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白い霧の向こう ― 茶馬道を北上する血の臭いが行きつく先は、白い瞳の少女が過去を失った場所だった ―  作者: 鬼丸 千


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第40話 女児紅の秘密

 翌朝、揚易棠ヤン・イタンの姿が消えていたという。

 血相を変えた従者が『陸峰ルフォンへ』と宛書された封書をもって、倒座房とうざぼうへ駈け込んできた。


「これが……これだけが……」


 喘ぐようにそう言うと、へなへなと座り込む。


 文面に目を落とした陸峰ルフォンは、躊躇することもなく、傍らにいた芳寧ファンニンにその手紙を手渡した。


『無駄にあがいた。さらばだ』


 流れるような筆致で、それだけが記されていた。


 揚易棠ヤン・イタンは、武技の試験を放棄した。

 ヤン家は失格となった。


 主が去ったなら、従者が残る意味はない。

 芳寧ファンニン陸峰ルフォンは、倒座房とうざぼうを去ることになった。

 揚易棠ヤン・イタンとともに西の廂房しょうぼうに泊まっていた克己クジと(哀れなほどに肩を落とした)従者も荷をまとめ、使用人たちに腰牌を渡すと、垂花門すいかもんから出てきた。


「父さん、しばらく姿を見なかったわ。何をしてたの?」


 芳寧ファンニンが訊くと、克己クジ垂花門すいかもんを振り仰ぎながら、こう言った。


「夢を見ていた」

「……夢?」


 大きな手の甲で、小さな目をぬぐった克己クジは、見つめられていることに気づくと、おどけた顔をしてみせた。


「お前、猫を触っただろう。目がかゆくてかなわん。さあ行くぞ」


 屏門へいもんを抜け、白壁の影壁を左手に見て、重厚な花崗岩で組まれた門柱を出る。

 空は快晴だった。

 往来は、日々の営みに忙しい庶民や先を急ぐ旅人でごった返している。

 慌ただしくも活気に満ちた人々の暮らしが、そこにある。


 芳寧ファンニンは、ふり返った。


 門扉の上から、金色に刻まれた『ジャン府』の扁額へんがくが見下ろしている。門前に立つ二体の石獅子は、芳寧ファンニンを睨んでいた。


『お前は、招かれざる客だ』


 芳寧ファンニンは微笑み、ジャン府に背を向け、歩き出す。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ジャン家の家族が暮らす東の廂房しょうぼうは、回廊で白壁の影壁とつながっている。

 正門をにらむその影壁には、侵入者を監視するための隠し窓が設けられていた。

 二人の淑女が、その隠し窓を背に佇んでいる。

 一人は目頭を押さえ、もう一人は優しく肩を抱いていた。


「姉上、大丈夫?」


 姜善宝ジャン・シャンバオが、労わるように背中をさする。

 長身の彼女の姉は十四年前と変わらず、哀れなほど儚げに見えた。

 頷いてはいるものの、その頬には止めどなく涙が流れている。


「これは天罰なのかしら」

 

 心配そうに眉をひそめる妹に、ジャン家の大小姐──姜筠溪ジャン・ユンシは泣き笑いを浮かべた。


「姉上、何を言うのよ」


 勝気な彼女の妹が、ぽんと肩を叩く。


「そんなわけないわ。姉上は少しも悪くない。今も昔も」


 自分を納得させるかのように、何度もうなずく。


「どうして、あの子だとわかったの?」


 姜善宝ジャン・シャンバオが訊いた。


「下手な男装のせい?」


 その言葉に、姜筠溪ジャン・ユンシがくすっと笑った。


「十四年も会えなかったのよ。男装なんて関係なく、気づくはずがないわ。──慧思フイスのおかげよ」


 口頭試問の日。

 姜善宝ジャン・シャンバオの娘、姜慧思ジャン・フイスが、男装していた芳寧ファンニンにこう詰め寄った。

『答えてみなさいよ。茶商にとって大事な三つの徳とは?』


「あの子は、こう答えた。『ミンミンミン』」


 きょとんとしている妹に、姜筠溪ジャン・ユンシは微笑む。


「あれは、私が彼に教えたの」


 そういうわけだったのかと驚く妹に、姉はしたり顔だ。


「そもそも、祖母上が『武芸に秀でた腕のいい茶師』である彼を巍山ウェイシャンに連れて来たんでしょ? なのに、惹かれあって結ばれた二人を、あんな風に引き離すなんて……祖母上の仕打ちは、あんまりだわ」


 たしなめるように、姜筠溪ジャン・ユンシは妹を見る。


「よしなさい。亡くなった人のことをそんな風に――」

「でも……」


 姜筠溪ジャン・ユンシ姜善宝ジャン・シャンバオは、支え合いながら回廊を歩いた。東の廂房しょうぼうの裏には、ひときわ大きな中庭がある。

 そこに、樹齢二百年といわれる茶樹王があった。

 

 ジャン家の祖先が、南方から北上する旅の途中、切り立った崖の上で孤高に風雪に耐えるその姿に心を奪われ、巍山ウェイシャンへ移植したのだと伝えられている。


 姉妹は、その堂々たる茶樹王を見上げた。

 わずかな風にも、枝葉が揺れる。

 歴史を感じる茶葉の香りが、ジャン府全体を覆っていた。


「本来なら、姉上が女当家になるはずだったのに」


 姜筠溪ジャン・ユンシが、ぽつりと言った。


「茶髄のある姉上なら、このジャン家を変えられるはずだわ。私は……あんなに嫌っていた祖母上に似るばかり」


 うつむく妹の背中を、今度は姉がさする。


「茶豪となったジャン家には、しがらみも多い。朝廷の権力闘争にも巻き込まれかねない今の状況では、あなたの手腕が祖母上に似るのも仕方のないことよ」


「女当家になんてなりたくなかった。長女を生んだのは、姉上なのに」


 唇を尖らせる妹の手を、姜筠溪ジャン・ユンシはそっと握りしめる。


善宝シャンバオ。ありがとう。あなたには恩を返しきれないわ。宴にあの子を呼んでくれたから、娘だと確信できた。あの子の白い眼はヒスイのように美しい。目も唇も彼にそっくりだった」


 克己クジの話題が出た途端、妹の姜善宝ジャン・シャンバオは思い出し笑いする。


「あの夜の義兄上の驚いた顔ときたら……。私を姉上だと思い込んで、そこの抜け穴から狸みたいにひょっこり顔を出したのよ」


 姜善宝ジャン・シャンバオが、茶樹王の裏を指さす。

 うっそうと茂る茶樹に隠れて、今は穴らしきものは何も見えない。


「茶樹王の周辺に立ち入れるのは、ジャン家の主な家族だけ。姉上と義兄上が使っていた密道を知っているのは、好奇心旺盛な私くらいなものだわ」


 少女のような表情で、いたずらっぽく笑う。

 茶樹王の根元に、土の香りがまだ新しい場所がある。

 十五年前、娘が生まれた記念に醸造した女児紅じょじこうを掘り起こした跡だ。


 茶樹王に止まったヒヨドリが、歌うように鳴いている。

 

女児紅じょじこうは――」


 姜善宝ジャン・シャンバオが、呟いた。


「女児が生まれた日にかめを埋め、嫁ぐ日に開ける酒だわ。この機会に、杯をともにしたいと言っていたけど……つまり、もうあの子に会わないつもりなの?」


 姜筠溪ジャン・ユンシは吐息をつき、空を仰いだ。

 広い空には、ヒヨドリが舞っている。

 ジャン府の中庭のどこかから、ウグイスの鳴き声が聞こえた。


「あの子には自由に羽ばたける空を、与えてあげたい」


 見つめ合い、微笑む姉妹。


「会いたい?」


 妹が訊く。


「会えるわよ、またきっと」


 姜筠溪ジャン・ユンシの頬に、また一筋の涙がこぼれた。 


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