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第7話 無防備な笑顔と新たな家族

 教室の窓から吹き込む春の風が、黒板のチョークの粉を微かに舞い上がらせた。

 新しい教科書のインクの匂いが漂う中、担任の教師がプリントを配り終え、ホームルームが始まるまでの僅かな空白の時間が訪れる。


「ねえ西園寺くん、本当にピッチも携帯も持ってないの?」


 隣の席の桜木マナが、自分の机の上に置かれた小物を指差しながら身を乗り出してきた。

 彼女の指先にあるのは、透明なビニールケースに入れられ、細かく切り抜かれた写真シールがびっしりと重ね貼りされたPHSだ。アンテナの根元には、丸みを帯びたカラフルなキャラクターのストラップがジャラジャラと複数ぶら下がり、彼女が動くたびに硬質なプラスチックの音を立てている。


「ああ。今のところ、早急に連絡を取り合う相手もいないからな」


「えー、信じらんない! 不便じゃない?」


 マナは目を丸くし、指定のローファーに分厚いルーズソックスをたるませた足を、椅子の下で軽くパタパタと揺らした。


「今度ね、クラスの女子でドコモの新しい携帯に変えようって話してるんだよね。なんか、画面でニュースが見れたり、メールが送れたりするらしいの。ピッチより画面が大きいから、すっごく気になってて」


 彼女が何気なく口にしたその言葉に、俺の口角がわずかに上がった。


 マナの瞳の奥にある、新しい技術に対する直感的な「気になる」という熱量。

 彼女たちのような特別な専門知識を持たない普通の女子高生が、純粋な好奇心から新しいデバイスに飛びつく。その集団心理と口コミの伝播力こそが、これから数年のうちに巨大なインターネット経済圏を形成し、時代を動かす最大の原動力になる。


 俺がこれから投下する莫大な資本の行き先が間違っていないことを、彼女の生々しい反応が何よりも雄弁に証明してくれていた。


「西園寺くん? どうしたの、黙り込んじゃって」


 マナが首を傾げ、こちらを覗き込んでくる。

 好奇心に満ちた大きな瞳と、コロコロと変わる表情。そこに計算や打算の色は微塵もない。


「いや、君の話はとても興味深いと思ってね」


「ホント? 西園寺くんって大人っぽいっていうか、落ち着いてるから、こういう話はつまんないかと思ってた」


 にかっと白い歯を見せて笑う。

 次の一手に向けて高速で回転し、熱を持ち始めていた脳のコアが、彼女の無防備な笑顔によって、涼やかな風に吹かれたようにすっと冷まされていくのを感じた。


「また色々教えてくれ。参考にさせてもらうよ」


「うん! あ、携帯買ったら絶対一番に番号教えてね!」


 放課後。

 帰りのホームルームが終わり、プリントの束をカバンに仕舞っていると、担任の天童から名前を呼ばれた。提出した書類の一部に記入漏れがあったらしい。


 職員室へ向かうと、開け放たれたドアの前の廊下で、天童が誰かと立ち話をしていた。


 相手は高校の制服ではなく、少し大人びた春物のカーディガンと細身のスカートを着た若い女性だった。

 周囲の空気をワントーン明るくするような華やかなオーラを放ち、少し吊り上がった大きな瞳が、小悪魔的な魅力を感じさせる美少女だ。


「あ、西園寺。わりぃ、ちょっとそこで待っててくれ」


 天童が俺に気づいて片手を上げる。

 女性がこちらを振り返り、興味深そうに目を瞬かせた。


「お兄ちゃんのクラスの子? すごい背高いし、かっこいいじゃん」


「こら、くるみ。うちの生徒をからかうな」


 くるみ、と呼ばれた女性は、天童の言葉に悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「初めまして、西園寺玲央です」


 短く頭を下げると、彼女はふわりと微笑んだ。


「くるみです。よろしくね、玲央くん」


 人懐っこい笑顔。だが、至近距離で目を合わせた瞬間、彼女の瞳の奥に、極度の緊張状態が長く続いたような微かな疲労と、大人に対する無意識の警戒の色が張り付いているのを読み取った。

 初対面の今の段階で、それに深く踏み込むような無粋な真似はしない。俺はただ静かに微笑みを返した。


「それじゃお兄ちゃん、また連絡するから」


「おう。気をつけて帰れよ」


 くるみは小さく手を振り、すれ違いざまにふわりと甘い香水を残して、廊下の奥へと歩き去っていった。

 その後ろ姿を短く見送り、俺は天童から渡された書類の束にペンを走らせた。


 学校を出た俺は、大通りでタクシーを拾い、渋谷へと向かった。


 車窓を流れる街の景色は、インターネットベンチャーの勃興を告げる独特の熱気と混沌に満ちている。建設中のビル群や、携帯電話を片手に早足で行き交う若者たちの姿が、ガラス越しに次々と流れていく。


 指定した静かな高級ホテルのラウンジに到着すると、すでに背広を着た代理人のエージェントが、分厚いファイルをテーブルに広げて待機していた。


「お待ちしておりました、西園寺様」


 重厚な革張りのソファーに腰を下ろし、出されたコーヒーには手をつけず、提示された資料に目を通す。


「先月、事前に買い付けの指示を出しておいた、港区と渋谷区のファミリータイプ・マンション3件だな」


「はい。売主側の合意も滞りなく得られまして、本契約の書類一式をご用意しております」


「よし。全てこの場でサインする。決済用の資金は既に指定の口座に待機させてある。確認後、速やかに手続きを進めろ」


「かしこまりました。引き渡し後の優良法人への賃貸運用やメンテナンスにつきましても、私どもの方で万全の体制を敷かせていただきます」


 男は洗練された所作で書類を揃え、万年筆を差し出した。

 流れるような手つきでサインを終え、数億円の資金が確実なインカムゲインを生み出す物理的資産へと変換される。


「次だ。新規法人の設立と、事業への本格的な参入準備に入る」


 俺が本題を切り出すと、男は居住まいを正し、真新しいメモ帳を開いた。


「会社名は『シリウス・ネットワークス』だ。資本金は俺の個人口座から潤沢に入れる。まずは大至急、法人登記の手続きを進めろ。事業内容は、iモード向けのポータルサイト構築となる」


「シリウス・ネットワークスですね。承知いたしました。ポータルサイトの具体的なコンテンツは、どのようにお考えでしょうか」


「着信メロディ、待受画像、占いの三本柱だ。ターゲットは女子高生を中心とした若年層に絞る」


「着信メロディ、ですか。確かに少しずつ増えてはいますが……そこまで巨大な市場になるものでしょうか」


 男がペンを止め、わずかに首を傾げる。無理もない。まだ大半の人間が、携帯電話を単なる連絡ツールや仕事道具としか見ていない時代だ。


「彼女たちの口コミの伝播力は凄まじい。月額数百円の少額課金であっても、数百万人のユーザーを囲い込めば、毎月何もしなくても莫大なキャッシュフローを産み出す金の卵になる。まずは、J-POPのヒット曲を配信するための、音楽著作権管理団体との権利交渉と、全曲をデータ化するための制作ラインを金で構築しろ」


「なるほど、薄利多売の巨大なサブスクリプション・モデルですね。承知いたしました。しかし、数百万人のアクセスが集中するとなると、ドコモ側から安定したインフラの証明を強く求められますが」


「その通りだ。だからこそ、お前に指示する。設立と同時に、サン・マイクロシステムズのエンタープライズ向けサーバーを、データセンターのフロアごと限界まで買い占めて並べろ」


「フ、フロアごと……!? し、しかし西園寺様、初期投資としてはあまりにも莫大すぎます」


「初期段階で億単位のキャッシュをインフラに即金で突っ込めること自体が、他社を絶望させる最大の参入障壁になる。圧倒的なインフラの確約を武器に、後日ドコモ側との交渉を優位に進めるんだ」


 俺の意図を汲み取ったエージェントは、小さく息を呑んだ後、深く頷いた。


「……桁外れの投資ですが、確かにそれ自体が強力な交渉材料となりますね。強固なデータセンターの空きと、物理サーバーの調達ルートを最優先で確保いたします」


「頼む。並行して渋谷周辺に数十人規模を収容できるオフィス物件の選定と、優秀なエンジニアの引き抜きも進めておけ。既存のベンチャーが資金繰りで足踏みしている間に、相場の倍の報酬を提示して根こそぎ刈り取る」


「全て、ご指示の通りに」


 男は圧倒されたように深く頭を下げた。

 これでいい。資金という暴力を最大限に利用するための土台を築き、この黎明期のブルーオーシャンを一気に制圧する。


 打ち合わせを終え、ラウンジを後にした。


 帰路。

 留守番をしている琥珀のドライフードを買い足すため、青山通り沿いにある大型のペットショップにタクシーを停めさせた。


 清潔な店内には、様々なペット用品が整然と陳列されている。

 目的のフードをカゴに入れ、レジへ向かおうとした時、ふと通路の脇にあるガラス張りのショーケースの中で何かが動いた。


 足を止める。

 タペストリーの上で丸くなっていたのは、生後数ヶ月ほどの子猫だった。


 スコティッシュフォールド。

 特徴的な折れ曲がった小さな耳と、丸みを帯びた輪郭。少し長めのグレーの毛並みが、店内の照明を反射して柔らかく光っている。

 俺がショーケースの前に立つと、子猫はゆっくりと立ち上がり、ガラス面に小さな肉球を押し付けて「ミャア」と音の出ないようなかすかな声で鳴いた。


「抱いてみますか?」


 エプロン姿の店員が声をかけてきた。

 俺は無言で頷いた。


 ショーケースの裏側から店員が子猫を取り出し、俺の腕の中へそっと乗せる。

 腕の中に乗せられたそれは、空気を孕んだ綿毛のように軽く、頼りないほどの柔らかさだった。

 子猫は俺の腕の中で小さく身じろぎすると、ブレザーの袖口に小さな爪を立てるようにしてしがみつき、目を細めて喉をゴロゴロと鳴らし始めた。


 グレーの毛並みの奥から、規則的で小さな鼓動が、俺の掌に直接響いてくる。


 自宅のリビングで、琥珀が尻尾を振ってボールを追いかけている姿が脳裏をよぎった。

 この子が同じ空間にいれば、あの広い部屋はさらに賑やかになるだろう。家族は多い方がいい。


 俺は子猫の首の後ろを指の腹で優しく撫でながら、店員に向き直った。


「この子をもらおう」


「ありがとうございます。それでは、お引渡しのお手続きを……」


「ケージ、トイレ、それから年齢に合わせたフードと爪とぎ。必要なものは一式全て見繕ってくれ。今日、このまま連れて帰る」


 俺は財布からクレジットカードを引き抜き、店員の横にあるレジのトレイに置いた。

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