第41話 それぞれの選択(1)
姜府を出た後、揚易棠の従者は虎街に向けて出発した。
揚易棠は、失踪した。
昨朝、置き手紙だけを残して姿を消したままだ。
状況からして、故郷に戻っているとは考えにくい。
一刻も早く、この緊急事態を家主に報告しなければと、哀れな従者は額に冷や汗を浮かべ、病人のように青い顔で馬を飛ばして去っていった。
克己と芳寧は、巍山の宿をとった。
姜府を出たのは昼過ぎで、すぐ乃柯里村に発ったとしても、山賊が出没する峠を真夜中に越えることになる。
不安そうな芳寧の意を察した陸峰が、巍山に滞在している鏢局に尋ねまわり、克己と芳寧を乃柯里村まで護衛してほしいと話をつけてくれた。
陸峰の気遣いに、克己も大喜びだ。
「口をきいてくれた礼だ。宿代は俺が出す。お前も泊まっていけ」
克己は、半ば強引に陸峰を宿に連れ込んだ。
「乃柯里村もいいが、巍山の茶葉や茶器は格段に質がいい。この機会だ。いくつか調達しておこう」
そう言って、克己は午後いっぱい、二人を連れまわした。
まっすぐに伸びる石畳の道。
三日前、陸峰と歩いた道だ。
相も変わらずにぎわう石畳の街路は、いろいろな民族衣装でごった返している。
波のように、遠くまでうねって続く灰瓦の家屋。
大声で交渉している市場は、芳寧が初めて嗅ぐ薬草であふれていた。
「ここが、拱辰楼(南門の城楼)だ」
克己が指さしたのは、城門の上にそびえる楼閣だった。
黒瓦がまぶしい重層屋根に、首をのけぞらせて見惚れた芳寧は、思わずよろけて陸峰に支えられる。
こほん、と克己の咳払い。
「腹が減ったな。飯にしよう。巍山の名物といえば──」
「一根面」
陸峰が答えると、克己が目を丸くした。
「なんだ、詳しいじゃないか。それも当然だな。お前は旅する鏢師だ」
旅する鏢師──。その言葉を聞いた瞬間、それまでずっと笑顔だった芳寧の胸が、ちくりと痛んだ。彼女が乃柯里村に帰るように、彼も鏢局に帰る。深く考えたくなかったその瞬間が近づいていた。
克己が「ここがうまい」と案内してくれた場所は、陸峰が堂頭儿を誘い、巍山に三日間だけ滞在させてもらうための許可を得ようと入った食事処とは別の場所だった。
椀に入っているのは、一本の長い麺。
鶏ガラと火腿で出しをとった琥珀色の清湯からは、濃厚な熟成香が漂っている。付け合わせに出てきた歯ごたえある茸と筍の醤油煮が、最高にうまい。
「父さん、どうしてこんなお店を知ってるの?」
芳寧がそう訊くと、克己の箸が一瞬止まった。
「……人に聞いたんだよ。周さんだったかな?」
そこから先は、うまい具合に話をそらされた。
食事処を出た後は、市場を回った。
茶葉や茶器を見て回り、かんざしを眺め、三人でサンザシ飴を舐めながら、実は花祭りの夜に助けてくれたのは陸峰だと克己に打ち明けた。
克己は小さな目を丸くして、『これまでお前呼ばわりして悪かった』と、陸峰が顔を真っ赤にするまで、何度も何度も頭を下げた。
それから三人は茶店に入った。
山小屋での救出劇から巍山に向かう途中で見た茶樹王の話を、芳寧が中心になって、二人で克己に話して聞かせた。
揚易棠のことは──何も話さなかった。
現場で房飾りを拾った芳寧も、事件を衛門に通報した陸峰も、口裏を合わせていたわけでもなく、ただ単に同じ気持ちだった。
揚易棠には、友として伝えるべきことを伝えた。
あとは、彼の選択次第だと。
宿に戻る途中、荘厳な朱塗りの門の前を通った。
祈りを捧げている人々の姿がある。
臓腑に染みわたる低い読経の調べが、空気を震わせている。
文廟の前で、三人は静かに手を合わせた。
それぞれに想いを馳せながら──。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
宿の店小二(給仕)から夜半に飲む茶をもらい、部屋に戻る途中で、ふと陸峰の姿が目に入った。
芳寧と克己が泊まっている小部屋とは中庭をはさんだ向かい側──彼が泊まっている四人部屋の前である。
長椅子に腰を下ろし、何かを磨いているようだった。
提灯の灯りに、きらきらと光っている。
少しためらったが、芳寧は近寄った。
気配に気づいて、陸峰が顔を上げる。
切れ長の瞳を和らげて、芳寧に微笑んだ。
「明日は早い。休んだ方がいい」
「わかってる」
言いながら、陸峰の隣に腰を下ろす。
膝の上に、そっと茶器を置いた。
「それは……鐙?」
芳寧が訊くと、陸峰が作業の手を止めた。
うなずき、光沢のある鐙を芳寧に見せる。
「鐙は乗馬の命綱だ。整えておかないと」
「……吐蕃王国まで行くのよね?」
「ああ。堂頭儿と合流する」
「吐蕃王国まで、どれくらいかかるの?」
「三か月だ」
「到着したら、何をするの?」
陸峰が、ふっと笑う。
「今日は、やけに質問攻めだな」
明日からは、何も聞けなくなるんだから──。
「あの手紙のこと、気にならない?」
「手紙?」
芳寧が身じろぎすると、膝の上で茶器が鳴った。
「揚公子が『無駄にあがいた』って……どういう意味かしら」
さあな、と陸峰は首を左右に振る。
「姜府で起こした騒動のことかもしれないし、それ以前の生き方かもしれない。本人に訊くまで、俺たちには謎のままだ」
夜は、次第に濃くなっていく。
鐙なら、とっくに磨き終えていた。
彼女の姿が中庭に現れないかと、期待していただけのことだ。
芳寧に訊きたいことなら、陸峰にもあった。
三日前、揚易棠に確認したいことがあると言っていた。
──彼の気持ちは、訊けたのか?
昨夜、『私の母のように自由を与えた』と言っていた。
──その言葉の意味は?
だが、訊いたところで何になる。
彼女との縁は、明日で終わるというのに。
「……もう寝るね。おやすみなさい」
芳寧が、長椅子から立ち上がった。
茶器の乗った盆を抱えると、中庭に現れた時のように静かに去ろうとする。
「芳寧!」
陸峰が、呼んだ。
芳寧が、ふり返る。
二人は、そのまま声もなく佇んでいた。
ただ見つめ合う。
月の白い光が、中庭に影を落としていた。
背丈の違う影が二つ、石敷きの敷居に伸びていく──。
店小二(給仕)の少年が、廊下をばたばたと駆けてきた。
その足音に、止まっていた時間がまた動き出す。
陸峰が、小さく咳払いした。
「……揚易棠が、言っていた。『きみに悪い事をした』と」
ゆったりと、芳寧は頷いた。
期待していた言葉とは違っていたけれど、それも彼らしい。
あえて明るく笑ってみせよう。
「揚公子みたいに、何も言わずに消えたりしないでよ。お互いの旅立ちは、ちゃんと見送らないと」
陸峰が、力強くうなずく。
「もちろんだ」
できるだけ自然な笑顔を作る。
いつもより朝は早く訪れそうだ、そう思いながら。




