第39話 与えられた自由
瓦屋根の倒座房、戸口がずらりと八つ並んだ広い軒下に、一匹の白い猫がいた。
芳寧に見つめられても、彼女の瞳孔の白さなど意にも介さぬ様子で、ごろごろと喉を鳴らしながら近づいてくる。
『……白い瞳の孫など。忌まわしい』
追想するたび、あの老夫人の言い捨てた言葉が耳から離れない。
『これで思い知っただろう。誰にも言うんじゃないよ』
あれは、夢だったのだろうか。
乗ったこともない荷車の揺れや、山道に響いたあの轟音。
異様なほどはっきりと記憶に刻みついている。
そもそも、あれは克己の声だった。
一度しか聞いていない馬夫の声を聞き当てたように、聴覚が頼りの芳寧は人の声を識別する力に長けている。
『筠溪、芳寧は大丈夫か?』
そう父は言った。
……筠溪というのは、いったい誰?
すり寄ってくる猫の背中を撫でる指が、ふと止まった。
闘技場で──。
梯子が足場から外れて倒れかけた瞬間、『芳寧!』と叫ぶ女性の声が聞こえた。
『芳寧! 逃げて! 芳寧!』
あの声は、荷車で聞いた女性の声と同じだった。
『もう無理よ、逃げられない。私をつれ戻すまで、姜家は諦めない気だわ』
筠溪という女性は、姜家の人間なのか──。
「どうした?」
背後から声がして、はっと我に返った。
眉をひそめた陸峰が、見下ろしている。
彼の背後にある空が、夕焼けに赤く染まっていた。
井戸で身を清めていたのだろう。
彼の濡れた髪から、ぽたりと滴が垂れた。
「……なんでもない」
「そうか?」
長身を折って、芳寧の顔をのぞき込む。
「そうは見えないが」
芳寧が、ぷいと顔をそむけた時、
「気分が冴えない時は、酒だ」
揚易棠が、酒壺を抱えて垂花門から入ってきた。
「今夜は晴れそうだ。茶樹に包まれ、花を愛でながら一献どうだ?」
いたずらっぽく笑う。
芳寧と陸峰は、顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
小道の両側に、みずみずしい茶葉が揺れている。
三人は、姜家の茶畑にいた。
茶樹の茂みに隠すように敷いた夜気に湿った茣蓙の上には、揚易棠が「厨房から失敬してきた」という酒壺が五つと大きな提籠がひとつ置いてある。
桜桃の蜜漬け。
甘辛いたれをかけた串焼餅。
鶏肉の包子。
青菜と茸の炒め物。
そのほとんどが、もう残り少ない。
石燈籠の灯りが、ぼんやりと幻想的な光を投げかけている。
茶葉の香りが、ふわりと漂っていた。
揚易棠が、茶樹の下に植えてある花を指さす。
「金銀花に杜鵑花。その花は何だ?」
「万寿菊」
ほお、と揚易棠が芳寧を見る。
「茶だけでなく、花にも詳しいとは」
芳寧が、えへんと胸を張る。
「きみは、私の香り袋まで言い当てた。犬並みに鼻が効く」
陸峰が、ぷっと噴き出した。
三人は、白い歯を見せて笑いあう。
芳寧が、小高い丘を指さした。
「あそこよ。川合の茶商の公子が、血だらけで倒れてたのは」
その指を、今度は揚易棠に向ける。
「あなたが殴ったの?」
芳寧の頬は、すっかり赤い。
目までとろんとしている。
一瞬の沈黙──。
そして、揚易棠が豪快に笑った。
「おいおい、何でも私のせいにするな」
「違うの?」
「証拠は?」
「……ない」
芳寧の言葉にうなずき、杯を傾ける。
「集まった候補者たちは、敵同士だ。邪魔者を蹴落とそうと躍起にもなる」
芳寧も、うんうんと頷く。
酒がまわっているようだ。理解しているのかわからない。
「そういえば、お前に訊こうと思っていた」
揚易棠が、陸峰の肩を叩く。
「あの馬夫たちに『余計な手は使うな』と言ったのは、依頼したのが私だと察したからか?」
揚易棠の命令で、乃柯里村の北門まで芳寧を探しに行った時、彼女をさらった馬夫たちに陸峰は確かにそう言った。
ああ、そうだと陸峰は頷く。
「かなり前から怪しいと気づいていたはず。なぜ黙っていた?」
「さっき、きみが彼女に聞いただろう」
「何の話だ」
「きみがやった『証拠は?』 何もない」
揚易棠が、ふっと笑った。
「その方がいい」
「何が?」
「再会したお前は、私を『揚公子』と呼んでばかりいた」
何も言わず、杯を空けた陸峰に、揚易棠が酒瓶を傾ける。
二人で乾杯し、一気に飲み干した。
芳寧は、膝を抱えて瞳を閉じている。
眠っているかのように呼吸が穏やかだ。
長いまつげが、頬に落ちている。
その寝顔を見つめながら、揚易棠が言った。
「芳寧には、悪いことをした」
「確かにそうだな」
陸峰が、ふっと笑って相槌を打つ。
「想い人はいるかと、彼女に聞いたことがある」
陸峰が、揚易棠を見つめる。
「怖い顔をするな。口説いたわけではない」
芳寧が、小さなくしゃみをした。
揚易棠が、陸峰に『脱げ』と合図する。
ため息をついて脱いだ外套を、陸峰が芳寧の肩にかけた。
「私には、いた」
串焼餅の串をもてあそびながら、揚易棠が呟いた。
「十三の年に私の侍女になった娘だ。十五で、想いを打ち明けた」
三年の間、密かに淡い恋を育んでいた二人だったが──。
「姜家が婿を選抜すると言ってきた。跡継ぎでない庶子の私に白羽の矢が立つのは、当然の成り行きだろう。天地がひっくり返ろうと無理だと断ったが、何者かが私と彼女の仲を密告した。そして、彼女は──」
揚易棠が、 “チッ” と舌打ちした。
「佐山の公子に嫁がされた」
茶樹が、風に鳴った。
石燈籠の灯りが、怪し気に茶葉に揺れる。
「逃げようと説得したが、彼女は拒み、最後には輿入りを受け入れた。……私との縁はここまでだ、と」
遠くで夜回りの太鼓が鳴った。
陸峰が、揚易棠に酒壺を差し出す。
なみなみと酒が注がれた杯に、月が映った。
「それなのにだ。新婚の身でありながら、あの男は選別会に意欲的だった。新妻を大切にすべきだと忠告した私に『しょせん妾だ。三晩も抱いてやったのだから、夫の務めは十分に果たした』などとほざいた」
「……だから、殺したと?」
「お前に言ったはずだ。『先に襲われた』と」
「川崎の陸公子を斬った理由は?」
「茶馬道の掟を破ったからだ」
揚易棠は、即座に答えた。
茶馬道の掟──。
茶を汚すな。
馬を虐げるな。
道を乱すな。
取引きを偽るな。
「哀れな男だ。『賊に頬を切られた』などと、家族にもごまかされる始末」
言いながら、首を横に振る。
「かくいう私とて、人をあざ笑う立場ではない。揚家に捨てられ、想い人にも捨てられるような男だからな」
「捨てられたんじゃないわ」
瞳を閉じたまま、甘ったるい口調で芳寧が言った。
「彼女は、あなたに自由を与えたのよ。──私の母のように」
「きみの母?」
芳寧は微笑む。
「姜家に婿入りできるのは、選別会を通った者だけ。その結果は、あなた次第だわ。彼女は……思い込んでいたのよ」
言いながら、くすんと鼻を鳴らした。
「あなたとは一緒になれない運命だと」
夜回りを始める合図の太鼓が、遠くで聞こえた。
「愛する人に自由を与えようと犠牲になった人たち──。その選択がどうあれ、私たちに彼女たちを責める権利はないわ」
陸峰が、芳寧の顔をのぞき込む。
相変わらず、瞳を閉じたままだ。
「きみの母さんも犠牲になったのか?」
陸峰が訊くと、芳寧が微笑んだ。
「ありがとう、揚公子。あなたのおかげで、母さんに会えた……気がする」
「……いったい何の話だ?」
わからない、と陸峰が首を振る。
芳寧は、寝息をたてていた。
膝を抱え、赤らんだ頬をふくらませ、幸せそうに眼を閉じている。
「今日の武技で……また誰かを狙おうとしたのか?」
陸峰が訊いた。
「いや」
揚易棠が即答する。
「私は『いい人らしい』。その言葉に救われた」
夜回りの太鼓が近づいてくる。
茶畑に番人たちが入ってくる気配がした。
「そろそろお開きにしよう。楽しい酒だった」
揚易棠が立ち上がり、そのまま去ろうとする。
「おい、彼女は──」
「お前が介抱しろ。同室の仲間だろう?」
意味深な視線を投げ、片目をつぶってみせる。
丘を下りかけた揚易棠が、ふり向いた。
「鏢師の仕事は、大変か?」
「この世に、楽な仕事などないさ」
「それもそうだな」
くすりと笑う。
「必要になったら、お前に指南を頼みに来るよ」
じゃあなと手を振り、長身の後ろ姿は茶樹の向こうに見えなくなった。




