第6話 桜舞う教室と等身大の隣人
4月7日、水曜日。
薄いカーテンの隙間から差し込む、春特有の柔らかい朝陽で目が覚めた。
洗面所へ向かい、蛇口を捻って冷たい水で顔を洗う。タオルで水気を拭き取り、ハンガーに掛けてあった真新しい制服のシャツに腕を通す。首元で指定のネクタイを締め上げると、ポリエステル混紡の少し硬い生地の感触と糊の匂いが、今日から高校生活が始まるという事実を肌に伝えてきた。
ブレザーを片手にリビングへ足を踏み入れると、部屋の隅に設置されたウォールナット材の頑丈なサークルの中から、チャカチャカと小さな爪がフローリングを叩く音が聞こえてきた。
琥珀が目を覚ましている。
「おはよう、琥珀」
声をかけると、オレンジ色の小さな毛玉が尻尾をちぎれんばかりに振ってすり寄ってきた。
琥珀の生活スペースは、日中の留守番の時間が長くなってもストレスを感じないよう、かなり余裕を持った広さに設計してある。床には関節に負担をかけないための滑り止めマットを敷き詰め、部屋の片隅には体圧を均等に分散させるオーソペディック仕様のふかふかとした犬用ベッドを配置した。
ベッドの周りには、琥珀が噛んで遊ぶための太いコットン糸を編み込んだロープや、中にフードを詰められる赤いゴム製のコングが転がっている。昨晩も遅くまで俺の足元でコングを噛み続けていたせいで、表面には小さな歯型が無数に付いていた。
サークルの扉を開けると、琥珀は一直線に飛び出してきて、俺の靴下に鼻先を押し付けてフンスフンスと匂いを嗅ぎ回る。
その温かい頭を優しく撫でながら、手早く朝食の準備に取り掛かる。琥珀用のドライフードを少量のぬるま湯でふやかしてボウルに盛り、自分のためには食パンを厚めにスライスしてトースターに入れ、コーヒーミルで豆を挽いた。
琥珀が夢中でフードを食べるハグハグという音をBGMに、俺はダイニングテーブルで深煎りのコーヒーを飲みながら、机の上に置いた小さな鍵束を指先で弄んだ。
国内のメガバンクの貸金庫の鍵だ。
昨日、俺は代理人弁護士と共に銀行の本店へ出向いていた。一般の客が並ぶ窓口ではなく、重厚な扉の奥にあるVIP専用の応接室。冷や汗を拭う支店長を前に、即金で現物の金地金を購入し、そのまま地下の貸金庫に保管する手配を済ませたのだ。
静寂に包まれた冷たい地下金庫室の空気感を思い出す。
引き出した金属の箱に、インゴットを隙間なく並べていった。腕の筋肉が軋むようなずっしりとした質量。金庫室の薄暗い光を吸い込むような、黄金の鈍い輝き。一つ一つの塊が、圧倒的な密度の価値を主張していた。
スイスに置いた資産は、将来の暴騰を見据えた長期的なタイムカプセルだ。
対して、この国内の貸金庫に眠らせた金は意味合いが異なる。証券口座の数字は、極論を言えばサーバー上の電子データに過ぎない。システム障害、ハッキング、あるいは予測不能なトラブルで口座が凍結されれば、一時的に無一文になるリスクを孕んでいる。
だが、この金地金は違う。いざという時、即座に手元から持ち出せ、世界中のどこであっても絶対的な価値を保証される物理的な「保険」だ。
一切の電子ネットワークから切り離された絶対的な価値の塊が、手の届く場所にある。その事実が、今後の俺のあらゆる決断に、盤石な心理的余裕をもたらしてくれていた。
鍵束をスラックスのポケットに深く沈め、俺はブレザーを羽織った。
「行ってくる。大人しくしてるんだぞ」
琥珀は少し寂しそうに「クゥ」と鳴いたが、すぐに自分のベッドへ戻ってアゴを乗せ、こちらをじっと見つめてきた。本当に賢い犬だ。
玄関の扉を開け、春の空気の中へと足を踏み出す。
千代田区のマンションから、指定された都立高校までの道のりはそれほど遠くない。
歩道には、昨夜の風で散った桜の花びらが薄いピンクの絨毯のように広がっていた。すれ違う同世代の学生たちの顔には、一様に新生活への期待と微かな緊張が入り混じっている。
ダボダボのズボンを腰で穿いて気怠げに歩く男子生徒や、指定のローファーに分厚いルーズソックスをたるませて履き、大きな声で笑い合う女子生徒たちの姿が、街のあちこちに見られた。
周囲の話し声や、自転車が通り過ぎるチェーンの音、遠くで鳴るクラクション。
前世の終盤では、移動といえば常にハイヤーの後部座席であり、スモークガラス越しに無音の景色を眺めるだけだった。こうして自分の足で歩き、街の喧騒や風の温度を直接肌で感じる通学路の情景が、たまらなく新鮮で心地よかった。
校門をくぐり、新入生たちが群がる掲示板で自分のクラスを確認する。
1年A組。
目で名簿をなぞるが、その中に秋葉原のジャンク屋で会った城戸隼人の名前はなかった。彼は別のクラスになったようだ。少し残念な気もしたが、互いに干渉しすぎないあの乾いた距離感を思えば、クラスが別なくらいがちょうどいいのかもしれない。
体育館で行われた入学式は、ひどく退屈な時間だった。
古いワックスの匂いが充満する空間に、隙間なく並べられた硬いパイプ椅子。校長の長い挨拶や、来賓の型通りの祝辞が、マイクを通したノイズ混じりの声で反響し続けている。
周囲の新入生たちが背筋を伸ばして緊張した面持ちで話を聞く中、俺は姿勢こそ正していたものの、脳内では自室に構築したばかりのコックピットのマルチモニターを思い浮かべ、今夜の米国市場の動向をシミュレーションして時間を潰した。
ハイテク銘柄の買い注文がどの価格帯に集中しているか。機関投資家がどのタイミングで利確に動くか。NASDAQのチャートの波形を頭の中で立体的に描き出し、資金を投下する最適なタイミングを計る。
パイプ椅子の冷たさを尻に感じ、同級生たちのあくびを噛み殺す気配を横で感じながら、俺の思考だけは地球の裏側の市場を高速で駆け巡っていた。
1時間ほどで式が終わり、指定された教室へと移動する。
俺の席は、窓際から二列目の真ん中あたりだった。
黒板にはチョークで『入学おめでとう』と丸みを帯びた字で書かれている。真新しい木製の机にカバンを置き、椅子に腰を下ろした。
周囲からは、初対面同士が探り合いながら会話の糸口を掴もうとする、ざわめきと落ち着かなさが伝わってくる。出身中学が同じらしいグループは早々に固まって話し込み、一人で座っている生徒は所在なさげに机の木目を眺めたり、カバンの中身を意味もなく整理したりしている。
俺はその初々しい喧騒から少し距離を置くように、頬杖をついて窓の外のグラウンドを眺めていた。
舞い散る桜の花びらを目で追っていると――。
「ねえ」
不意に、真横から声がかかった。
視線を戻すと、隣の席に座った女子生徒が、こちらに体を向けてじっと顔を覗き込んでいた。
初対面の壁を一切感じさせない、はつらつとしていて愛嬌のある顔立ち。大きくてよく動く瞳が、好奇心に満ちている。肩のラインで切り揃えられたミディアムショートの髪が、顔を動かすたびにふわりと揺れた。
「西園寺、玲央くん、だよね? 黒板の座席表、見たよ」
屈託のない、明るい声。
俺はわずかに姿勢を正し、彼女に向き直った。
「ああ。よろしく」
「私、桜木マナ。よろしくね、西園寺くん」
マナと名乗った彼女は、にかっと白い歯を見せて笑った。
その笑顔には、初対面の相手に対する変な遠慮や、俺の大人びた雰囲気に対する萎縮といったものが一切ない。
「西園寺くんって、すごく背高いね。それに、顔立ちもちょっと日本人離れしてるっていうか……ハーフ?」
「よく分かったな。母がアメリカ人なんだ」
「へえー、すごい! カッコいいじゃん」
お世辞や計算のない、純粋な感嘆の言葉。
前世で俺に近づいてくる人間は、常に値踏みの目をしていた。「こいつからいくら引き出せるか」「どんなメリットがあるか」。笑顔の裏に隠された計算を読み取るのが日常だった。
だが、目の前の桜木マナの瞳には、ただのクラスメイトに対する純粋な興味と親愛の情しか存在しない。
「ねえ、西園寺くんは中学、どこだったの? この辺?」
「いや、千代田区には最近引っ越してきたばかりだ。中学は少し離れたところだな」
「そうなんだ! じゃあ、この辺りのことまだあんまり詳しくない?」
「地理的には把握しているが、学生が行くような場所には疎いかもしれないな」
「それなら、今度この辺の美味しいクレープ屋さんとか教えてあげるよ! 駅から少し歩いたところに、すっごく穴場なお店があるんだ」
マナは身を乗り出し、楽しそうに話し続ける。
彼女にとって、俺がどこの誰で、背後にどれだけの資金が動いているかなど関係ないらしい。ただ「隣の席になった同級生」として、当たり前のように距離を詰め、自分の知っている世界を共有しようとしてくる。
大人びた態度で無意識に壁を作ろうとする俺の懐に、一切の悪意なく、ごく自然に踏み込んでくる。
その無防備とも言える気さくさは、俺にとってひどく新鮮だった。
教室の入り口付近が少し騒がしくなり、担任の教師が姿を現した気配がする。
ホームルームが始まるまでの、ほんの少しの空き時間。
窓から吹き込んだ春の風が、彼女のミディアムショートの髪を揺らした。
桜木マナという裏表のない同級生との、とりとめのない会話は、まだ始まったばかりだった。




