第9話 茶工房のうわさ話
「どこにいた? 道に迷ったか」
揚易棠は、快活にそう言った。
芳寧のすぐ隣で、陸峰が軽く頭を下げる。
「申し訳ありません」
「気にするな。お前の仏頂面を眺める代わりに、爽快な茶芸を見られて満足だ。迎えに来たようだが、頼みたい事がある」
「なんでしょう」
「父上から、茶工房に立ち寄るよう言われている。姜家への贈り物を用意してあるそうだ。受け取りに行ってくれ」
「はい」
揚易棠が、芳寧に一歩近づいた。
「わがままを言うようで申し訳ないが、よければ案内を頼めないだろうか。天能茶問屋の工房だ。易武通りにあると聞いている」
「私が、ですか?」
この陸峰という男と、工房へ?
「見てのとおり、彼はここに来るまでの間に道に迷っている。受け取りがいつになるやら、わかったものではない」
弾むような笑い声。彼の口から出る言葉は、嫌味ですら心地よい。
「私も行きたいところだが、あいにく茶商の子息が集まる茶会に呼ばれているんだ。茶工房からきみの家までは、彼に送らせるよ。護衛としては申し分のない男だ。きみのお父さんには了解を得ておく。宿泊先は茶発馬店だ。何かあったら、連絡を寄こしてくれ」
茶発馬店?
動揺している芳寧の返事も待たず、揚易棠は満足そうにうなずくと、陸峰の肩をぽんと叩いた。
「いいな。責任をもって彼女を送り届けろ。気づいた事があれば、必ず報告を」
陸峰が頭を下げた。
揚易棠は従者とともに茶席の中央へと歩いていく。芳寧は、落ちつかない気分で彼の背中を目で追った。
百花館主と語らっていた克己が、揚易棠に気づいて会釈した。見事でしたよ、と揚易棠が声をかける。
ほめられて、まんざらでもなさそうな克己だ。
「実は……」と工房の話をしたのだろう。克己と館主がそろって芳寧の方を見る。従者が、克己の手に銅銭を握らせたようだ。「いやいや、とんでもない」とでも言うように、克己は手を振って後ずさった。
そして、自分の胸をぽんぽん叩くと、芳寧に向かって手を振った。
(気をつけて)行っておいでと言うかのように。
「行こう」
陸峰の声がした。
どうしたものか。
行きたくないと言えば、揚易棠の依頼を断ってしまうことになる。相応の理由を求められるだろう。
理由とは、陸峰の殺人事件の関与である。だが、陸峰が揚易棠の従者であるとわかった今、その理由をあげれば、揚易棠も事件に巻き込まれてしまいかねない。
だからといって、こんな男とほんの数歩でも並んで歩きたくはない。
もし……
「口封じが心配か?」
陸峰が言った。
じろりと芳寧は、かたわらに立つ長身の男を睨む。
「安心しろ。無事に送り届けるよう命じられた」
ふんと芳寧は、鼻を鳴らした。
ならず者たちから助けてくれた揚易棠の頼みだ。この人でなしも、主の命令に逆らうほど無鉄砲な男ではないだろう。きっと。
芳寧は、揚易棠に向かって会釈した。
彼が(よろしく)とばかりに手を挙げる。陸峰の耳にしっかり聞こえるよう、大げさなため息をつき、芳寧は百花茶館の表へと出た。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
通行人が、ただならぬ気配を感じて振り向く。
それもそのはず、愛らしい顔をした白い瞳の少女が、眉間にこれでもかと深い皴を寄せ、口を一文字にきつく結んで、石畳を踏み固める勢いで歩いていくその後ろを、長身の青年が黒衣の腕を組み、春の陽気を楽しむようにゆったりと大股でついていく姿には、声をかけようにもかけにくい妙な雰囲気があった。
ゆるやかに下る石畳の両脇に、土壁づくりの家々が見えてきた。どの家も黒光りする瓦を頭上にいただき、見事な門構えをしている。
茶問屋街である易武通りは、百花茶館から歩いて二十分ほどの位置にあった。小さな乃柯里村の中でも裕福層が暮らす区画だ。父の克己に連れられて、芳寧も幼い頃からよく通った場所である。
揚易棠の注文を受けたという天能茶問屋が扱うのは、冰島老寨の核心区でわずか数斤しか採れない春一番の古樹茶。名門の家々が競って注文する宝茶である。克己には、とても手が出ない高級茶だ。
行商人が行きかう石畳を下った先に『天能茶問屋』と彫られた看板があった。その前で芳寧は立ち止まり、これ見よがしに看板を指し示す。
「案内したわ。じゃこれで」
来た道を戻りかけると、陸峰がその前に立ちはだかった。
「家まで送るよう命じられている。勝手な行動は困る」
「それは、あなたの都合でしょ」
殺人容疑のある男とは、とっとと縁を切らなければ。
「罰を受けるのは構わないが、仕事の依頼が来なくなる」
「仕事の依頼? あなたは揚公子の従者じゃないの?」
「俺は、鏢師だ。揚家から護衛を頼まれて同行している」
「え……?」
「いいから待て」
陸峰の手が、芳寧の肩から汚れた服の入った包袱を奪った。
「ちょっと!」
陸峰は肩をすくめると、天能茶問屋の大きな赤門をくぐっていく。自分の衣服を奪われたまま帰るわけにもいかない。芳寧は、苛立ちをこめて大きなため息をつくと、後を追った。
茶問屋の工房は、窓も少なく薄暗い。日差しに弱い芳寧にとっては、目に優しい明るさだ。
板の上にずらりと並べられた丸い重石は、上辺に二つの四角い穴が開いている特殊な形をしている。床の上にも一列に並べられており、白い作務衣を着た裸足の娘たちが五人、歌いながらその上で足踏みしていた。
同じ部屋に、窯で茶葉を炒っている男が二人。茶葉の重さを測りながら蒸している少年が一人、蒸した茶葉を布袋に入れている女が三人いる。餅茶を生産する工房だ。
気配に気づいた工人たちの視線が、一斉に芳寧に注がれた。
振り向いた娘たちが、あらという表情で歌うのをやめ、陸峰に釘付けになる。頬を両手で押さえる者もいれば、小さく感嘆の声をあげる者もいた。
「芳寧じゃないの、久しぶり。克己さんのお使いかい?」
吐蕃王国から南下して乃柯里村に住んでいるクンさんだ。この工房で働いて、もう十余年になる熟練工人である。
「今日は、お客さんを連れてきました」
「あら、それはそれは」
それはそれはに意味深な響きを感じたが、きれいに無視した。女というものは、長身に弱い。乃柯里村の娘は、旅人に弱い。
「虎街の揚家が、進呈茶を注文しているはずですが」
一歩後ろにいた陸峰が、例の穏やかな声で言った。
クンさんが頷きながら立ち上がり、工房の奥を指さした。
「準備してありますよ。包むので、少々お待ちを」
クンさんが奥に消えると、重石を踏んでいた娘のうち二人が、ばたばたと芳寧に駆け寄ってきた。
雨儿と英儿だ。
幼なじみの二人は、満面の笑みで裏庭を指さしては脇腹を小突いてくる。
「外にいる」
素っ気なく陸峰に言った途端、芳寧は雨儿と英儿に両脇を抱えられるように工房の外へ引っ張り出された。
鳥のさえずりが聞こえる裏庭には、陶器の壺や竹かごが山と積んである。まだ幼さのある少年が、慣れない手つきで薪割りをしていた。
「誰よ、あの人。男前じゃないの」
興奮を抑えきれない様子で、英儿が言う。
「あんな素敵な人、そうそういないわよ」
「男前なものですか、ただの日陰者よ」
「ひかげもの?」
「なんでもない」
雨儿が、くすくす笑った。
「芳寧が、男の人と話をするなんて驚きね。この後は、二人でどこに行くの? お茶を飲みに? 舟遊び?」
「とんでもない。工房を出たら、さっさと別れて家に帰るわ。父さんが心配してる」
その言葉を聞いて、雨儿と英儿が顔を見合わせた。
薪割りをしていた少年が疲れたのか、工房へと入っていく。
「一人で帰るなんて、ダメよ」
英儿の言葉に、芳寧は笑顔で返した。
「大丈夫。日暮れまでには時間があるわ。視界なら ──」
「あなたの目を心配してるんじゃないの」
雨儿が言った。
「芳寧は知らないのね」
そして工房をふり返り、小声で言った。
「易武通りのはずれで、早朝に溺死事件があったの。近くには水がめがあって、顔を押し込まれて溺れたみたい。竹河から来ていた茶商の若君らしいわ」
「工房のうわさでは、茶商の若君を狙った連続殺人犯がいるとか」
「二日前は、頬を刃物で切られた若君が、血相変えて故郷に帰ったそうよ」
衛門の触れ板の前で聞いた会話がよみがえった。
「殺されたのは、佐山から来た茶商の息子らしいぞ」
「佐山の坊ちゃんが、どうして乃柯里村で死んだんだい?」
「姜家の婿選抜会に向かうところだったようだ」
芳寧の胸に、ざわざわと不吉な風が吹いた。




