第43話 元気で
空が明ける前に、旅人たちは荷をまとめて出ていく。
まだ薄暗い石畳の道には、すでに黒い人影が行き交っていた。
芳寧と克己が宿から出ると、陸峰が馬の背に鞍を乗せて待っていた。
乃柯里村まで同行してくれる鏢局は、南門近くの宿に泊まっているという。紹介してくれた陸峰が、その宿まで送ってくれることになった。
「いい馬だなぁ」
克己が艶やかなたてがみを撫でると、駿馬は甘えるように鼻をつけた。
芳寧をさらった乃柯里村の馬夫から失敬した、あの馬だ。
『馬には人の心がわかる』
陸峰の言葉を、芳寧は思い出す。
『傷を負った心を察すると、賢い馬は慰めようとする』
克己の心にも見えない傷があるのだ。
宿の前を掃いていた店小二の少年に「世話になった」と別れを告げ、三人は夜の冷たさが残る石畳を、南へと向かった。
往来には、すでに朝食を提供する露店が並んでいる。
提灯の灯りの下に、包子を蒸す湯気が見えた。
「眠れなかったのか?」
克己が、陸峰の顔をのぞき込んで言った。
確かに目の下にわずかな黒い影がある。
「四人部屋だったからな。いびきをかく奴でもいたか?」
いいえ、と陸峰は首を振る。
「久しぶりの長旅になるので、思いがけず緊張したようです」
寝て食うのは旅の基本だぞと、克己が湯気の立つ露店に声をかけ、乾餅と肉入り包子を三人分、竹皮に包んでくれと頼んだ。
包み終えるのを待っていると、すぐ脇の長椅子で乾餅を頬張っていた男二人の会話が、耳に聞こえてきた。
「今年の姜家の婿選抜は、候補者なしだそうだ」
「あれだけ集まったのに不発とは」
「何かと事故も多かった。縁起を担いだんだろう」
頭髪の禿げた男が、悔しそうに茶をすする。
「十五年ぶりのおひねりがお預けとは、残念だ!」
「来年に期待するしかないな」
三人分の軽食が、丁寧に包まれて出てきた。
陸峰が懐に手を入れるのを制し、克己が代金を払う。
「これは、朝から私が煎れた茶だ。途中で飲むといい」
そう言って、太い竹筒を陸峰に手渡した。
ふわりと鉄観音茶の香ばしさが漂う。
巍山の南門にほど近い宿に、出発を待つラバの茶隊がいた。
「乃柯里村まで、よろしくお願いします」
克己が挨拶すると、一人の男が進み出た。
がっしりした体躯の、四十過ぎと思しき肌の焼けた男である。
陸峰が「林頭儿です」と紹介したので、芳寧も頭を下げた。
いかつい顔の林頭儿だが、すぐに笑顔がほころんだ。
「こいつの紹介なら遠慮はいりませんよ」
と、陸峰を指す。
克己が鉄観音茶の入った竹筒を差し入れすると、その香りにいたく喜んで、茶好きの二人はすっかり意気投合した。
山の端から、日が差してきた。
空がみるみる色をもち、明るくなっていく。
茶馬道の石畳が、白く輝いていた。
「名残惜しいが、ここでお別れだ」
克己が言い、陸峰の肩をぽんと叩く。
「吐蕃王国まで、気をつけて行けよ」
「はい」
陸峰は馬のくつわを引き、芳寧を見た。
「元気で」
陸峰が笑顔を見せる。
「あなたも」
芳寧も、笑顔で返した。
芳寧は南へ、陸峰は北へ。
ここに来るまで、二人が言葉を交わすことはなかった。
たとえあったとしても、会話は続かなかっただろう。
「さあ、出発だ!」
林頭儿が、がなり声を上げた。
茶隊が動き出す。
荷を積む前のラバは、足取りも軽い。
先頭ラバの首から垂れる鈴の音が、空高く伸びていく。
歩き出して数歩、胸の奥がきゅっと痛んだ。
思わず足が止まる。
芳寧は、ふり返った。
朝日の白さの中に、陸峰が立っていた。
芳寧の目には、すらりとした長身のその人の表情は読めない。
ただ、こちらを見ている気配だけが、まっすぐ届いた。
馬がぶるぶると頭を震わせている。
彼女に「さようなら」を言うかのように。
芳寧は、思い切り手を振った。
乃柯里村の茶発馬店で、いつも見送る立場だった芳寧が、今日は旅の鏢師に見送られている。
喉の奥がつまるような感覚──。
芳寧は、思わず胸元を押さえた。
そこに、わずかな膨らみを感じる。
縫いあげたばかりの深緑の香り袋だった。
陸峰に渡せるなら渡そうと思いながら、とうとう渡せなかった香り袋からは、薄荷の涼しさと白檀の柔らかな木の香りがかすかに漂っていた。
陸峰は、動かない。
じっと芳寧の方を見ている。
そのまま彼を見ていたら、思わず駆け寄ってしまいそうで、芳寧はもう一度大きく手を振ると、克己が差し出す腕をとって歩き出した。
乃柯里村へ。
陸峰の視線を背中に感じる。
『また会える?』
芳寧がそう訊いたなら、彼は何と答えただろう。
二人で立ち寄ったあの街道沿いの茶店で、母を亡くした少年が「また来る?」と訊いた時のように、彼は力強い声で約束してくれただろうか。
──きみが待っているなら、と。




