第45話 白い霧の向こう
芳寧と克己は、乃柯里村へ戻った。
「芳寧が何者かに誘拐された」とだけ聞いていた茶発馬店の従業員たちが、無事に戻った彼女を熱狂的に出迎えたのは言うまでもない。
芳寧を見た厳掌事は、たがが外れたかのように叫んで駆け寄った。
阿依は、芳寧を抱きしめて離さない。
桐儿は腰を抜かしたまま号泣し、安茶は芳寧の手を握りしめて飛び跳ねる。
いつもは冷静な豆お婆さんでさえ、腰の痛いのも忘れて鍋蓋を振りまわし、「よかったなぁ、よかったなぁ」と小躍りしていた。
芳寧の日常が戻ってきた。
鶏のさえずりとともに『名もなき茶坊』を出る。
ひんやりとした石畳を歩いて茶発馬店へ向かい、訪れる宿泊客にもてなしの茶を煎れる。夕暮れには茶器を片付け、「また明日ね」と裏木戸から出て行く。
馬店で使う茶葉を仕入れに、易武通りへ出かけもする。
天能茶問屋を訪ね、幼なじみの雨儿や英儿とおしゃべりしたりもする。
これまでと変わったことと言えば、克己に手頃な短剣を見立ててもらい、護身術を習い始めたこと。
井戸の水汲みが早くなったこと。
乃柯里村のあちこち──茶発馬店の客房や共同井戸、百花茶館の前──を通りかかると、ふと思い浮かぶ長身の姿があること。
ある夜、いつものように食器の片付けを終えると、
「芳寧、来なさい」
客座から克己に呼ばれた。
行ってみると、丸卓にずらりと茶葉が並んでいる。
「どうしたの? こんな時間に茶葉の査定?」
克己は首を振り、まじめな顔で座れと言う。
いったい何のお小言だろうと身構える芳寧に、
「今日から、お前に茶師の修業をさせようと思う」
克己が言った。
思いがけない言葉に、芳寧は戸惑う。
「どうして急に……? 茶師ではない仕事に就いてほしいと、父さんは言ってたわ。学びたければ独学でと言ったから、茶発馬店に通ったのよ」
ああそうだ、と克己は大きく頷く。
「だが、父さんは間違っていた。茶師の道に進むかどうかは、お前が決めることだ。業界からお前を遠ざける権利など、私にはない」
胸が熱くなったのか、克己が鼻をすする。
「覚えているか? 姜府で、私はこう言った」
丸卓の上の茶葉を、指でもてあそびながら続ける。
「姜家の娘には特別な血が流れている、と」
覚えている。
姜家にとって血脉と評判は命より重い。
「彼らは茶髄を守ることで、茶豪としての地位を守ろうとしている」
克己の小さな目が、まっすぐ芳寧を見つめる。
覚悟を決めるかのように、大きく息を吸った。
「芳寧。お前は茶髄をもって生まれた子だ」
二人の空間が、しんと静まり返る。
窓の外で、雨が降り始めていた。
「父さん……どういうこと?」
「お前は茶葉を見極められる。誰に師事していなくても、正しく茶を煎れられる。まるで、茶葉を知っているかのように。見えているかのように」
克己が微笑んだ。
「姜家の大小姐、姜筠溪がお前の母だ。彼女こそ、姜家の茶髄を受け継いだ、女当家となるべくして生まれた女性なのだよ」
それから、克己はぽつりぽつりと語った。
父と母がどうやって出会い、どう惹かれあったのか。
芳寧が生まれた日のこと、十四年前に何が起こったのか。
「大小姐の祖母上である老夫人は、七年前に亡くなったそうだ。長女を生んだのはお前の母だが、家督はすでに二小姐の姜善宝が正式に継いでいる。今さらどうなるものでもない。どうしたいという願いもない。ただ──」
克己の目には、涙がにじんでいた。
「いつか、お前を彼女に……お前の母に会わせてやりたい。私にできることは、茶髄をもつお前を私なりに導き、修練させてやることだと思う」
そして、深々と頭を下げた。
「どうか、弱かった父と母を許してほしい。償わせてほしい」
芳寧の頬に、熱いものが伝った。
心が洗われていくように感じた。
乾いた石畳に吸い込まれていく雨のように、静かな涙だった。
気づかれないように涙を拭き、芳寧は頭を下げる。
「では師匠、よろしくお願いします!」
笑った克己が、ぱんと膝を叩いた。
「よし、では、今日からじっくり茶師の心構えを講義する」
えへんと咳払いする。
「まずは清明、心を純粋に保つこと。次に精明。技を見極めること。最後に賢明。判断に節度をもつこと。すなわち――」
「明、明、明!」
涙目のまま、親子は満面の笑みを浮かべる。
煎れたての普洱をなみなみと茶杯に注ぎ、乾杯した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夏が過ぎ、秋が来た。
夕暮れが近づいている。
遠くで山烏が鳴いていた。
仕事を終えた芳寧は、茶発馬店の脇を流れる小川のそばで、赤く染まりゆく空を見ていた。
十本を超える桂花が、橙色の花びらをまとっている。
甘く、優しい香りが辺り一面に広がっていた。
どこか切ない香りを胸いっぱいに吸う。
芳寧の世界は、うっすらと白い霧に包まれている。
赤く燃える空が、風に揺れる桂花を染めていく。
まばたきをしたその瞬間、霧の向こうに人影がゆらめいた。
目を凝らす。
迷いのない足音が、石敷きの道を降りてくる。
夕焼けに長く伸びるその影が、芳寧のつま先に届く。
香木のものでも香粉のものでもない、その人の匂いがふわりと立ち上る。
彼女の目の前にすらりと立った長身の影。
見上げて、芳寧は微笑んだ。
「元気そう」
夕焼けを背に受けるその人は、ふっと笑う。
「ここにいたのか」
変わらぬ声が、耳に心地いい。
芳寧は、手を差し出した。
「送ってくれる? あなたに渡したい物があるの」
その人の手が、芳寧の手にそっと触れる。
風のように走ったあの茶畑を思い出す。
この手を離さないかぎり、どこまでも行ける気がした。
- The End -




