第13話 眠れない諜報員に、眠れる夜を教えました
夜のしじまに包まれた、第七分隊の寮。
暗闇の廊下に音もなく立っていたのは、諜報員のジンさんだった。
「……俺にも、……もらえるか。その、温かいやつ」
消え入りそうな声で、彼が私の手元にあるマグカップを指差す。
その深い灰色の瞳には、極度の不眠による濃い隈が刻まれ、限界まで張り詰めた糸のような危うさがあった。
「もちろんです。少し待っていてくださいね」
私は微笑んで頷き、再び厨房の灯りを点けた。
魔力炉に火を入れ、小鍋にミルクを注ぐ。
そこに、マチルダさんから渡されていた生活備品の中から、安眠効果があるという『星降草』の乾燥葉を少しだけ砕いて入れた。
火にかけながらゆっくりと木べらでかき混ぜると、ミルクの甘い匂いに混じって、森の夜風のような深く落ち着く香りがふわりと立ち上る。
「……いい匂い」
いつの間にか厨房の入り口に立っていたジンさんが、ぽつりとこぼした。
足音が全く聞こえなかったことに一瞬心臓が跳ねたけれど、彼が暗殺や潜入を司る諜報員であることを思い出して納得する。
「少し甘めにしておきました。熱いので、気をつけてくださいね」
湯気が立つマグカップを手渡すと、ジンさんは両手でそれを包み込み、ゆっくりと口に運んだ。
こくり、と喉が鳴る。
「……あったかい。……腹の奥まで、じんわりする」
「よかったです。星降草が入っているので、少しは体の力が抜けると思いますよ」
ジンさんは無言で頷き、マグカップを空にした。
けれど、彼の顔に張り付いた「眠ることへの恐怖」のような強張りは、まだ完全には解けていなかった。
「……ジンさん。今日もまた、私の部屋の前の床で寝るつもりですか?」
私が尋ねると、彼はマグカップを持ったまま、わずかに視線を泳がせた。
「……だめか?」
「だめではありませんが、冷たい床では疲れが取れません。任務で怪我もしているんですから、ちゃんとした寝具で寝ないと悪化してしまいます」
彼は昨日、任務から帰還した際に肩口に軽い裂傷を負っていた。私が手当てをしたものの、免疫力が落ちていれば傷の治りも遅くなる。
「……一人だと。……自分の気配が消えていくのが、怖い」
ジンさんは、ぽつり、ぽつりと、心の奥底にある本音をこぼし始めた。
「……息を殺して、心音を隠して、影に溶け込む。……それが俺の仕事だ。でも、それをずっと続けていると、自分が生きてここに存在しているのか、分からなくなる」
彼の大きな手が、微かに震えていた。
闇に溶け込み、誰にも気づかれずに命を奪い、情報を持ち帰る。
その過酷すぎる任務の代償として、彼は「生きた人間の気配」が側になければ、自分という存在を繋ぎ止められなくなってしまったのだ。
「……あんたの立てる音は、……俺を、現実に引き戻してくれる。……だから、近くにいたい」
痛切な願いだった。
前世の夫である健一は、私の立てる生活音を「うるさい」「お前のせいで眠れない」と怒鳴り散らした。
私の存在そのものが彼の邪魔になっているのだと、いつも息を潜めて生きてきた。
けれど目の前のこの人は、私の呼吸を、私の立てるささやかな生活の音を、命綱のように求めてくれている。
「分かりました」
私はマグカップを受け取り、彼にふわりと微笑みかけた。
「でも、冷たい床は禁止です。妥協案として、私の部屋のドアから少しだけ離れた廊下の角に、専用の寝床を作りましょう。そこなら、私の部屋からの気配も音も十分に届きますから」
ジンさんは少し驚いたように目を見開いた後、「……あぁ」と短く頷いた。
私はリネン室から、洗いたてのシーツと、ふかふかのマットレス、そして予備の毛布を引っ張り出した。
ルーカスさんと一緒に洗い、お日様の匂いをたっぷりと吸い込んだシーツだ。
それを、私の部屋の斜め向かいにある、廊下の少し窪んだアルコーブ(くぼみ)のスペースに敷き詰める。
「ここなら壁に囲まれていて安心感もありますし、私の部屋のドアを少し開けておけば、十分気配を感じられるはずです」
さらに、先ほどの星降草を小さな布袋に詰め、枕元にそっと置いた。
清潔な布の匂いと、微かなハーブの香りが、小さな寝床を満たしていく。
「さあ、横になってみてください」
私が促すと、ジンさんは長身を折りたたむようにして、その簡易ベッドに身を横たえた。
「……柔らかい。……太陽の匂いがする」
「今日は、お洗濯を頑張りましたから。ジンさんのシーツも、明日にはこのお日様の匂いにしておきますね」
私がそう言って立ち上がろうとした、その時だった。
スッ……。
音もなく伸びてきた大きな手が、私のエプロンの裾をきゅっと掴んだ。
「……っ?」
振り返ると、毛布にくるまったジンさんが、下から私を見上げていた。
いつもは感情を一切見せない無機質な灰色の瞳が、今は迷子の子供のように、不安げに揺れている。
「……そばにいてくれ」
掠れた、切実な声だった。
「……俺が、眠るまで。……少しだけ、……あんたの気配が、すぐ傍にほしい」
その無防備な甘え方に、私は思わず胸を突かれた。
普段は誰よりも大きくて、恐ろしいほどの威圧感を放っている諜報員が、ただ静かな夜を恐れて、私に縋っている。
これ以上、彼を一人ぼっちにしておくことなんて、できるはずがなかった。
「……はいはい。もう、しょうがないですね」
私は苦笑しながら、彼の枕元のすぐそばの床にぺたりと座り込んだ。
そして、彼が掴んでいたエプロンの裾からそっと手を外し、代わりに、彼の大きくて冷たい手を両手で包み込んだ。
「……っ」
ジンさんの肩が、微かに跳ねた。
「こうしていれば、私がここにいるのが一番よく分かるでしょう?」
「……あぁ。……あんたの体温が、……脈の音が、伝わってくる」
「じゃあ、目を閉じてください。私はどこにも行きませんから」
私が優しく語りかけると、ジンさんは大人しく目を閉じた。
廊下は静まり返り、遠くで風の音がするだけだ。
私は彼の手を握ったまま、一定のリズムでゆっくりと呼吸を繰り返した。
私の温もりと、規則正しい呼吸の音が、彼の中に溜まっていた緊張を少しずつ解きほぐしていくのが分かった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
「……すー……すー……」
やがて、彼から深く、安らかな寝息が聞こえ始めた。
そっと彼の手を離し、顔を覗き込む。
眉間の深いシワは消え、その寝顔は驚くほど穏やかで、年相応の青年のものだった。
「……おやすみなさい、ジンさん」
私は彼に毛布を掛け直し、自分の部屋へと戻った。
ドアは約束通り、ほんの少しだけ開けたままにして。
私の立てる音が、誰かの安らぎになる。
誰かに必要とされることが、こんなにも私の心を温かく満たしてくれるなんて、異世界に来るまでは知らなかった。
* * *
翌朝。
「おはようございます、皆さん。今日は土芋の温かいポタージュですよ」
朝の食堂は、今日も賑やかだった。
「うっま! かすみさん、このドロドロしたスープ最高!」
「カイル、行儀が悪いぞ。……しかし、確かにこれは絶品だ」
「お姉ちゃん、僕もう一杯食べる!」
「俺もおかわりお願いします!」
カイルくん、セオドアさん、ノエルくん、ルーカスさんが次々と平らげていく中。
食堂の隅の席に座るジンさんは、相変わらず無口だったけれど、目の下の隈は昨日よりもずっと薄くなっていた。
目が合うと、彼は小さく頷き、「……美味い」とだけ呟いた。
そのたった一言に込められた深い感謝が伝わってきて、私は思わず頬を緩めた。
これで、五人全員だ。
服を縮ませるルーカスさんに、洗濯の仕方を教えた。
台所を燃やすセオドアさんに、火の扱いと温かいご飯の味を教えた。
ゴミ屋敷だったカイルくんの部屋を、安全な居場所に変えた。
お菓子ばかり食べて倒れるノエルくんに、栄養のある食事を食べさせた。
そして、眠れないジンさんに、安らかな夜を作った。
第七分隊の生活基盤は、ようやく人間らしいものに整いつつあった。
私が満足げに空になった鍋を片付けようとした、その時。
バンッ!!!
食堂の扉が、壊れんばかりの勢いで蹴り開けられた。
「ちょっと、あんたたち!!」
そこに立っていたのは、王宮人事官のマチルダさんだった。
普段は冷静で隙のない彼女が、なぜか髪を振り乱し、手には大量の書類の束を握りしめて、血相を変えている。
「マチルダさん!? どうしたんですか、そんなに慌てて」
私が驚いて駆け寄ると、マチルダさんは目を見開き、私と五人の騎士たちを交互に指差した。
「どうしたもこうしたもないわよ! 今朝の王宮の定例会議、上層部がひっくり返るほどの大騒ぎになったんだから!」
「大騒ぎ? 何か不祥事でも……」
「逆よ、逆!!」
マチルダさんは、バサァッ!と手元の書類をテーブルに叩きつけた。
「第七分隊! あなたたち、今週の討伐スコアと任務達成率が、過去の平均の三倍以上に跳ね上がってるじゃないの!!」
「「「「「えっ?」」」」」
私を含め、食堂にいた全員の声が綺麗にハモった。
「ルーカスの剣撃速度は二割増し! セオドアの戦術展開はミス・ゼロ! カイルの魔力暴走は完全に収まり出力安定! ノエルの治癒魔法の回復量は倍増! おまけに、ジンの索敵範囲まで広がってる!!」
マチルダさんは、興奮冷めやらぬ様子で早口にまくしたてた。
「魔法の薬でも使ったのかって、王宮の査問委員会が疑ってるくらいよ! ……あなたたち、一体何をしたの!?」
五人の騎士たちは、きょとんとした顔を見合わせた後。
一斉に、エプロン姿の私へと視線を向けた。
「俺たち、別に特別なことは何も……」
ルーカスさんが、ポカンと口を開けて言う。
「ただ、毎日温かくて美味い飯を食って」
「清潔な服を着て、」
「ぐっすり眠って、」
「……生きてるだけだ」
彼らの言葉に、マチルダさんは大きく息を吸い込み、そして、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
私のやってきた『ただの家事』が。
王国最強の騎士団を、真の意味で『最強』に押し上げてしまったらしい。
(続く)




