第38話 醜い刀傷
「しっかりしろ!」
揚易棠の声が聞こえる。
芳寧はうっすらと目を開けた。
焦げた髪の匂いが鼻を刺す。
すぐ近くで、崩れた梯子が炎を上げていた。
「さあ、立つんだ!」
腕を引かれ、芳寧はよろめきながら立ちあがる。
激しいめまいに、足がもつれた。
剣と剣がぶつかり合う金属音が響く。
芳寧がふり返ったその瞬間、陸峰が黒衣の男の剣を叩き落とした。
そのまま流れるように組み伏せる。
地面に顔を押し付けられ、男は苦しそうに呻いた。
「や……揚易棠!」
男が叫び、唾を吐いた。
陸峰が、もがく男の覆面を剥ぐ。
現れた素顔に、周囲の者が息を呑んだ。
まだ若い。二十代前半ほどだ。
もとは色白で、気品ある顔立ちだったようだが──。
左のこめかみから口角まで、ざっくりと刀傷が走っていた。
番人たちが、男に縄をかける。
観念したようにされるがままだが、その目だけは揚易棠を捉えて離さない。
身体検査をした番人が、男の懐から赤い背表紙の冊子をとりだした。
金糸で「福」と縫い取られている。
──姜家が送った婿選抜会の招待状だった。
孟管家が奪うように招待状をひったくり、観覧席から侍女たちを従えて歩いてくる姜善宝に、恭しく差し出した。
一瞥した姜善宝は、男を冷ややかに見降ろす。
「お前が、なぜこれを持っている」
男は答えない。
眼光鋭く、揚易棠を睨みつけているだけだ。
招待状を開いた孟管家が、おやと驚いた表情になった。
「これは、川崎の陸家への招待状です」
そう言って、孟管家は眉をひそめる。
「……陸家といえば、つい先日、巍山に向けて発った三公子が、賊に頬を刃物で切られたため、今回の選別会は辞退したいとの連絡がありましたが──」
孟管家が、黒衣の男を怪訝そうに見る。
「すると……こやつが、陸家の三公子?」
ふん、と黒衣の男が鼻を鳴らした。
尖った顎先で揚易棠を指す。
「この醜い刀傷は、そいつにやられた。虎街の茶商の二公子が、激高してこの私を斬ったのだ!」
全員の視線が、揚易棠に注がれる。
亜麻色の戦闘服に身を包んだその人は、無言で立っていた。
黒衣の男は砂交じりの唾を吐き、さらにがなり立てる。
「復讐しようと乃柯里村の宿で斬りつけてやったが、運悪くかわされた。人をこんな顔にしておきながら、自分はのうのうと選別会に参加する卑怯者だ!」
群衆がいなくなった闘技場に、男の声が反響した。
荒い息だけが、場内に空しく残る。
しばらくの沈黙の後──。
「つれて行きなさい」
姜善宝の声には、侮蔑の色があった。
「独房でいい。食事は与えないように」
その言葉を聞いた男は、冷水を浴びたかのように飛びあがった。
「独房?! この私を牢に入れるのか?!」
姜家の女当家は、有無を言わせぬ眼力で男をねめつける。
「お前の個人的な恨みごときで、百年以上も続くわが一族の選別会を乱すとは、とても正気の沙汰ではない」
「な……」
「姜家の秩序を乱す者は容赦しない。罰を与え、この茶業界から追放するので覚悟するがいい」
唖然とする黒衣の男を、番人たちが乱暴に引っ立てる。
狂ったように暴言を吐いていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
姜善宝が優雅に身を翻し、三人の公子を順に見やった。
「武技の試験は延期とします。連絡があるまで、割り当てられた部屋で休息をとるとよいでしょう。相応の処遇は考えるので心配いりません」
涼しくそう言い置いて、立ち去ろうとする。
「待ってくれ!」
揚易棠が叫び、前に進み出た。
陸峰が、音もなく芳寧に近づき、彼女の肩をそっと支える。
「あの男は、私に斬られたと言った。追及しないつもりか?」
姜家の女当家に問うには、あまりに不躾な口調だ。
咎めるように、孟管家が咳払いする。
だが、美しいその人は口角をわずかにあげただけだった。
「雑魚の争いに、姜家が介入する必要が?」
「……なんだって?」
揚易棠の声が低く震えた。
「勝手に斬り合うがいい。──ただし、姜家を巻き込まぬ範囲で」
唖然とする揚易棠の前を、彼女は歩き去った。




