第4話 秋葉原の邂逅と最強のタイムカプセル
午前9時の秋葉原は、メイドや観光客の姿はなく、電子部品と家電の匂いが濃密に漂うガチガチの電気街だった。
駅前の大通りを歩きながら、目的のパーツショップへ直行する。迷う時間はない。昨晩、すでに頭の中で組み上げておいた構成に従い、陳列棚から最高級のパーツを次々とカートに放り込んでいく。
プロセッサからマザーボード、大容量メモリに至るまで、詳細なスペックを店舗で吟味するような無駄は省く。マルチディスプレイ環境構築に必要な機材一式と、大型のフラットブラウン管モニターを4台、さらに別店舗でアーロンチェアの手配も済ませた。
レジカウンターで、店員がうず高く積まれた伝票を見て一瞬息を呑んだが、俺は黒い金属製のカードを無言でトレーに置いた。
「決済は一括で。全てこの住所に配送を」
サインを済ませるまで、わずか数分。圧倒的な資金力は、迷いや検討という無駄な時間を生活から完全に排除してくれる。
買い物を終え、大通りから一本入った裏路地を歩いていると、ジャンク品を積んだワゴンボードの前に見知った顔があった。
鋭い三白眼に、無造作に伸ばした少し長めの黒髪。
同じ中学出身で、数日後の入学式から再び同級生となる男、城戸隼人だった。
「城戸か。奇遇だな」
声をかけると、城戸はワゴンの上のホコリを被ったマザーボードから視線を上げ、軽く眉をひそめた。
「……西園寺。お前、こんなとこに来るのかよ」
「必要な機材の手配にな」
城戸の手には、中古のメモリとグラフィックボードが握られていた。値札にはどれも数百円から数千円の安い値段がついている。
「探し物か」
「まあな。下のが急にパソコン触りてえとか言い出してな。新品のメーカー製なんか買えるかよ」
下、というのは彼の3人の弟妹のことだ。多忙な両親に代わり、城戸が実質的な親代わりとして家事や面倒を見ていることは、中学時代から薄々耳に入っていた。
「動作確認はしたのか」
「店の親父にテスター借りて通電だけは見た。あとは運だろ。足りねえ部品はジャンクでどうにかする」
ぶっきらぼうに言い捨て、城戸はパーツをレジへ持っていく。小銭入れから細かい硬貨を出して会計を済ませる彼の背中を見ながら、俺は何も言わなかった。
ここで「俺が最新のPCを一式買ってやる」などと言うのは、三流の成金がやる自己満足だ。異常なほど自立心が強く、家族を自分の力で養うというプライドを持つ城戸にとって、安易な施しは最大の侮辱になる。
「飯、食っていくか」
店を出てきた城戸に声をかける。
「……ハンバーガーなら付き合う」
数分後、駅前のファストフード店のプラスチックのテーブルで、俺たちは向かい合っていた。それぞれが自分の財布から出したセットのトレーを前に、特に核心に触れるでもなく、数日後の高校入学の話題や、ジャンクパーツの互換性について短い言葉を交わす。
「あのマザーボードなら、BIOSのアップデートが必要になるかもしれないな」
「マジか。面倒くせえ。帰ったら調べるわ」
ポテトをかじりながら城戸がぼやく。ベタベタとした馴れ合いはない。だが、この乾いた距離感こそが、城戸隼人という男に対する最適解であり、今の俺にとっても居心地の良い時間だった。
午後1時半。城戸と駅前で別れ、俺はタクシーを拾って港区の高輪へ向かった。
閑静な住宅街の一角にある、一軒家を改装した清潔なブリーダー施設。予約していた時間ぴったりに到着すると、年配の女性が笑顔で出迎えてくれた。
「お待ちしておりました、西園寺様」
通されたリビングには、母犬と共に小さな毛玉が数匹、コロコロと転がり回っていた。
ポメラニアンの仔犬たち。生後2ヶ月。
その中の一匹、少し明るめのオレンジの毛色をした仔犬が、俺の足元にトコトコと歩み寄り、靴の匂いを嗅いでから見上げて尻尾を振った。
「……この子で」
即決だった。
血統書の手続きを済ませ、事前に手配してあったキャリーバッグに仔犬を入れる。帰り際、ブリーダーの女性が少し心配そうに言った。
「今日は環境が変わって夜鳴きするかもしれませんが、あまり構いすぎず、安心させてあげてくださいね」
「肝に銘じます」
午後3時。マンションへ帰宅。
静まり返った広いリビングの床にキャリーバッグを置き、そっと扉を開ける。
しばらく中から様子を伺っていた仔犬は、やがて恐る恐る小さな前足をフローリングに踏み出した。つるりと少し滑り、ビクッと体を震わせるが、すぐに立ち直って部屋の匂いを嗅ぎ始める。
小さな爪が床を鳴らす、チャカチャカというリズミカルな音。
それだけで、無機質だった空間に体温が宿ったような気がした。俺はソファに腰を下ろし、仔犬が部屋を探索する様を黙って見守った。
仔犬がソファの脚の匂いを嗅いで落ち着いたのを見計らい、俺はサイドテーブルの固定電話を引き寄せた。
電話をかける先は、スイスのプライベートバンクの日本窓口を統括している担当者だ。
数回のコールの後、洗練された男の声が応じた。
「西園寺様。ご連絡をお待ちしておりました。先日の口座移管の手続きに何か不備がございましたでしょうか」
「いや、処理は完璧だ。今日は別の指示を出すために電話した」
俺は手元のメモを一瞥し、淡々と要件を伝える。
「まず、金地金の購入だ。現在の市況レートで、円建ての現物を指定の額面分買い付けろ」
1999年の現在、金の価格は1グラムあたり1000円前後。長引く不況とデフレの影響で、歴史的な大底に這いつくばっている状態だ。これが20年後には1グラム1万3000円を超える水準まで暴騰することを知っている。資産の現物保全として、これほど硬い投資はない。
「承知いたしました。安全な保管庫の手配も進めます。他には?」
「都心の不動産だ。千代田区、港区、中央区の優良な商業ビルと一棟マンション。バブル崩壊後の地価下落はすでに底を打ちつつある。投げ売りされている優良物件をリストアップして、明後日までに俺の手元へ届けろ」
「かしこまりました。すぐに不動産部門を動かします」
「最後に、株式の買い付けだ。これは国内ではなく米国市場になる」
俺は一呼吸置き、二つのティッカーシンボルを告げた。
「AMZNとAAPL。Amazon.comとAppleだ。この二銘柄を、指示する金額で買い付けろ」
Amazonは現在、書籍のネット販売を中心とする企業として株価を高騰させているが、後に世界中を飲み込む巨大プラットフォームとなる未来を加味すれば、今の株価など誤差にも等しい超割安だ。
Appleに至っては、スティーブ・ジョブズが復帰してiMacを発売し、まさに倒産の危機から息を吹き返した直後。後にiPhoneという人類のライフスタイルを変えるデバイスを生み出す、最強の原石である。
「米国ハイテク株への集中投資ですね。承知いたしました。買い付け後、運用方針はいかがなさいますか。目標利確ラインや損切りラインの設定を――」
「不要だ」
担当者の言葉を遮り、俺は明確に言い放った。
「買った株はそのまま専用の信託口座に移し、完全に塩漬けにする。今後25年間、いかなる相場の変動があろうと絶対に売却しない設定にしておけ」
「……25年間、一度も売買を行わないということですか?」
「そうだ。途中の値動きに惑わされることなく、長期的な成長だけを取りに行く」
「……」
電話の向こうで、担当者が息を呑む気配が伝わってくる。
25年間の完全な塩漬け。狂気の沙汰に見えるだろうが、俺にとっては最強のタイムカプセルだ。
「指示は以上だ。頼んだぞ」
通話を切り、受話器を置く。
ふと足元を見ると、部屋の探索を終えたオレンジ色の毛玉が、俺のスリッパに顎を乗せて丸くなっていた。
そっと手を伸ばし、柔らかな背中を撫でる。
仔犬は心地よさそうに目を閉じ、小さな寝息を立て始めた。
窓の外では、夕暮れの光が東京の街を赤く染め始めている。




