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白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


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第7話 撲殺事件

 花祭りの夜に続き、再び井戸端で気を失った芳寧ファンニンを心配し、イエン掌事が「今日は休みなさい」と休暇をくれた。送ると言って聞かなかった安茶アンチャを途中で返し、芳寧ファンニンは正午過ぎの石畳を歩いていた。


 気を失う直前の記憶が、なぜかすっぽり抜けている。

 自分を見下ろす陸峰ルフォンの驚いた表情だけが、遠のく意識の中ではっきりと見えたほかは、なにも思い出せない。


 街道はにぎやかだ。行商人が行きかい、茶葉はもちろん、陶器や炭や野菜を売る店からは呼び込みの声がこだまする。

 

 昼間の往来で、芳寧ファンニンが往生することはない。重症の白内障を患っていて視界は白くとも、光さえあれば物の輪郭はわかる。


 よく晴れた日だった。春の日差しが、肌をやわらかく撫でる。杖をつくことも、人にぶつかることもなく、芳寧ファンニンは石畳を歩いていった。


 向かう場所は、父と暮らしている茶坊ではなく、百花バイファ茶館である。乃柯里ノカリ村の北に位置するひときわ大きな建物で、旅人の冒険談と村人のうわさ話が飛び交う盛り場だ。


 茶師である父の克己クジは、月に一度、この百花バイファ茶館で茶芸を披露することになっていた。今頃は茶館にいるはずだ。


 芳寧ファンニンは、克己クジの心境が気がかりだった。


 花祭りの夜、一人娘が泥まみれになり、気を失ったまま戻ったのだ。心配性の父のことだから、かなり動転したに違いなかった。早く元気な姿を見せてあげたい。


 イエン掌事の言葉に甘え、休暇をもらった理由は他にもあった。

 陸峰ルフォンだ。


 花祭りの夜、あの路地にいたのは、紛れもなく彼だった。暗闇では視力の利かない芳寧ファンニンだが、代わりに聴覚が研ぎ澄まされる。


 芳寧ファンニンの口をふさいだ男。

「通りまで連れていく。手荒な真似はしない」

 穏やかながら、はっきりとそう言った声に聞き間違いはない。


 殺害現場に居合わせた芳寧ファンニンを、彼は路地からつれ出している。

 口を封じるつもりだったのか。いや、彼の声音に殺意は感じなかった。


 顔を見られていないと悟り、邪魔者を追い払おうとしただけかもしれない。そこで運悪く、阿依アイと鉢合わせになった。


 そういえば、阿依アイはこう言っていた。


「あまりにびっくりして、いったい何があったのよと彼に怒鳴っちゃったわ。そしたら、あなたが気絶する直前にこう言ったんですって。『酔っ払いに襲われて、逃げる途中で転んだ』と。覚えてない?」


 ……酔っ払いに襲われたことを、なぜ彼は知っているのだろう?

 芳寧ファンニンの足が止まった。


 陸峰ルフォンは、一部始終を見ていたのだろうか。背中に寒気が走った。やはり尋常な男ではない。人を殺めたうえに、若い娘が酔っ払いにからまれるのを眺めているろくでなしだ。


 運悪く彼と鉢合わせになった井戸端で「証拠がある」と豪語したのは、自己防衛のためだった。いや、豪語とは言い切れない。証拠は、あるにはある。だが、決め手にかける。


 そのうえ、芳寧ファンニンには視覚障害がある。「彼が犯人です」と訴えたところで、衛門が真剣に対応してくれるとは限らない。


 罪の意識を覚えながらも、芳寧ファンニンは自分を擁護した。

 

 人を殺めるほどの凶悪人だ。下手に動けば、何をされるかわからない。十五の娘に罪を裁けるはずはなく、失われた命は戻らない。人殺しと対峙したところで勝てる見込みはないのだから、関わらない方がいい。


 阿依アイの話では、陸峰ルフォンは茶商を護衛する鏢師らしい。吐蕃王国まで向かうのだろうし、明朝には村を発つはずだ。今日まで彼を避けていれば、おそらく彼と顔を合わせる機会はない。百に一つもない縁だ。


 衛門の正面を通りかかると、人だかりがあった。

 触れ板に、新しい貼り紙が出ている。


「昨夜、殺しがあったらしい」

「殺し?」

「路地を入ったところに、死体があったそうだ」

「頭をかち割られてたってさ」


 芳寧ファンニンの心臓が、凍りついた。

 路地に倒れていたあの死体の感覚が、突如どこからともなく、彼女の皮膚に鼻孔に糸のように絡みついてきた。無意識に記憶から遠ざけていたあの異様な感覚が。


 脂ぎった頭髪。生温かい血の匂い。だらりと曲がった腕。生気のない屍。


 芳寧ファンニンは、思わずえずいた。慌てて口を手で覆う。


「殺されたのは、佐山から来た茶商の息子らしいぞ」

「佐山の坊ちゃんが、どうして乃柯里ノカリ村で死んだんだい?」

ジャン家の婿選抜会に向かうところだったようだ」

「ああ、あの巍山ウェイシャンの?」

「婿に行くはずが、あの世に逝くとはのう」


 不謹慎な笑いが起こる。


「下手人は?」

「手がかりがないらしい」

「目撃者には、懸賞金を出すと書いてある」

「こりゃ騒動になるな」


 芳寧ファンニンはたまらず、その場を離れた。さっきまで温かかった初春の陽光が、目に痛い。耳に村人たちの声がまとわりついている。


「昨夜、殺しがあったらしい」

「頭をかち割られてたってさ」


 喉の渇きを覚えた。砂を噛んだようなざらつきが、舌にある。


 水が欲しい。井戸はないかと辺りを見回していると、前方から豪快な笑い声と足音が聞こえた。人の視線など意に介さないならず者たちの行軍だ。五、六人はいるだろうか。


 なんとなく嫌な予感がした。


 芳寧ファンニンは視線を落とし、石畳の端によけた。避けたにもかかわらず、威圧感ある足音は迷いなく彼女に向かってきた。むっとした体温をまとった男たちにとり囲まれてしまう。


「おい」

 頭の上から、だみ声が飛んできた。

「嬢ちゃん。ちょっと聞きたい事があるんだがな」


 芳寧ファンニンは、ため息をついた。

 サンザシ飴の甘い誘惑に負けたせいか、花舟に願い事をしなかった罰か。どうしてこうも次から次に、ならず者に行き当たる?


「何でしょう」

 芳寧ファンニンは、気丈にふるまった。昼間の茶馬道だ。人通りはある。怯えを悟られないように、声に力を入れた。


「見たんだろ? 死体をよ」

 どきりと胸が鳴った。


「ほかに、何を見た?」

「何のことですか」

「死体の他に、何を見たって聞いてんだよ」

「お前、目が見えてるんだろ?」


 誰かの手が、芳寧ファンニンの背中を小突いた。


「見えてるだろ? 杖なしで歩いてやがる」


 芳寧ファンニンの腕を、誰かがつかんだ。思い切り払いのける。


「やめてください!」

「正直に答えたら、勘弁してやる」

「見たんだろ? 何を見た?」

 肩を押される。息がかかる。次々に声が飛んでくる。


「おい! 何をしている?!」

 若者の声がした。駆けてくる足音が続く。


「娘一人に寄ってたかって、何事だ?!」

 初めて聞く声だった。

「衛門はすぐそこだ。役人を呼ぶぞ!」


 ならず者たちは、ぶつくさ文句を言いながら立ち去っていく。同時に、ほっそりと長い人影が目の前にふわりと現れた。


「大丈夫か?」


 耳にすっと透る声。芳寧ファンニンは、顔をあげた。


 彼の立ち姿に高貴さを感じた。長衣に焚きしめた木蓮の香りに、茶葉の香りが溶け込んでいる。長身を屈めるようにして、芳寧ファンニンの顔を覗き込んでいた。首をかしげるように彼女の目を見つめている。

 白い眼を見られている。急に恥ずかしくなった。


 芳寧ファンニンがうつむくと、彼はふっと笑った。


「あの連中は、おそらく触れ板を見たのだろう。懸賞金が出ると知って、手当たり次第に聞きあたっているのに違いない。怖がらなくていい」


 彼が動くと、かすかに墨の匂いがした。整理の行き届いた明るい書斎で、背筋をぴんと伸ばし、丁寧に書写する姿が目に浮かぶようだ。


「助けていただき、ありがとうございました」

「よければ送るよ。あの連中が近づいてこないとも限らない」

「いいえ、そこまでは……」

「遠慮しなくていい。時間はあるんだ」

 

 涼やかで穏やかな声が、芳寧ファンニンの心を和ませた。喉の渇きを忘れさせるほどに。


「きみの名は?」


 そう聞かれた時、ためらいもなく答えてしまったのは、彼の声に茶葉に通じる清涼感を見たからかもしれない。


「若様のお名前は?」

易棠イタン揚易棠ヤン・イタンだ」


 春の風が、芳寧ファンニンの耳をくすぐった。

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