第5話 白い瞳の少女
早朝。
馬房でラバに飼葉を与えていると、堂頭儿が入ってきた。
「どうだ? 傷の具合は」
陸峰の肩を、ぽんと叩く。
堂頭儿は、茶隊を護衛する馬鍋頭で年は三十半ば。がっしりした体躯に短い手足。四角い顔は、墨を吸った硯のように黒い。
「意外と元気ですよ。二日も休めば、発てるかと」
陸峰は、ラバの首をさすりながら答えた。
「そいつの話じゃない。お前の傷だよ」
堂頭儿が、豪快に笑った。
ああと苦笑して、陸峰は右の上腕に視線を落とした。ラバに襲いかかってきた狼に、がぶりと噛まれた傷がある。無造作に巻かれた包帯に、かすかに血がにじんでいた。
「かすり傷です」
「相変わらず、やせ我慢をするヤツだ」
はははと笑って、隣に並ぶ。長身の陸峰とは、頭ひとつ違う。
「お前もラバも、これからが働き盛りだからな。無理は禁物だぞ。ゆっくり休め。運よく急ぐ旅でもない。一週間後に巍山に着けばいいだけのことだ」
巍山の茶豪商である姜家の婿選抜会が、一週間後に予定されていた。
姜家は、茶業界を牛耳る押しも押されぬ茶商の名門である。多くの茶王樹を保有し、百年にわたって都への貢茶を栽培していた。
もとは、南方の女系部族が先祖だという。
姜家では、跡を継ぐのは女性と決まっており、生まれた息子たちは成人になれば家を出て行くのが習わしだった。
姜家の娘たちは、年頃になると婿を迎える。婿を迎え、最初に長女を生んだ娘が、次の女当家になるのだ。
婿入りした者は、妻が長女を生めば女当家の助役になれる。長男に生まれそこなった継承権をもたない公子たちにとっては、自分の不幸を幸運に変える千載一遇のチャンスと言っていいだろう。
婿に選ばれ、長女に恵まれれば、実家よりはるかに大きな権力を手に入れることができるのだから。
姜家の婿入りの話が巷でうわさになると、茶商の息子たちはそわそわしはじめ、選抜会の日程が告知されれば、各地の名だたる茶商たちが一斉に候補者を選抜会に送り込む。
今回の婿選抜会は、約十五年ぶりのこと。
鏢局の堂頭儿は、北方へ向かうラバ茶隊の護衛のほかに、虎街の茶商から特別な任務を任されていた。それが、揚家の二公子である揚易棠の護衛だ。
ところが......。
餅茶の護衛は盗賊や獣との戦いがつきものだが、二公子の護衛はそれとは別の意味で厄介だった。
「明日、二公子は茶芸を見に行くらしいな」
「そうです。選抜会の口頭試問で役に立つだろうからと言われていますが、実のところは乃柯里村に足止めになって退屈なさっているようです。俺がお供します」
やれやれというように、堂頭儿は頭を掻いた。
「気が気じゃないな。気まぐれな方だ」
陸峰も、苦笑する。
「幼なじみのお前の苦言なら、聞いてくださるだろう」
そうであればいいのだが。
今から十一年前、七歳だった頃。陸峰は、同い年の揚易棠と虎街の夜市で知り合った。
従者とはぐれた揚易棠が野良犬に襲われたところに、たまたま陸峰が通りかかったのだ。彼を助け、野良犬を追い払い、陸峰はすっかり彼の英雄になった。
揚家の二公子を、血相を変えて探していた従者たちは、二人の少年が上機嫌で夜市を楽しんでいる姿を見とめて、慌てて駆け寄ってきた。
「お前のような小僧が、若様に気やすい口をきくな」
そう怒鳴って陸峰を邪険に扱った従者を、揚易棠は蹴とばし、陸峰に向かって土下座させた。
以来、互いの家を行き来するほどに二人は親しくなった。鍛冶屋だった父が病死し、陸峰が親類の営む鏢局に引き取られるまでは、好敵手のように競い合い、兄弟のように励まし合う仲だった。
交流が途絶えて、はや六年。婿選抜会がきっかけで、二人は再会したが、揚家の期待を背負う若様となった揚易棠に、もはや泣き虫だった面影はない。
彼にあるのは競争社会を生き抜く野望だ。一介の鏢師である陸峰とは、身分も立場も未来も異なる。
苦言は、しょせん苦言だ。
忠言になるかは、揚易棠次第である。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
陽も高くなってきた。
ラバの毛並みを整えようと、陸峰は水を汲みに向かった。二日後の出発に備え、身ぎれいにしてやるのもいいだろう。
宿場町の馬店(宿)周辺には、複数の井戸があるものだ。最寄りの井戸は、門楼の目と鼻の先にあった。村人たちも使う共同井戸だ。
先客が一人いた。長い黒髪を背中で束ねた華奢な後ろ姿の娘である。
細い腕で、縄を懸命にたぐり寄せているが、井戸の底にある桶がかなり重いようで、いかにも危なっかしい。
ついに水の重さに負けて、娘が井戸の縁によろけた。井戸に落ちそうになる。陸峰は持っていたたらいを投げ捨て、慌てて駆け寄ると縄を握った。
はっとして振り向いた少女、その瞳は霧のように白かった。
「......ありがとうございます」
「大丈夫か?」
その瞬間、娘が委縮した。白い瞳を見開き、後ずさりする。
娘の手から離れた縄を、陸峰はたぐりよせて水桶をひきあげた。足元には彼女のものらしい水がめがある。
娘は黙ったままだ。ちらと顔を見れば、白い瞳がまだ宙を泳いでいる。
「水は、その甕に入れるのか?」
陸峰は、娘に聞いた。この桶を使わせてもらわねば、ラバに使う水が汲めない。
「よければ、俺がその水がめに......」
言い終わらないうちに、娘が陸峰の頬を平手打ちした。
「?!」
叩かれる理由がわからない。驚かせたせいか? 手を握ったからか? 小さな手のひらが、再び振りかざされる。
「おい!」
危うくかわした。少女は陸峰を目で追っている。どうやら白いその瞳は、完全に見えないわけではないらしい。確実に攻撃する相手を捉えている。
陸峰は、井戸の反対側に逃げた。
娘は追いかけることなく、勝気な表情で陸峰を睨みつけている。
「あなたね?!」
娘が、叫ぶように言った。幼さのある声だった。
「昨夜、私の口をふさいだのは」
陸峰は、あれが彼女だったのだと気が付いた。




