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第8話 教室の静寂と理路整然たる店員

 4月8日、木曜日。


 目覚めると、右腕に羽毛のような軽い温もりがあった。

 昨日ペットショップから連れ帰ったばかりのスコティッシュフォールドの子猫が、俺の腕に前足を絡めるようにして丸くなっている。少し長めのグレーの毛並みが、カーテンの隙間から差し込む朝陽を受けて淡く透けていた。


 そっと腕を引き抜こうとすると、子猫は目を閉じたまま小さく「ミャ」と鳴いて身をよじり、さらにすり寄ってきた。

 ベッドの足元からは、琥珀が「自分も構え」と言わんばかりに短い尻尾を振りながら見上げている。


 昨日、帰宅してすぐに二匹を引き合わせた時、琥珀は興味津々で鼻先を近づけたが、子猫は物怖じする様子もなく、琥珀の鼻を小さな前足でぽんと叩いた。それ以来、琥珀は少し遠慮がちに、しかし興味深そうに子猫の周りをうろちょろしている。


「名前は『錫』だ。仲良くしろよ」


 毛色から連想した名を呼ぶと、錫は寝ぼけ眼を開け、俺の指先に冷たい鼻を押し付けてきた。


 ベッドから抜け出し、二匹の朝食を用意する。琥珀にはふやかしたドライフード、錫には子猫用のウェットフード。

 自分のためにはフライパンに厚切りのベーコンを並べ、卵を割り落とした。脂が弾ける音と、二匹がフードを食べるカリカリ、ペチャペチャという音が入り混じり、静かだったリビングに確かな生活のノイズが響き渡る。


 朝の支度を終え、学校へ向かう。

 歩道に散った桜の花びらを避けながら、真新しいローファーを鳴らして校門をくぐった。


 1時間目の授業は、現代社会だった。

 定年間近と思われる白髪交じりの教師が、黒板に『金融ビッグバン』という白墨の文字を書き殴る。


「……というわけで、長年日本の金融界を守ってきた護送船団方式は、完全に限界を迎えた。一昨年の山一證券や北海道拓殖銀行の破綻は、君たちもニュースで見た記憶があるだろう。銀行や証券会社の統廃合が進み、これからは厳しい競争原理が導入される。さて、誰かこの規制緩和が我々の生活や社会構造にどういう影響を与えるか、答えられる者はいるか?」


 教師が名簿に目を落とす。

 難しい時事問題に対し、教室の中には、当てられたくないという特有の緊張感が走った。隣の席のマナも、息を潜めて教科書の隅に視線を落としている。


「じゃあ……西園寺」


 呼ばれて、俺はゆっくりと立ち上がった。


「消費者側から見れば、金融商品の選択肢が増え、手数料の自由化によって取引コストが下がるメリットがあります。しかし同時に、企業側にとっては『メインバンクが最後まで助けてくれる』という前提が完全に崩壊することを意味します。企業は市場からの直接金融に頼らざるを得なくなり、業績の悪い企業や不透明な経営をしている企業は、市場から容赦なく淘汰される。自己責任の原則が、企業にも個人にも冷徹に適用される時代になるということです」


 教室が静まり返った。

 教科書の受け売りではない、市場の冷酷な本質を突いた回答に、周囲の同級生たちが少し驚いたようにこちらを見ている。


「……う、うむ。その通りだ。新聞をよく読んでいるな」


 教師が少し面食らったように頷き、着席を促した。

 椅子に座ると、マナが目を丸くしてこちらを覗き込んできた。


「西園寺くん、すごいね。なんか、テレビに出てるコメンテーターみたいだった」


「ただのニュースの受け売りだよ」


「えー、絶対違うって。私なんか、金融なんとかって言われてもチンプンカンプンだもん」


 マナはノートの端に描いていたキャラクターの落書きを隠すようにしながら、にかっと笑った。窓から吹き込んだ風が、彼女のミディアムショートの髪をふわりと揺らす。

 俺は小さく息をつき、次の教科書のページを開いた。


 放課後。

 帰宅した俺は、ブレザーを脱ぐのもそこそこに、自室のコックピットの電源を入れた。

 4台のモニターが次々と立ち上がり、低いファンの駆動音が部屋を満たす。


 デスクの横に置いたFAXに、代理人のエージェントから分厚い書類の束が届いていた。

 昨日設立を指示した新会社『シリウス・ネットワークス』名義での法人口座開設、および、機関投資家レベルの巨大な資金をダイレクトに動かすための専用回線の契約書類一式だ。


 すでに構築済みの個人用オンライントレード環境とは異なり、数億円、数十億円というキャッシュを一瞬で市場に叩きつけるための太いパイプ。

 俺は契約内容と手数料の規定にざっと目を通し、必要箇所に淀みなく署名と捺印をしていく。書類を整え、返送用の封筒に詰めた。


 それが終わると、キーボードを手元に引き寄せ、新規のテキストファイルを開いた。

 間もなく訪れる『ITバブル』の動向整理と、投資スケジュールを明文化するためだ。


 記憶の底から、1999年から2000年にかけての重要なタイムラインを引っ張り出す。


 ヤフー、ソフトバンク、光通信。

 これらの銘柄がどのタイミングで急騰を始め、どの価格帯で天井を打つか。

 特に光通信に関しては、来年の春に携帯電話の架空契約問題が発覚し、20日連続のストップ安という歴史的な大暴落を引き起こす。

 天井を見極めて保有株を全て利確し、暴落の直前に巨額の空売りを浴びせれば、利益は天文学的な数字に跳ね上がる。


 俺はキーボードを叩き、それぞれの銘柄の買い付けタイミング、資金の配分割合、そしてイグジットの時期を細かくリストアップしていった。


 投資戦略の整理を終え、続けて『シリウス・ネットワークス』の初期実務のタスクリストを作成する。

 着メロサイトを他社に先駆けて投入するためには、コンテンツの質と量が命だ。J-POPのヒット曲をただ待つのではなく、こちらから仕掛ける。

 俺は1999年当時の音楽チャートの記憶を頼りに、優先的にMIDI化すべき楽曲群のリストを作成し、同時に、買い取りや専属契約の対象となる優秀なDTMクリエイターを抱える制作会社のピックアップを進めた。


 一息つき、コーヒーを淹れようとキッチンへ向かった時、ペットシーツのストックが切れていることに気づいた。琥珀と錫の二匹になったことで、消費のペースが想定よりも早い。


 気分転換も兼ねて、俺は財布をポケットに入れ、マンションを出た。


 大通り沿いにある大きめのドラッグストア。

 自動ドアを抜けると、店内には今年大ヒットしている女性シンガーのR&Bナンバーが少し大きめの音量で流れていた。

 蛍光灯の白々しい光の下、整然と並ぶ商品棚の間を抜け、ペット用品のコーナーで消臭力の高いシーツと猫用のトイレ砂をカートに入れる。


 レジへ向かうと、三列あるうちの一つの前で、少し恰幅のいい中年女性の客が声を荒らげていた。


「だから! このチラシには2割引って書いてあるじゃないの!」


「申し訳ございません。こちらの割引は『お一人様2点まで』となっておりまして、お客様がお持ちの3点目以降は通常価格でのご案内となってしまいます」


 レジカウンターの奥で、エプロン姿の若い女性店員が応対していた。

 透明感のあるボーイッシュなショートヘアに、細身のスタイル。年齢は大学生くらいだろうか。名札には『柚木』と書かれている。


「そんなの、こんなに小さく書いてあったって読めないわよ! わざわざ遠くから買いに来てあげてるのに、融通が利かないわね!」


 客の怒気は収まらず、周囲の客たちが迷惑そうに遠巻きに見ている。

 だが、柚木と呼ばれた店員は、感情的な言葉を浴びても全く動じる様子を見せなかった。


「お足元の悪い中ご来店いただき、誠にありがとうございます。表記が分かりづらくご不便をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます」


 柚木はまず深く頭を下げ、客の労をねぎらいながら不手際を謝罪した。

 その上で、レジのシステム画面を軽く手で示す。


「ただ、誠に心苦しいのですが、レジのシステム上、規定数量を超えた分はバーコードを通した時点で自動的に通常価格で計算されてしまいます。私個人の判断でシステムを書き換えることは権限として認められておらず、ご要望にお応えすることが物理的に不可能な状況でございます」


「……じゃあ、もういいわよ! 2個だけで!」


 客はバツが悪そうに商品を一つ突き返し、財布から乱暴に札を抜き出した。


「ありがとうございます。では、こちらの商品は一旦お戻しいたしますね。お会計、お預かりいたします」


 柚木は表情一つ変えることなく、スムーズにレジを打って会計を済ませた。


 隣のレジが空いたため、俺はそちらで自分の会計を済ませた。

 サッカー台でペットシーツと砂を大きな袋に詰めていると、休憩に入るのか、エプロンを外した柚木が俺の横を通り過ぎようとした。


「手際がいいな。見事な対応だった」


 すれ違いざま、俺が静かに声をかけると、彼女は足を止め、少し驚いたようにこちらを振り返った。

 近くで見ると、彼女の瞳はより一層理知的な光を帯びていた。


「見てたの? お見苦しいところを見せちゃってごめんなさいね」


「いや。理不尽な感情論に対して、システムの構造と権限を理由にして退路を断つのは、交渉の基本にして最適解だ。なかなかできることじゃない」


 俺の言葉に、彼女の目が微かに細められた。


「……あなた、高校生だよね?」


「見た目通りにな」


「変な子。でも、ありがとう。褒めてもらえるのは悪い気はしないわ」


 彼女は小さく肩をすくめ、かすかに口角を上げて笑った。

 ショートヘアが揺れ、知的な表情の中に一瞬だけ柔らかい素顔が覗く。


「それじゃ」


 短く会釈を残し、柚木は従業員用のドアの奥へと消えていった。


 俺は重い袋の持ち手を握り直し、店を後にする。

 自動ドアが背後で閉まり、流行りのポップスの音が遮断されると、春の夜の少し冷たい風が頬を撫でた。

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