第2話 圧倒的資金の証明と狂乱への布石
シンクに水音が響く。
肉じゃがのじゃがいもが煮崩れて溶け込んだ汁は油分が多く、一度では落ちきらない。二度目の洗剤をスポンジに含ませ、キュッという小気味良い音が鳴るまで陶器の表面をこすり洗いした。温水で泡を流し、乾いた布巾で水気を拭き取って食器棚へ戻す。
食後の片付けという、ささやかで生活感のあるルーティン。指先に触れる陶器の滑らかさや、温水の熱。そして何より、立ち仕事をしていても腰や膝に一切の軋みを感じない若く軽やかな肉体の感覚が、新たな生を得たという事実を鮮明に実感させてくれる。前世の終盤、40代に差し掛かる頃には、慢性的な疲労と不調で流しの前に立つことすら億劫になっていた。今は違う。細胞の隅々までが酸素を吸い込み、活発に燃焼しているのがわかる。
グラスの烏龍茶を一口飲み、自室へと戻った。
部屋の隅に置かれた学習机の前に座る。
夕方、記憶が覚醒した直後に確認した、あの黒い革製のケース。
引き出しを開け、再びそれに手を伸ばした。パニック状態とは違う、極めて冷静な頭でもう一度現状を精査するためだ。
ケースを持ち上げた瞬間、指先に違和感を覚えた。
引き出しの底、ケースの下敷きになっていた部分に、同化するように黒い厚手の封筒が沈んでいた。先ほどは中身のインパクトに気を取られ、完全に見落としていたらしい。
俺は革ケースを机の脇に置き、その三つ折りにされた分厚い封筒の封を切った。中から数枚の書類を取り出す。
「海外信託財産の国内移転および課税処理完了に関するご報告」と題された書類の束だった。発行元は、世界中にネットワークを持つスイスのプライベートバンク日本支社と、都内でもトップクラスの企業法務を扱う大手法律事務所、そして外資系の監査法人。
書類に目を通す。難解な法律用語と税務用語がびっしりと並んでいるが、実業家として酸いも甘いも噛み分けた俺にとっては、まるで母国語のようにすんなりと頭に入ってくる。
要約するとこうだ。西園寺家が海外のプライベートバンクで長年運用していた信託財産が解約され、受取人である俺の国内口座に移管された。それに伴う膨大な贈与税、所得税、地方税。ありとあらゆる税金がすでに最高税率で計算され、滞りなく国庫へ納付されている。その事実を証明する国税庁の受領印のコピーまで、ご丁寧に添付されていた。税務当局との折衝記録や、資金の出所証明に関する膨大なエビデンスもファイリングされており、プロの仕事ぶりが窺える。
本来、未成年がこれほどの巨額の資金を動かすには、法的なハードルがいくつも存在する。しかし、書類の束の最後には、母親の署名が入った包括的な同意書と、資産管理を代行・補助する代理人弁護士の委任状までが、一切の隙のない完璧な体裁で揃えられていた。海外を拠点に活動を続ける母親が、実務をすべて弁護士に丸投げしているという家庭環境が、結果的に俺に完全な自由裁量権を与えてくれている。
つまり、あの革ケースの中身は、税務署が虫眼鏡で粗探しに来ようとも一切の埃が出ない、完全に合法でクリーンな資金だということだ。
「……どんなカラクリかは知らないが、至れり尽くせりだな」
誰が、何の目的でこんな完璧な状態でお膳立てしてくれたのかはわからない。だが、そんな哲学的な問いに時間を割くほど、俺は暇ではなかった。
目の前に、自由に使える確固たる力がある。それだけが事実であり、すべてだ。
俺は書類を丁寧に折りたたみ、再び封筒に戻して引き出しの奥にしまった。鍵をかけ、その鍵を首から下げたチェーンに通す。
さて、と小さく呟き、俺は視線を学習机の横に鎮座するタワー型のデスクトップPCに向けた。
アイボリー色の無骨なプラスチックケース。電源ボタンを押し込む。
ブォォォン、というケースファンの重低音が部屋に響き、内蔵ハードディスクがカリカリとシーク音を立て始める。15インチのブラウン管モニターがバチッと静電気を帯びて点灯し、微かなオゾンの匂いが漂う。黒い画面に白い文字がズラズラと流れてメモリのカウントダウンが始まり、やがて、見慣れたWindows 98の起動音が鳴った。
デスクトップに並ぶ粗いアイコンをダブルクリックし、ブラウザを立ち上げる。
『ピーー、ヒョロロロ、ガガガー』
モデムからの耳障りなダイヤルアップ接続音が鳴り響く。
テレホーダイの時間ではないため通話料がかかるが、今の俺にとってそれは誤差の範囲ですらない。
画像1枚を表示するのにも、上からスキャンするようにじわじわと読み込まれていく。前世の光回線に慣れきった感覚からすれば、あくびが出るほどの遅延だ。だが、このノイズと遅延の先に広がっているのは、手付かずの黄金郷である。
Yahoo!ファイナンスのページを開き、日本株のマーケット情報を表示する。
現在の日経平均株価は、1万6000円台をウロウロしている。1989年末につけた3万8900円の最高値から坂道を転げ落ち、バブル崩壊の後遺症に未だ喘いでいる状態だ。世間では大手金融機関の破綻が相次ぎ、就職氷河期という言葉が飛び交い、一部の輸出企業や優良銘柄を除いて市場全体には重苦しい閉塞感が漂っている。
しかし、相場の裏側ではすでに次の狂乱への火薬が積み上がっている。つい2ヶ月前の1999年2月、日本銀行が世界初となる「ゼロ金利政策」を導入した。銀行に預けても利息がつかず、行き場を失った莫大なマネーが、少しでも高い利回りを求めて株式市場へ流れ込む土壌は完全に出来上がっているのだ。
さらに1999年4月現在、証券取引法が改正され、株式売買委託手数料が完全に自由化される今年の10月に向けて、松井証券などを筆頭に一部の証券会社がオンライン取引を本格化させようと動き出している過渡期にあたる。世の中の多くの投資家は未だに高い手数料を払い、証券マンのセールストークに乗せられて電話で注文を出し、翌日の新聞の株式欄で終値を確認しているようなアナログな時代だ。
そんな中、俺はキーボードを叩き、検索窓に特定の銘柄コードを入力していく。
ソフトバンク。ヤフー。光通信。
インターネットという新しいインフラに可能性を見出した、新興企業群のチャート。現在はまだ、市場の片隅でくすぶっているように見える平坦なグラフだ。
しかし、ここから1999年後半、そして2000年初頭にかけて、アメリカのドットコム・バブルの熱狂が日本にも波及する。実態の伴わない赤字のITベンチャーであっても、「インターネット関連銘柄」というだけで投資家の資金が雪崩れ込み、株価が数倍、数十倍に跳ね上がる狂乱の時代がやってくる。
俺は引き出しから大学ノートとボールペンを取り出し、モニターの横に広げた。
記憶の底から、当時の日足チャートの形状、重要なニュースリリースが発表された日付、そして相場が転換点を迎えたタイミングを次々と書き出していく。
インクが紙を走るカリカリという音だけが部屋に響く。
「光通信、1999年9月、株価急騰開始」「2000年2月、最高値更新」「2000年3月、携帯電話の架空契約問題発覚、大暴落開始」
記憶の中にあるカレンダーを、1枚ずつめくるようにノートに書き写していく。
光通信の株価は、ここから約1年で異常な連騰を記録し、上場来高値である24万円台をつける。そして、その直後に訪れるのは、ストップ安を何日も連続で記録する絶望的な大暴落だ。ヤフーも同様に、1株が1億円を超えるという歴史的なバブルを形成する。
いつ上がり始め、いつピークを迎え、いつ弾けるのか。
市場参加者全員のトランプの手札を、俺だけが背後から見ているようなものだ。
買いで暴騰を取り、天井で売り抜ける。そして、弾ける瞬間に巨額の空売りを仕掛け、暴落の底で買い戻す。
ノートに書き出したタイムラインを指でなぞりながら、頭の中でシミュレーションを回す。雪だるま式に膨れ上がる利益。今の元手を最大のレバレッジを効かせて完璧なタイミングで市場に投下すれば、数ヶ月後には桁が一つ、いや二つは確実に変わる。
マウスのホイールを転がす。
カチカチという安っぽいプラスチックの音が、ふと俺を現実に引き戻した。
個人投資家が巨額の資金を動かすには、今の環境はあまりにも貧弱だった。
通信速度の遅いアナログ回線に、狭い15インチモニター1台。マウスのボールは埃を巻き込んで動きが鈍く、キーボードのストロークも深すぎてタイピングに無駄な力が必要になる。
相場は秒単位で動く。注文の遅延や、画面の切り替えにもたつく時間は、短期トレードにおいて致命傷になりかねない。ましてや、扱う金額の規模が大きくなれば、その1秒の遅れが数億円の損失を生む。
「まずは、インフラの整備だな」
俺はブラウザを閉じた。
ISDNの64kbps回線、あるいはターミナルアダプタを導入して通信環境を安定させる手配を急がなければならない。そして、複数のモニターをアームで繋いだマルチディスプレイ環境。同時に複数のチャートを監視し、瞬時に発注を出せる、プロのディーリングルームと同等のシステムを構築する必要がある。
この一般的な学習机では、どう考えてもスペースが足りない。幅2メートル以上の頑丈なオフィス用デスクも同時に発注しなければ。椅子もそうだ。長時間モニターに張り付いていても疲労がたまらない、アーロンチェアのようなエルゴノミクス仕様の最高級ワークチェアが必要だ。
明日は金曜日。高校の入学式まではまだ数日の猶予がある。
朝一番で秋葉原の電気街へ行こう。当時の最新かつ最高スペックのPCパーツをありったけ買い集め、トレード専用のワークステーションを自作する。
頭の中で必要なパーツのリストを組み上げていく。CPUは先月発売されたばかりのPentium III。メモリは限界まで積み、マザーボードのPCIスロットにはマルチディスプレイ環境を構築するためのグラフィックボードを複数挿す。そして、視認性の高い当時の最高峰であるナナオの大型フラットCRTモニターを最低でも4台。確実な打鍵感で誤発注を防ぐための、IBMのメカニカルキーボードも必須だ。
総重量はかなりのものになるだろうが、配送を手配すればいい。革ケースの中にある黒いカードの決済テストも兼ねて、手加減なしの最高級品を揃えよう。
それと同時に、証券口座の開設準備だ。書類にあった代理人弁護士を呼び出し、国内の大手証券会社に直接出向いてVIP口座を開設させる。手持ちの残高証明を見せれば、支店長が飛んで出てきて専用の応接室に通されるはずだ。
やるべきことのリストが、脳内で次々と構築され、スケジュールが埋まっていく。
前世で培ったプロジェクトマネジメントの感覚が、若い肉体を通して再び躍動し始めているのがわかった。
俺はキーボードから手を放し、PCをシャットダウンした。
『Windowsを終了しています』というメッセージの後、ブラウン管の光がフッと消え、部屋が再び暗闇に包まれる。
静まり返った室内で、遠くから深夜の国道を走るトラックの走行音が微かに聞こえてきた。
立ち上がり、窓際に歩み寄る。
カーテンの隙間から見下ろす東京の街は、これから訪れる熱狂も崩壊も知らずに、静かな眠りについている。
俺は窓枠に手をつき、夜景のさらに向こう側、まだ見ぬ明日へと視線を向けた。




