第5話 コックピットの構築と琥珀色の温もり
4月3日、土曜日。
午前中の静寂を破ったのは、エントランスからのインターホンだった。
オートロックを解除して数分後、玄関の前に現れた配送業者の男たちは、額に汗を浮かべ、明らかに困惑した表情を浮かべていた。
「西園寺様……で、よろしいでしょうか。お荷物、かなり量があるんですが」
「かまわない。リビングの空いているスペースに固めて置いてくれ」
次々と運び込まれる巨大な段ボールの山。『精密機器』の赤いシールが所狭しと貼られている。幅2メートルのオフィス用特注デスクの天板。重厚なアーロンチェア。ナナオの21インチ・フラットCRTモニターが4台。そして、自作PC用のパーツが詰まった大小の箱の数々。
広いリビングの一角が、あっという間に資材置き場と化した。伝票に受領印を押し、息をつく業者に冷蔵庫から出した冷えた缶茶を渡して見送る。玄関のドアが閉まると、部屋には再び静寂が戻った。
「さて、やるか」
袖をまくり上げ、床に座り込む。
発泡スチロールの擦れる嫌な音を立てながら、箱を開梱していく。若い肉体は、これだけの重労働を前にしても全く悲鳴を上げない。軽く首を回しストレッチをしただけで、筋肉がしなやかに応えてくれる。
まずは基盤となるデスクの組み上げだ。
六角レンチを握り、重いスチール製の脚と分厚い天板を固定していく。床を傷つけないよう慎重に、かつ手早くボルトを締める。金属が硬く噛み合う鈍い音が室内に響く。自分の手で仕事の土台を作り上げる、原初的な喜びがあった。
ふと、足元でチャカチャカという小さな足音がした。
昨日迎えたばかりのポメラニアンの仔犬だ。
新しい環境にもすっかり慣れたらしく、俺が動かす六角レンチの銀色の輝きに興味津々で、短い尻尾を振りながらまとわりついてくる。
「危ないぞ。少し離れてろ」
鼻先を軽く指で押し返すと、仔犬は「キュッ」と短く鳴き、前足を広げて床に伏せ、俺の作業をじっと見つめ始めた。
明るいオレンジ色のふわふわとした毛並みが、窓から差し込む春の陽射しを反射して柔らかく輝いている。
名前は、昨晩寝顔を見ながら決めた。
『琥珀』だ。
金や株といった冷たい数字の羅列とは違う、長い時間をかけて樹液が固まった温かみのある宝石。俺がこの人生で手に入れたかった、最初の確かな体温の象徴。
デスクが完成し、アーロンチェアの調整を終える。
座面に腰を下ろしてデスクに手を置くと、広大な作業スペースが目の前に広がった。
ここからが本番だ。
帯電防止袋からマザーボードを取り出し、静電気に気をつけながら作業台に置く。ドライバーの先端がネジの十字に吸い込まれる感触。ケーブル類をエアフローの妨げにならないようタイラップで結束し、ニッパーで余分な部分をパチンと切り落としていく。
パーツの詳細な相性や設定手順は完全に頭の中に入っている。迷うことなく、慣れた手つきでパーツを次々と組み上げていく。没頭する時間の心地よさ。複雑なパズルを完成させていくような静かな高揚感が胸を満たす。
最後に、デスクの上に4台の巨大なCRTモニターを並べる。
配置を終えると、そこにはまさにプロのディーリングルームと同等の『コックピット』が完成していた。
背面の太いケーブルを這わせ、電源タップのスイッチを入れる。
祈るような気持ちで、PC本体の電源ボタンを押し込んだ。
ブォン、と複数のファンが一斉に回り出し、低い駆動音が部屋に満ちる。
ビープ音が短く1回鳴った。ハードウェアの認識は正常だ。
BIOS画面を抜け、Windows 98のインストールディスクをドライブに読み込ませる。当時のOSインストールは時間がかかる。その間に、俺は立ち上がってキッチンへ向かった。
琥珀の昼飯の時間だ。
まだ消化器官が未発達なため、ドライフードを少量のぬるま湯でふやかしてやる必要がある。
専用の小さな陶器のボウルにフードを計り入れ、湯を注ぐ。水分を吸って独特の匂いが立ち上る。前世の自分であれば眉をひそめていたかもしれないその匂いも、今は不思議と不快ではない。匂いに気づいた琥珀が、足元でぴょんぴょんと飛び跳ねて自己主張を始めた。
「待て」
低く、しかし穏やかな声で制する。
琥珀はお座りの姿勢になり、興奮を抑えきれないように尻尾で床をパタパタと叩きながら、俺の顔とボウルを交互に見つめている。黒く丸い瞳が、期待で爛々と輝いていた。
「よし」
声をかけてボウルを床に置くと、琥珀は凄まじい勢いで顔を突っ込み、ハグハグと音を立てて食べ始めた。
器に鼻を押し付けるようにして夢中で食べる小さな背中を眺めながら、自分自身の昼食の準備にとりかかる。
冷蔵庫には、一昨日の残りの肉じゃががある。
小鍋に肉じゃがを移し、少し水を足して火にかける。じゃがいもがさらに崩れ、牛肉の脂が溶け出した煮汁にとろみがついたところで、溶き卵を回し入れた。縁の卵がふつふつと固まり始め、中心がまだ半熟の状態で火を止め、炊きたての白米の上に乗せる。
肉じゃがの卵とじ丼。七味を軽く振りかけ、即席の昼食が完成した。
リビングのソファに座り、丼をかき込む。
甘辛い牛肉の旨味と、出汁をたっぷりと吸い込んだじゃがいもや玉ねぎの甘さ。そして半熟卵のまろやかさが白米と完璧に絡み合う。微かに鼻に抜ける七味の柚子の香りが食欲を刺激する。
凝った料理もいいが、こういう気取らない賄い飯のような味も悪くない。一口食べるごとに、確かな活力が胃の腑から全身へと広がっていく。
食後、琥珀がリビングの隅で粗相をしているのを発見した。
カーペットの端に作られた小さな水たまり。
溜息をつきながら、ペットシーツと消臭スプレーを持ってしゃがみ込む。
命と暮らすということは、こういうノイズを引き受けるということだ。完璧にコントロールされた無菌室のような前世の生活には、この煩わしさも、足元で無邪気に腹を見せて寝転がるこの小さな温もりも、決して存在しなかった。
温水と洗剤の香りに包まれながら床を拭き取る作業すら、どこか愛おしい日常の一部に思えた。
翌、4月4日の日曜日。
朝から、スイスのプライベートバンクの担当者からの連絡が入った。
デスクの横に設置したFAX兼用の電話機から、数十枚の取引報告書が吐き出されてくる。
受話器を取り、報告書の束に目を通す。
「西園寺様。ご指示通り、金地金の買い付けが完了いたしました」
「ご苦労。現物の保管先は」
「スイス本国の地下金庫にて、お客様の専用コンテナに厳重に保管されております。監査法人による実在証明の書類もFAXに含めております」
「確認した」
報告書に印字された買い付け単価は、1グラムあたり900円台後半。ほぼ1000円だ。完璧だ。
数百億円という莫大な資金を、紙幣というただの紙切れから、物理的な実体を持つ絶対的な価値の塊へと変換した。
「不動産のリストも届いている。いくつかピックアップして週明けに現地を見に行く。内見の手配を進めておけ」
「かしこまりました」
短く応じて電話を切る。
無駄な世間話は不要だ。相手も俺が単なる未成年ではないことを理解し、完全なビジネスライクの対応に徹している。
そして4月5日、月曜日。
入学式を二日後に控えたこの日は、ISDN回線の開通工事が行われた。
業者がターミナルアダプタを設置し、配線を整えていく。ダイヤルアップ特有の接続音は消え、常時接続に近い安定した通信環境が手に入った。大半の人間がまだアナログ回線の遅延にイライラしているこの時代において、専用線に等しいこの環境は絶対的な優位性を生む。
業者が帰った後、俺はコックピットの椅子に深く座り、4台のモニターを一斉に起動した。
正面の2台には、証券会社のオンライン取引ツールと、リアルタイムで更新される国内外の株価チャート。右側のモニターには、ロイターやブルームバーグの経済ニュースのヘッドライン。左側のモニターには、独自に構築した情報収集用のブラウザとメモ帳。
マウスを動かし、ウィンドウをシームレスに行き来する。
板情報の気配値が小気味良く点滅し、情報の波が遅延なく網膜に飛び込んでくる。15インチモニター1台の時とは比較にならない情報処理速度だ。
現在、市場はITバブルの入り口で静かに熱を帯び始めている。
画面の向こう側で、欲望に駆られた無数の見えざる手たちが、まだ価値の定まらない新興企業群へと資金を投下し始めている気配を感じる。
記憶にあるチャートの波形と、目の前のモニターに表示されているリアルタイムの価格を照らし合わせる。
完璧だ。これなら戦える。
いや、戦うという表現すら生ぬるい。これは結果の決まっている出来レースを、いかに最大効率で刈り取るかという作業に過ぎない。俺の指先一つで、数億、数十億という金が市場を駆け抜け、莫大な利益を産み落としていく準備が整ったのだ。
4月6日、火曜日。入学式前夜。
夕食を終えた俺は、アイロン台を出し、明日着るための真新しい都立高校の制服にアイロンをかけていた。
スチームの熱気と布が焦げる寸前の匂い。ポリエステル混紡の硬い生地の質感が手に伝わる。
プレスしたズボンの折り目を指でなぞりながら、ハンガーにかけて姿見の前に吊るす。足元には、まだ硬さの残る真新しい革靴が並んでいる。
鏡に映る俺は、どこからどう見てもただの15歳の高校生だ。
秋葉原のジャンク屋の前で言葉を交わした城戸隼人のような、相応の青さや危うさを持っているのが本来の年齢だろう。
明日になれば、あの制服を着て、同級生たちと机を並べ、教師の授業を聞くことになる。
何の裏表もない、ありふれた日常を生きる同級生たちとの生活。前世では「学校」という空間の価値に無頓着だったが、今ならその穏やかな時間の尊さがわかる。
だが、俺の部屋の奥には、数百億の資金を動かし、世界の経済動向を俯瞰するコックピットが存在している。
ただの高校生という表の顔と、市場を支配する裏の顔。
この圧倒的なギャップこそが、俺の最大の武器であり、同時に最高の娯楽でもある。アイロンのコードを抜きながら、静かに息を吐いた。
足元で「クゥ」と小さな声がした。
見下ろすと、琥珀が前足を俺の靴下に乗せ、見上げるようにして尻尾を振っていた。
俺はしゃがみ込み、その小さな体を抱き上げる。
オレンジ色の毛並みから伝わる、トクトクという速い心音と確かな体温。肉球の柔らかい感触が掌に伝わる。
「明日から、少し留守番の時間が長くなる。いい子にしてろよ」
琥珀の鼻先に軽く自分の鼻を擦り付けると、くすぐったそうに身をよじった。




