ep7 アルヴァ聖王国
窓から差し込む朝日が、ゆっくりと室内を満たしていく。
ルイスはその光にくすぐられるように、うっすらと目を覚ました。
「ん……」
ぼんやりと瞬きをして、視界がはっきりした瞬間——
目の前に、ハニエルの寝顔があった。
「っっ!?!?」
思わず息を呑み、身体が強張る。
だがすぐに、昨夜の出来事が脳裏によみがえった。
———
昨日、ルイスが食料の買い出しに出ている間、ハニエルは宿を探しに行ってくれていた。
それはありがたかったのだが、部屋に入った瞬間、ルイスは固まった。
「えっ……これ、ダブルベッド……?」
「うん。二人用って言ったら、ここを案内されたんだよ」
ハニエルはいつもと変わらない淡々とした口調だった。
「い、いや! 二人用だけどもっ……これはちょっと……」
野宿のときも隣同士で眠ってはいた。
けれど、同じベッドで眠るとなると、話は別な気がする。
ハニエルは、何が不満なのかというような顔で首を傾げてルイスを見る。
「……僕、ちょっと宿の人に、他の部屋がないか聞いてくるよ……」
そう言って部屋を出ようとした、そのとき。
ハニエルが、ルイスの服の袖をきゅっと掴んだ。
「そんなに……私と一緒に寝るの、嫌……?」
少し伏せられた瞳。
どこか傷ついたような声音。
「ゔっ……! い、嫌……では、ない……けど……!」
顔が一気に熱くなる。
(ぼ、僕の馬鹿ー!!)
———
そうして結局、二人は同じベッドで眠ることになったのだった。
今、隣で静かな寝息を立てているハニエルは、
いつも戦場で見せる強く頼れる天使ではなく、
ただの——穏やかな寝顔の少女に見えた。
起こさないよう、息を潜めながらベッドを抜け出し、
ルイスはそっと支度を始めた。
———-
「んーっ! 今日、すごく天気いいね!」
宿を出たルイスは、気持ちよさそうに背伸びをする。
「だね。晴れてよかったよ」
二人は港へ向かい、船に乗る予定だった。
「そういえば、船でどこまで行くの?」
「アルヴァ聖王国っていうところだよ」
「ふーん……初めて聞くな……」
「島国だからね。騎士団国家でもあるから、ルイスにとっては今後の学びにもなると思うよ」
「騎士団国家……?」
「聖紋騎士団が、独自の領土と主権を持って形成した国のことだよ。
拠点は各地にあるけど、アルヴァ聖王国には本拠地があるんだ」
「本拠地!? ……ってことは、それだけ悪魔も出るってこと?」
「まぁ、そうなるね。修行には最適な場所だよ」
ハニエルは、わずかに含み笑いを浮かべながら、ルイスの顔を覗き込んだ。
「が、頑張ります……」
すっかり旅行気分だったルイスは、少しだけ肩を落とした。
⸻
港に着き、二人は船へと乗り込んだ。
ここから数週間に及ぶ船旅が始まる。
「すごいよハニエル! 船なのに、ちゃんとベッドもある!」
目を輝かせるルイスに、ハニエルは優しく微笑んだ。
「うん。よかったね」
「ねぇ、船の上にも出てみようよ!」
子どものようにはしゃぎ、ルイスは甲板へと駆け出した。
「そんなに走らなくても……」
そう言いつつ、ハニエルも後を追う。
目の前には、どこまでも広がる澄み切った青い海。
太陽の光を浴びて、風に揺れるルイスの金髪がきらめいていた。
「わぁ……すごい……綺麗だ……」
その横顔に、ハニエルは思わず視線を奪われる。
「……どうしたの?」
気づいたルイスが振り返る。
「いや、なんでもないよ」
ハニエルはすぐに視線を逸らし、いつも通りの口調に戻った。
「アルヴァ聖王国……どんな国なんだろう」
この先に待つ出会いを思い、
ルイスは胸を高鳴らせていた——。
◆ ◆ ◆
数週間に及ぶ船旅は、ハニエルとルイスにとって、久しぶりに心と身体を休める時間となった。
甲板で風を浴びながら雑談をしたり、船内を探検したり。
ゆったりと流れる時間の中で、二人は穏やかな日々を過ごしていた。
そしてついに——
船は、アルヴァ聖王国、首都•アルヴァの港へと到着した。
船を降りた瞬間、目の前に広がったのは、重厚な石造りの街並み。
港には外航船がいくつも停泊し、人々の行き交う様子から、この国の繁栄が一目で伝わってくる。
「ここが……アルヴァ聖王国……」
ルイスは圧倒されたように、その景色を見渡していた。
「とりあえず、街を少し歩いてみようか」
ハニエルはいつも通り落ち着いた様子で、先に歩き出す。
街の中心へ進むにつれ、建物はより色鮮やかになり、
聖紋騎士団と思われる軍服姿の男性たちの姿も、頻繁に目に入るようになった。
装いの華やかな女性も多く、この一帯に住む人々が裕福であることが窺える。
「ハニエル……なんか、すごいね。ここ……」
ルイスは周囲を気にしながら、小声で話しかけた。
「ここは騎士団も暮らしている街だから、治安も保たれている。
でもその分、東へ行くほど貧富の差は大きい国なんだよ」
「……とても、そうは見えないけど……」
「ここは少し賑やかすぎるね。もう少し外れたところへ行こう」
「うん」
人の流れに押されそうになりながら、ルイスはハニエルの背中を追った。
繁華街から離れた一角に出ると、周囲は少し落ち着いた雰囲気になった。
「この辺なら、ゆっくり行動できそうだね。宿もいくつかありそう」
「そうだね……でも、できれば出費は抑えたいな……」
ルイスは財布の中身を確認し、顔を曇らせる。
「お金、気にしてるの?」
「うん。持ってきた分はあるけど、これからどれくらい旅が続くか分からないし……」
無駄な出費は、できるだけ避けたい。
それがルイスの正直な気持ちだった。
「……なら、これを使って」
ハニエルはそう言って、ポケットから小さな巾着を取り出し、差し出した。
「え……?」
中を覗いた瞬間、ルイスは言葉を失った。
ぎっしりと詰まった金貨。
「えっ!? こ、これ……どうしたの!?」
「昔、悪魔討伐をしたときに、人間からお礼として貰ったんだ。
使う機会がなくて、ずっと持っていただけだよ」
「……」
それだけあれば、何十年も暮らしていける。
今まで泊まってきた宿や船が、どれも良いものだった理由にも納得がいった。
「ありがとう……。でも、これはハニエルが貰ったものだよ。
いざってときのために取っておこう。僕もちゃんと出すから」
そう言って、ルイスは巾着をそっと返した。
「……そう?」
ハニエルは少し首を傾げながら、再びそれをポケットにしまった。
「おや? 見ない顔だね。旅人さんかい?」
不意に、目の前の建物から声がかかる。
振り返ると、宿の主人と思しき老人が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「えっ、あ……はい」
「今、宿を探していまして」
ハニエルが落ち着いて答える。
「それなら、うちに泊まっていくといい。部屋も空いてるし、値段も安くするよ」
「えっ!? 本当ですか!?」
ルイスは思わず前のめりになった。
老人は二人を中へと案内し、空き部屋を見せてくれる。
「最近は新しい宿に客を取られがちでね。
でも部屋は広いし、悪くないだろう?」
部屋はやや年季が入ってはいたが、清潔で、一般的な宿よりも広かった。
何より——
「……ベッド、二つある……」
それを確認し、ルイスは心底ほっと胸を撫で下ろす。
「今日はここに泊まろう、ハニエル」
「うん、そうだね」
「連泊してくれてもいいんだよ」
「ありがとうございます。助かります」
ルイスは丁寧に頭を下げた。
「この国は初めてかい?」
「はい! あの……今日まだ何も食べてなくて。
この辺でおすすめのお店、ありますか?」
「それなら、すぐ近くに知り合いの店がある。案内しよう」
そう言って、老人と共に一度宿の外へ出た。
「あの奥に、赤い看板が見えるだろう?」
「えっと……あ、あれかな?」
ルイスが目を凝らした、そのとき——
後ろから、誰かが勢いよくぶつかってきた。
「痛っ……!」
「……あぁ、悪りぃな、坊主」
長身で黒髪、整った顔立ち。
だが、足取りはどこかおぼつかない。
「い、いえ……」
「レオ。お前、また昼間から飲み歩いてたのかい?」
「うるせぇな、爺さん……俺の勝手だろ……」
そう吐き捨てるように言い残し、千鳥足で去っていく。
「知り合いなんですか?」
「あぁ。小さい頃から知ってる。
ついこないだまでは、騎士団の少佐だったんだがね……」
「えっ……?」
「理由も分からないまま辞めちまってな。
気づいたら、ああなっていたよ」
(若そうなのに……少佐まで上り詰めて、突然……)
ルイスが考え込んでいると、ふと気づいた。
「あれ……? ハニエルは……?」
周囲を見渡しても、その姿はなかった。
⸻
ハニエルは、宿から少し離れた場所を一人歩いていた。
(……ここにも、いない……)
微かに感じる、懐かしく、遠い気配。
辿ろうとすればするほど、すり抜けるように消えていく。
(近づいている気はするのに……どうして…エリアス…)
アルヴァ聖王国は、初めて訪れた国ではない。
過去にも任務で足を踏み入れてきた場所だ。
それなのに——
その時の記憶は、ほとんど残っていなかった。
懐かしい感覚だけが、胸の奥に引っかかる。
「……私、どうしちゃったんだろう……」
自分らしくない弱さを振り払うように、ハニエルは小さく息を吐いた。
そのとき。
「ハニエル!!」
聞き慣れた声が背後から響く。
「ルイス……」
「勝手に一人で行かないでよ! 心配するでしょ!」
息を切らし、必死な様子のルイス。
「ごめん……ちょっと、気になることがあって……」
とっさについた言葉は、半分だけ本当だった。
「もう……次からは気をつけて」
そう言って、ルイスはハニエルの右手を掴み、歩き出す。
「えっ……ルイス……?」
「またどこか行かれたら困るから。ほら、早く」
小さな手。
それでも、確かな温もり。
伝わる体温が
ハニエルの胸に、理由の分からない安堵が広がった。
——なぜ、こんなにも落ち着くのか。
その答えは、まだ分からないまま——。
————
その夜、ハニエルとルイスは食事を終え、宿の部屋へ戻っていた。
「ふぅ……お腹いっぱいだぁ。ご飯、すごく美味しかったな……」
ルイスはベッドに倒れ込むようにして、満足げに呟く。
そのとき——
ふと視線を上げると、ハニエルが窓辺に立ち、外をじっと見つめていた。
「……ハニエル? どうしたの?」
「……悪魔の気配がする」
その一言で、空気が変わった。
「えっ!? こ、この近く!?」
ルイスは勢いよく身体を起こす。
「そうだね……かなり近い。
……ちょっと、行ってくるよ」
そう言って、ハニエルは部屋を出ようとした。
「待って! ハニエル! 僕も行く!」
「……今回の悪魔は、少し危険かもしれない。
ルイスには、まだ早いと思う……」
「でも……!」
ルイスは拳を握りしめ、真っ直ぐにハニエルを見た。
「僕も……ハニエルと一緒に戦いたいんだ」
その瞳に宿る強い意志に、ハニエルは言葉を失う。
「……分かった。
でも、私が危険だと判断したら、無理はしないこと。いい?」
「うん……! 約束する!」
ハニエルは小さく頷き、二人は急いで部屋を後にした。
⸻
宿から少し離れた、人通りの少ない開けた場所。
その奥には、長く手入れされていない林が広がっていた。
「……この辺だ」
ハニエルはそう呟くと、消していた白い翼を出現させ、林へ踏み込む。
ルイスも剣に手をかけ、後に続いた。
進むにつれ、空気は重く、
耳に届くのは、不快な呻き声。
「……悪魔……?」
「近い。それに……かなり強い魔力……」
さらに奥へ進んだ、そのとき——
「……え……?」
ハニエルは、思わず足を止めた。
「どうしたの?」
「……悪魔が……悪魔と戦っている」
「えっ!? 悪魔同士で……!?」
信じ難い光景だった。
二体の悪魔が、互いに殺し合うように刃を交えている。
「悪魔同士が争うことは、ほとんどない……
それに、片方……妙な気配がする……」
やがて、一方の悪魔が倒れ、動かなくなった。
「ルイス、ここで待っていて」
「……わ、分かった」
ハニエルは一人、勝利した悪魔の方へ歩み寄る。
「……ねぇ、そこの悪魔」
声をかけると、悪魔はゆっくりと振り向いた。
不気味ではあるが、どこか人間に近い姿。
「今、悪魔と戦っていたよね?」
その瞬間——
悪魔は剣を振り上げ、ハニエルに斬りかかった。
「っ……!」
ハニエルは即座に翼から剣を顕現させ、攻撃を受け止める。
「……貴方、何者?
普通の悪魔じゃない」
「……」
「それに……なぜ、天使の剣を持っている?」
悪魔は答えない。
「私は天使。
戦う前に、話を聞かせて」
——その言葉に、悪魔の動きが止まった。
『……天使……?』
低く、掠れた声。
『……本当に……いたのか……天使は……』
「この羽が、何よりの証拠だよ」
悪魔は剣に込めていた力を、ゆっくりと抜いた。
「……貴方……もしかして——」
ハニエルが何かに気づき、口を開きかけた、その瞬間。
「ハニエル!! 大丈夫!?」
茂みの陰で待っていたルイスが、我慢できず飛び出してきてしまった。
「ルイス! まだ出てきていいって言ってない!」
「ご、ごめん……でも……!」
そのとき——
悪魔の身体から、白い蒸気のようなものが噴き出した。
「……な、何……!?」
硬い皮膚が崩れ、剥がれ落ちていく。
次の瞬間、そこに立っていたのは——
一人の、人間の男だった。
「……え……?」
ルイスは目を見開いた。
「……昼間の……!!」
昼間、港近くでぶつかってきた、あの飲んだくれの男。
「……やっぱり……人間だったか……」
ハニエルは静かに呟いた。
男は自嘲気味に笑い、二人を見た。
「俺は……悪魔に呪われた人間だ」
その瞳には、深い影が宿っていた。




