第44話 峠に咲く白牡丹
林頭儿が率いる二十頭ほどのラバの茶隊は、巍山の古城から芳寧と克己を伴い、一路南へと向かっていた。
山道に入ったが、前後にも旅人の姿がある。
「今日は、やけに通行人が多いな」
林頭儿の声が聞こえて、克己はふり返る。
十丈余ほど後方に、白い布をかけた輿が見えた。
剣を佩いた護衛の姿もある。
これでは、山賊の出没を過度に怖れる必要もなさそうだ。
ちらちら揺れる木漏れ日が、石敷きの茶馬道に落ちている。
空は快晴だった。
初めのうちは、お喋りしながら歩いていた芳寧も、やがて言葉少なになった。山道を歩き慣れない彼女に、林頭儿がラバの背に乗るよう勧めてくれたのだが、茶隊の大事なラバに負担はかけられないと、頑なに遠慮する。
父に似て、強情なところのある娘である。
半日ほど歩いたところで、道の右側が大きく開けた場所に出た。
一軒の茶店がある。
「ここから先に店はない。休憩していこう」
林頭儿の号令で、ラバの茶隊も道端の木陰に落ち着いた。
芳寧が、ほっとしたように笑う。
かなり足に疲れが来ているようだ。
北方訛りのある店主が、人のよさそうな笑顔で出迎えた。
すでに数人の客が談笑しながら、軽食を味わっている。
店主は芳寧と面識があるようで、親しげに挨拶を交わしていた。
「いつの間に常連になった?」
からかい半分で尋ねると「巍山に行く途中で、ここに寄ったの」との返事。
「阿宁は、います?」
そう訊いた芳寧に、店主は店の裏を指した。
「馬に水をやってるよ。あれ以来、かなり元気になって笑顔も出るが、給仕より馬の世話に熱心でね」
嬉しいのか期待はずれなのか、店主は複雑な表情だ。
芳寧は「ちょっと会ってくる」と言って店の裏に消えた。
さっきまで、足を踏み出すのも辛そうだったのに、だ。
店主に名物を訊くと、酥油茶と糯米餅がうまいと言う。
芳寧の分まで包んでもらうことにした。
乃柯里村までは、あと半日がかりだ。
長椅子に腰を下ろし、周囲を見回す。
すると、道の先のくぼみに薬草を見つけた。
十薬が群生している。
解毒に効果的な薬草だ。
「摘んでおくか」
よいしょと長椅子を立ち、茂みに向かった。
視線を移すと、少し離れた山の斜面に葛根が生えている。
辺り一面に群生していた。
石敷きの茶馬道に並行するように、狭い脇道があった。
踏み固められた土の道には、車前草まで香り豊かに揺れている。
ついつい薬草採りに夢中になってしまい、克己は蛇に気づかなかった。
黒い影が草むらを裂くように走ってくる。
シュッと鋭い息の音がして、その黒い影が跳ねた。
烏蛇だ。
しまったと思った時には、がぶりと咬まれていた。
烏蛇に毒はないが、執念深い。
再び襲いかからんと牙をむきだす。
痛みより先に体が動いた。
烏蛇の頭を拳で叩き落とし、かかとで踏みつける。
左腕に、鋭い痛みがある。
袖をまくると、引っかき傷のような咬み跡があった。
無毒であろうと、蛇の口には菌がある。
水で洗い流したいところだが、あいにく周囲に小川はなかった。
摘んだばかりの車前草を数枚ちぎり、歯で噛んで揉みつぶす。
にじんできた緑の汁を、指先で傷口にそっと塗った。
ひりつきが少し引いた(気がする)。
左腕を押さえ、茶馬道に戻ろうとした克己はぎょっとした。
すぐ背後に、男が立っていた。
白い布をかけた輿を護衛していた男の一人だ。
思わず身構えた克己に、護衛の男は頭を下げた。
「どうかしましたか?」
穏やかに尋ねてくる。
「いや……その、烏蛇にやられました」
男が、はっとする。
「わかりました。お待ちを」
それだけ言い捨てると、克己が「平気です」と言う前に走り去った。
なかなか慌て者の護衛のようである。
待てと言われたものの、どうしたものか。
林頭儿が、そろそろ出発の号令をかける頃かもしれない。
克己は、茶馬道までゆっくり歩き始めた。
茂みを出て開けた場所に出る。
茶店から少し離れた場所に、白い布をかけた輿が止まっていた。
そばには侍女数名と、護衛たちが控えている。
さきほど声をかけてきた護衛が、足早に駆けてきた。
きょとんとしている克己に、小さな白磁の壺を差し出す。
「……これは?」
「蛇傷に効く虎杖膏でございます」
克己は驚いて、輿を見やった。
白い布は重く垂れたままだ。
白磁壺の蓋を開けると、ほのかに草と蜜の香りが立った。
「それから、これを」
男が、うやうやしく薄桃色の絹の手巾を差し出す。
鮮やかなヒヨドリの刺繍が目に留まった。
──覚えのある香りが漂う。
淡い甘さを感じる白牡丹の香り。
透明感のある高貴さが風に溶けていく。
「筠溪──いや、大小姐があの輿に?」
はやる心を抑えながらそう訊くと、男は深くうなずいた。
「山賊を懸念され、ここまでお見送りなさいました」
克己の目は、輿に釘付けになる。
姜府での夢のようなひとときが、鮮やかに蘇った。
十四年ぶりに語らった時間。
別れ際に抱きしめた細い身体。
香しい髪、愛しい唇。
女当家であり、克己を義兄上と呼んでくれる唯一の人──姜善宝がいなければ、今生の再会はなかったはずだ。
輿に駆け寄りたい気持ちを、ぐっとこらえた。
十四年ぶりになる娘との再会を、まだ彼女は怖れている。
娘の気持ちを量り切れず、罪悪感にさいなまれたままで――。
白い布の奥にいる最愛の人は、きっと泣いているだろう。
克己は、深く頭を下げた。
(待っていてくれ。いつかきっと引き合わせる)
そう決意しながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「父さん、どこに行ってたの?」
腰に手を当て、ふくれ面の芳寧が言う。
「姿が見えないから心配したのよ」
言い終えると同時に、鼻をくんくん鳴らす。
「白牡丹の香り……。父さん、花でも摘んでたの?」
克己は、懐をそっと抑えた。
白磁の壺と絹の手巾が、そこにある。
ヒヨドリの刺繍は、きっと娘に伝えたい母心なのだろう。
「茂みにいたの? 何してたの?」
「……夢を見ていた」
芳寧が、やれやれと呆れたように首を振りながら、
「何していたのか聞くたび、いつもその答えね。さあ、出発よ」
克己の左腕をぐいと引っ張る。
ひいっっと克己が悲鳴をあげた。
烏蛇に咬まれた傷痕は、しばらく消えそうにない。




