第4話 声の主
ぐえっと男が呻いて、脇腹を押さえた。
はだけた胸元から取り出したサンザシ飴の串を、芳寧が思い切り突き立てたのだ。
安茶達と食べたサンザシ飴、食べ終えたその串を捨てる場所がわからず、捨ててくれと桐儿に頼むのも気が引けて、芳寧は懐に入れていたのだった。
男の身体が離れた瞬間、芳寧は渾身の力で突き飛ばした。
ぬかるんだ地面で足がずるりと滑る。
土壁に嫌というほど肩をぶつけた。
逃げるなら今しかない。
右も左もわからない闇を、芳寧は逃げた。左の手で土壁をたどり、右の手で障害物を探り、人通りに向かっているのか、路地の奥に向かっているのか、それすらわからぬまま逃げた。
背後で、男が叫んだ。なんと言ったのかは聞きとれない。
襟首をつかまれるかもしれない。
殴られるかもしれない。
息が止まりそうだ。
──男は、追ってこなかった。
恐怖に狂いそうな自分を抑え、芳寧はふり返った。
あるのは闇ばかり。それでも頼りにならない目を見開く。
男はどこだ? どこにいる?
──気配がない。
男にひっぱたかれた頬が、焼けるように熱かった。
自分の呼吸音が、突風のように聞こえる。
鷹から逃れようとあがく野ネズミのように、芳寧は身体を縮こませた。震えの止まらない指先で、乱れた胸元を整える。
暗闇の中にひとり。
芳寧は、急に泣きたくなった。
十五にもなって、花祭りの夜道を一人歩きさえできない。
悪いのは自分ではないとわかっているけれど、抵抗できない弱さを責めてしまう。楽しみにしていた夜市が、一瞬で悪夢になった。
数分前まで笑っていた自分が、まるで別人のようだ。
涙があふれてきた。惨めさの次に、怒りが湧いてきた。
襲われたのは、自分が娘だからか。
偏見の目で見られる少数民族だからか。
白い目に生まれたからか。
すべて、彼女の選択でも罰でもないのに。
人の迷惑にならないよう、気を使ってきたつもりだ。
助けを借りずにいられるよう、努力もしてきた。
今夜だって、通行人にぶつからないよう道の端を歩いていたのに。
芳寧は、こぶしを握りしめた。
これまで感じたことのない熱を、胸に感じた。
来るなら来い。
飛びかかってきたら今度こそ、どんなにひどく殴られようと大声をはりあげ、思い切り咬みついてやる。
覚悟が生まれると、芳寧に聴覚が戻りはじめた。
くぐもっていた世界に、祭りのざわめきが戻ってくる。
安茶と桐儿は、サンザシ飴の屋台で待っているだろうか。馬店を出て一時間たっているなら、阿依姐さんも迎えに来ているはずだ。
父さんは早々に茶坊を閉め、茶発馬店で厳掌事と茶飲み話でもしながら、芳寧の帰りを待っているだろう。
帰ろう。みんなの所へ。
芳寧は立ち上がった。足がしびれていた。
立ち上がったものの、足はすぐには動かない。
息を潜めて耳をそばだてたが、襲いかかってくる気配はなかった。
そろそろと芳寧は歩き始めた。
路地は入り組んでいる。
月明かりも届かない。
頼れるものは、人並外れた聴覚だけだ。
前方に、ざわめきがある。
土壁をなぞりながら、ゆっくりと歩いた。
数歩ばかり進んだところで、急に左の方から笛の音が響いてきた。
太鼓が空気を振るわせ、威勢のよいかけ声に重なる。
芳寧は、鳴り物の方へと向きを変えた。
その時──。
闇の奥で “チッ” と舌打ちが響いた。
途端、ぐにゃりと柔らかいものを踏み、芳寧は足をとられた。
手をつくと、そこに人が倒れていた。
血の匂いがした。
炎が消えた薪のように、固く冷たさのある身体。
呼吸音が聞こえない。
……死んでいた。
芳寧の心臓が跳ね上がる。
「静かに」
すぐ背後から低い声が響いた。




