなかったら、お前は一人じゃ何もできないんだぞ』
『お前は俺の人生の寄生虫だ』
その言葉を信じ込み、私は自分に価値がないと思いながら、息を潜めて生きてきた。
けれど、どうだろう。
この異世界で、王国最強と呼ばれるエリート騎士たちは、私に向かって全身で叫んでいるのだ。
「私(香澄)がいなければ、生きていけない」と。
彼らは、私を便利に使っているわけじゃない。
私という人間が、私の立てる生活の音が、私の作る温かいご飯がなければ、彼らの命は繋がらないのだ。
「はいはい。もう、しょうがないですね」
私のいつもの口癖が、食堂に響いた。
「セオドアさん、お鍋は私が磨きますから、触らないでください。ルーカスさん、破れた服は後で私が縫いますから、まずは体を拭いて。カイルくん、お掃除のやり直しは夕食の後で手伝います。ノエルくん、ジンさん、今すぐ温かくて甘いスープを作りますから、少しだけ待っていてくださいね」
私が次々と指示を出すと、五人の騎士たちの顔に、パァァッ!と劇的なまでに光が戻った。
「かすみさん……っ!!」
全員が、まるで干からびた大地が雨を吸い込むように、心底安堵した顔で私を見た。
「あのね、お姉ちゃんがいなくなって、僕すごく怖かった……」
ノエルくんがフラフラと近づいてきて、私の腰にぎゅっと抱きつく。
「……っ、別に寂しかったわけじゃねぇけど! アンタがいないと部屋が片付かねぇから困るんだよ!」
カイルくんがそっぽを向きながら、私のエプロンの裾を掴む。
「……やはり、君の管理能力は我々の生存に不可欠だ。君の不在は、部隊の壊滅を意味する」
セオドアさんが、眼鏡の奥の目を微かに潤ませて言う。
「……やっと、息ができた」
ジンさんが、私の気配を確かめるように、すぐ隣に立って深く息を吐く。
そして、ルーカスさんが、私の前に真っ直ぐに立った。
透き通るような青い瞳が、ただ真っ直ぐに私だけを映している。
彼は私の両手をそっと取り、大きな手で包み込むようにして握りしめた。
「かすみさん」
その声は、いつもの犬のように元気な声ではなく、一人の大人の男としての、低くて切実な響きを持っていた。
「もう、どこにも行かないでください」
それは、命令でも束縛でもない。
純粋な願いであり、祈りだった。
「俺たちの命は、かすみさんの手の中にあります。だから……ずっと、俺たちのそばにいてください」
その言葉が、私の心の一番深いところにあった、冷たくて固い氷を完全に砕き割った。
『家事しかできない』と捨てられた三十五歳の専業主婦は。
異世界の騎士団寮で、誰よりも必要とされ、愛される居場所を見つけたのだ。
「……はい」
私は、涙ぐみながらも、最高の笑顔で頷いた。
「私はどこにも行きません。ここは、私の大切な『仕事場』ですから」
こうして、私と五人のダメ男たちとの、騒がしくて温かい日々が本格的に幕を開けた。
私の第二の人生は、どうやら前世の何百倍も忙しくて、何千倍も幸せなものになりそうだ。
(続く)




