第42話 それぞれの選択(2)
茶器の盆を抱えて、芳寧が部屋に戻ると、克己がふり返って笑顔になった。
午後にあれこれと購入した物が、寝台の上に山積みになっている。
「父さんたら……。今夜は床で寝るつもりなの?」
あきれ顔で問うと、「ついつい買い過ぎた」と克己が高らかに笑った。
円卓の上に盆を乗せ、芳寧は自分の寝台に腰を下ろした。
姜府の倒座房にあった敷布と比べると、お世辞にも上等とは言えないが、乃柯里村の茶発馬店の寝具よりは、はるかに柔らかい。
巍山は、やはり交易で栄える街だ。
乃柯里村よりも裕福で、規模も大きい。
それだけ人の出会いや別れといった物語も、複雑なのだろう。
芳寧は、母のことを思った。
ふとしたきっかけで瞼の裏に現れた白い霧の光景。
荷車の上で抱きしめてくれていた筠溪という女性が、芳寧の母なのか。
家族三人は、姜家から逃げようとしていたのか。
そして、その母は今──姜府にいるのか。
心にまとわりついて離れない靄のような葛藤を感じつつも、芳寧は自分でも意外なほど冷静だった。
彼女は十五になったのだ。もう子供ではない。
感情のまま問い詰めてはならない問題があることも、理解している。
克己が、巍山行きを不自然に断った理由。
芳寧を巍山から引き離そうとした理由。
克己が腰牌なしで、姜府に入れた理由。
答えとなる手がかりは、あの老夫人の言葉にあるように思えた。
『……白い瞳の孫など。忌まわしい』
『誰にも言うんじゃないよ』
あの姜府の空気を肌で感じ、婿選抜会の殺伐たる雰囲気を目の当たりにした。
想像を超える確執が、芳寧の届かぬ過去に横たわっていたのかもしれない。
「おい、どうした」
膝に置いた手をじっと見つめている芳寧に、克己が声をかけた。
わかったぞ、と膝を叩く。
「あの陸峰という若者と別れがたいんだな?」
父さんときたら!
娘の私は問いただしたい気持ちを押さえているというのに!
つい、いたずら心が湧いた。
「父さんこそ、巍山にはいい思い出があるんじゃないの?」
妙なことを聞くんじゃないと叱られるかと思いきや、克己が素直にうなずいたから、芳寧はかえって驚いた。
「そうだな。そうかもしれんな」
思い切って聞いてみよう。
今夜ここでなら、はぐらかさずに答えてくれるかもしれない。
「母さんは……私を生んで、がっかりしてなかった?」
その途端、克己が弾かれたように芳寧に駆け寄った。
「おいおい、なにを馬鹿なことを言う!」
娘に声を荒立てない克己が、珍しく一喝する。
「がっかりなどするわけがない!」
「だって──」
芳寧は、いつの間にかこぶしを握り締めていた。
「母さんのことを、私は何も知らないから」
幼い頃から気づいていた。
母の話になると、克己の表情に影が落ちることに。
母さんの名前も教えてくれない。
病で死んだと聞かされていた。
母さんに関する物は、遺品すら何ひとつない。
子ども心におかしいと感じつつも、触れてはならない領域だと心が警告していた。
芳寧の肩をぽんと叩き、克己が窓際へと歩く。
月が出ていた。
大きな克己の身体が、月の光を遮る。
幼い頃からずっと、芳寧を守ってくれた広い肩──。
「母さんは、お前を愛していたよ」
克己が、吐き出すように言った。
「……こんな目なのに?」
悲しくもなかったのに、なぜ涙が出て来るんだろう。
「母さんは、翡翠のように美しい目だと言っていた。父さんも同感だ」
夜はしっとりと更けていく。
石畳を走っていく足音が聞こえ、遠ざかっていく。
隣の客室から、茶器の重なる音が聞こえる。
そうかもしれない。でも──。
「この目が翡翠でなく、黒檀だったら、父さんは母さんと別れることなく、『助役』になれたかもしれないのに」
克己は、窓の外を見ていた。
満月が、墨を溶かしたような空にぽっかり浮かんでいる。
乃柯里村と変わらない美しい月。
「父さんは──」
耳を澄ましていなければ聞こえないほどの声で、克己は言った。
「お前と生きる道を選んだ。瞳の色など関係ない」
だんだんと芳寧の視界がにじんでいく。
「お前は愛する人との間に生まれた、この世でただ一人の大切な娘だ」
「私も──」
ふり返ろうとしない克己の背中に、語りかける。
「姜府の娘より、乃柯里村の娘がいい」
どんなに小さな声でも、きっと克己には届いている。
「父さんと母さんの娘であることに、変わりはないもの」
きっと、窓から吹く風が冷たいのだろう。
克己が鼻をすすった。




