第8話 父の茶芸
百花茶館までの道すがら、ならず者を追い払ってくれた揚易棠は、芳寧と肩を並べて歩きながら、虎街から旅をしてきた茶商の二公子だと名乗った。
乃柯里村には、数日前から滞在しているのだという。
二人から数歩離れて、揚家の従者がついてきた。
今、芳寧が身に着けているのは、阿依の服だ。
麻布で、袖口が少しすり切れている。洗いざらしで清潔ではあるが、生地には木炭や豚脂の匂いがしみ込んでいた。
昨夜の花祭りの思わぬ事故で、泥だらけになってしまった芳寧の藍染めの服は、包袱に包まれて肩から下がっている。揚家の二公子と並んで歩くには、かなり不釣り合いないでたちだ。
会話が途切れた。
揚易棠の革帯が、かすかにきしむような音を立てる。
そよ風が、芳寧の鼻孔にかぐわしい香りを運んできた。
「腰に下げておられるのは、烏龍と桂花と陳皮を合わせた香り袋ですか?」
揚易棠が、ほおと声をあげる。
「さすがだね。香り袋の中身までわかるとは。旅に出る前に、母が手縫いしてくれた乾香袋だよ。家紋まで刺繍してある」
揚易棠の声が、誇らしげだ。
彼のような茶商の公子にふさわしい香りだと、芳寧は思った。清らかで若々しく、甘さよりも爽やかさが際立つ。風が動くたびに、ほのかに香る繊細さで、主張しながらも押しつけがましさを感じない。
「ところで……」
肩を並べて歩く揚易棠の声が、わずかに落ちた。
「あのごろつき達とは、何か因縁でも?」
芳寧は、慌ててかぶりを振った。あんな素行の悪そうな男たちと、つながりがあると誤解されてはたまらない。
「いいえ。なんの関係もありません。お察しのとおり、例の殺人事件について知っているのではと勘ぐられただけです」
「それで、きみは何と答えた?」
「それは……」
「死体を見たのか?」
揚易棠が、心配そうに見つめている。
彼には隠すべきではないような気がした。
「この視力ですから、感じたと言う方が正しいかもしれません」
「感じた?」
あの感触を思い出すたび、身震いが出る。
「身体に触れたんです。血の匂いもしました。死んでいるのはわかりました」
揚易棠が、ため息をつく。
「大変だったね。……それで?」
「え?」
「ほかに気づいたことは? きみは現場に一人でいたのか?」
陸峰のことを話すべきか迷った。
話せば、揚二公子は、衛門に通報すべきだと言うだろう。
だが、通報したところで状況証拠しかない。
陸峰が殺害した確証は、何もないのだ。
それでも、揚易棠に話しておけば、もし陸峰から追及された時に助けてくれるかもしれない。
「男の人が、一人いました。『静かに』と脅されて、気絶させられて、それからの記憶はありません」
「どんな男だった?」
「声しかわからないんです。若い男の声でした。顔は見ていません」
「……そうか」
その後の会話は、揚易棠が乃柯里村のあれこれを芳寧に質問する形で進んだ。
小さな村に好意をもってくれる揚易棠が、身分の差こそあれ、とても親しい存在に思えて、芳寧は嬉しくなった。
前方に百花茶館が見えた。
普洱茶の香りが漂っている。
青々しい香りの生茶、深い土の香りがする熟茶。
父の克己が茶芸で使うのは、湯の勢いで香りが一気に広がる生茶だ。
名残惜しい気分で、芳寧は揚易棠を振り向いた。
「送っていただき、ありがとうございました。その先の茶館で、父が待っていますので、ここで失礼します」
「お父さんの職場かい?」
「いいえ、月に一度、茶芸を披露しているだけです」
「茶芸?」
「高沖という技を、ご存じですか?」
口に出した直後、なんて愚かな質問をしたのだろうと芳寧は恨めしくなった。揚易棠は茶商の息子だ。知らないはずがない。
「おもしろそうだ。茶商としては、見逃せないね」
揚易棠は、気まずそうな芳寧の表情に気づかぬ様子で、従者に声をかけた。
「見てみよう。その技には以前から興味があった」
従者がうなずく。
つい満面の笑顔になり、揚易棠の視線を感じて、芳寧は慌てて視線をそらした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
百花茶館は、多くの客でにぎわっていた。
乃柯里村の社交場でもあり、父の克己が営む茶坊とは、もとより比較にならない規模ではある。
月に一度、名うての茶師がそれぞれの腕前を披露する茶試会は、遠方から茶愛好家を集めるほどの盛況ぶりだ。
「こちらへ、どうぞ」
茶芸がよく見える席を探したが、どこも満席だ。
芳寧がきょろきょろしていると、後ろにいたはずの従者が前方で手招きしている。
「空いておりました」
一等席である。その目の前に克己がいた。
二十歳で父になった克己は、若白髪の偉丈夫である。
武芸にも秀でていたと聞いたことがあるが、芳寧は父が剣を振る姿を一度も見たことがない。
「芳寧!」
愛娘に気づいた克己は、茶芸の準備を中断して駆け寄った。
幼子を抱擁するかのように芳寧を抱きあげた。いや、抱きあげようとした。芳寧が慌てて身を引いたので、仕損じた。
「大丈夫か? もう元気なのか?」
揚易棠がすぐそばにいるのに、父はお構いなしだ。
芳寧は顔が熱くなるのを感じて、克己の手を押しやった。
「父さん、始まるわよ。話はあとで」
克己は、うんうん頷いた。
客席の好奇の視線もかまわず、小さな目からぽろぽろ涙をこぼす。
芳寧に片手を上げながら、茶席の中央へ向かった。
「きみも、ここに座るといい」
揚易棠が、すぐ隣の椅子を指した。
ほんの少し戸惑いつつも、従者が引いてくれた椅子に腰を下ろす。
父の側にいてあげたい思いだけでなく、揚易棠ともう少し一緒にいたい気持ちがあった。
「いいぞ!」
「待ってました!」
かけ声がかかる。
克己は、大きな手の甲で小さな目をぬぐうと、芳寧に笑顔を見せ、それから目を閉じた。
午後の光が木の格子を伝い、床に細い影を落としている。
湯気が光を受け、白い糸のように揺れている。
茶卓の上に並んだ茶器が、淡く光をはね返している。
観客の視線が、克己に注がれている……。
大きな身体が動き、まるで武人の舞いのように宙を飛んだ。
剣士がかざす長剣のごとく、長嘴壺が空を切る。
肩や背中の上でくるくる回る。
回転するたび、湯の落ちる角度が変わり、香りがふわりと広がる。
これほど間近で父の茶芸を見たのは、初めてだった。
五斤ほどの重さがある銅製の茶壺を、一滴の湯をこぼすこともなく自在にあやつるその姿は、神がかっていた。
緊張の中に余裕があり、動きの中に静寂がある。
湯が落ちる細い音とともに、克己の肩にかつがれた長嘴壺から、客席のそれぞれの茶杯に、香り高い普洱茶が光に反射する黄金の糸のように注がれていく。
観客のため息とともに、生茶の青い香りが湯気に乗って茶館を満たした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ありがとう。有意義な時間が過ごせたよ」
館主と話をしている克己を待つ芳寧に、揚易棠が声をかけた。
彼は、酒でも飲んだ後のように上機嫌だ。
芳寧お勧めの桂花糕も口にあったらしく、宿に持ち帰りたいと店小二に包ませたほどである。
「機会がありましたら、またぜひお越しください」
言いながら、その機会はないだろうと寂しい気分になった。
虎街で華やかに暮らす茶商の二公子と、乃柯里村の小さな茶坊の娘。
よほどの必然がない限り、接点は見込めない。会えて話ができただけでも光栄なことだと、芳寧は思った。
若い男性から優しくされたのは、生まれて初めてだった。
茶という共通の話題で、話が弾んだことが嬉しかった。
胸の奥に芽吹いているこの切ないような気持ちが、阿依のいう「恋心」なら、もう少し味わっていたい未練もあった。
「陸峰、来ていたのか」
その感傷が、揚易棠の爽やかな声に打ち消された。
ぎょっとして振り向くと、茶館の入り口に長身の影があった。
長い足で、すたすたと軽やかに近づいてきたその影は、芳寧の真横に立ち、あの聞き覚えのある穏やかな声でこう言った。
「遅くなりました。揚公子」




