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白い霧の向こう ― 茶馬道を北上する血の臭いが行きつく先は、白い瞳の少女が過去を失った場所だった ―  作者: 鬼丸 千


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第36話 襲いかかる剣

 婿選抜会の三日目は、武技を試される。

 ジャン家に婿入りした後、茶隊を率いることになった場合、みずから茶を守れるかどうか審査する目的だ。剣すら持てず、敵もかわせず、護衛に守られるようでは、婿として認められないというのだろう。


 参加する公子の数は、五名となった。


 前夜の宴で毒をもられた姑蘇のリウ公子は、一夜明けても、唇のしびれと灼けるような喉の痛みを訴えていた。

 吐血と胸の圧迫感で、床から起き上がることすらできないという。


 彼の杯には、甘刃かんじんが塗られていた。

 リウ公子の隣に座していたのは、揚易棠ヤン・イタンだ。

 彼が毒を盛ったのか──芳寧ファンニンにはわからない。わかりたくもなかった。

 

 武技を試す会場は、巍山ウェイシャンの郊外にある闘技場だった。

 人間同士の戦いから猛獣との死闘まで、血の匂いが染みついた、怖れを知らぬ人々の娯楽場──いや、命がけの戦場だ。


 ジャン家の武技の試練が始まると聞きつけた巍山ウェイシャンの庶民たちが、ぞろぞろと集まっていた。

 剣を佩いた番人たちに制されながら、遠巻きに見ている。

 

 芳寧ファンニンは、入り口にほど近い場所にいた。

 その後ろには、腕組みをした陸峰ルフォンが控えている。


 克己クジは、朝から姿を見ていない。

 場内のどこかにいるのだろう。


 闘技場の中央には、巨大な足場がそびえていた。

 何十段もの梯子が、はるか頭上の踊り場へ通じている。

 

 向かい合うように、同じ足場がもうひとつあった。

 二つの足場は、細い吊り橋でつながっている。

 吊り橋の上には、朱と緑の布で作られた飾り玉がぶらさがっていた。


 緊張した面持ちの五人の公子たちがいた。

 戦闘服に身を包み、整列している。


 彼らの正面には観覧席があり、姜善宝ジャン・シャンバオジャン家の女たちが座していた。彼女たちの夫らしき人物は、今日も姿を見せていない。


 ジャン家の婿というものは、表舞台には出てこないものらしい。

 上岡のジン公子は「たかが種馬探しの選抜会」と罵っていた。


 冷遇される運命を承知していながら、五人の公子たちは、誰一人としてこの異様な選抜会を辞退しようとしない。

 

 なぜ、ここまで権力にこだわる?


「辞退して、どこに行けと? ヤン家に戻れると思うか?」


 揚易棠ヤン・イタンの声が、耳に残っている。

 ほかの公子たちも同じ境遇なのだろう。

 嫡子でも長男でもない彼らに、確たる未来はないのかもしれない。


「最初から『従う覚悟のある者』だけを選ぶのだろう」


 そう陸峰ルフォンは言っていた。

 だが、芳寧ファンニンには理解できない。

 この婿選抜会で、いったい誰が幸せになるというのだろう。


 モン管家が、公子たちの前に進み出た。


「みなさん、最終試練です。ジャン家に入る者には、勇気が必要。どのような手段を使っても構いません。あの飾り玉を、最初に手に入れた者を武芸の勝者とします」


 ──どのような手段を使ってでも。

 全員が、吊り橋の上で揺れる飾り玉を凝視する。


 揚易棠ヤン・イタンが、芳寧ファンニンをふり向いた。

 視線に気づき、芳寧ファンニンも見つめ返す。

 揚易棠ヤン・イタンが――微笑んだような気がした。


「落ちた者、倒れた者は失格です。みなさん、ご健闘を祈ります」


 けたたましい音を立てて、銅鑼が鳴った。


「開始!」


 使用人が、太鼓を打ち鳴らす。

 それを合図に、五人の公子たちが一斉に駆けだした。

 我先にと梯子へ殺到し、互いに押しのけ合う。


 群衆が歓声を上げる。

 一見すれば祭りの様相だが、そこに和やかな空気はない。

 

 最終試練の目標は簡潔そのもの。

『どのような手段を使ってでも、誰より先に飾り玉を手に入れる』


 ──たとえ、人の命が危機にさらされようと。


(なんて愚かな選抜会なの)

 

 芳寧ファンニンは、唇を噛みしめた。


 群衆が、ああっと叫んだ。

 混乱のなか、一人の公子が梯子から落下したのだ。

 

 支柱に全身を打ちつけ、公子は肩から地面に落ちた。

 激痛に顔をゆがめ、身体を折り曲げてうずくまる。

 すぐさま、担架を抱えた使用人が駆け寄った。


 群衆の視線は、再び梯子の上の激闘へと戻る。

 

 四人の公子たちは、吊り橋を揺らしながら走った。

 高所の風が吹きつけ、細い板が足の下で大きくしなる。

 体勢を崩せば、簡単に落下してしまうほどの揺れだ。


 相手を殴り、突き飛ばす公子たち。

 そのたび、群衆からは悲鳴とも嬌声ともつかない叫びがあがる。


 乃柯里ノカリ村で、揚易棠ヤン・イタンは背中に刀傷を負っている。

 無事に切り抜けられるのだろうか。

 それとも彼には、よからぬ策があるのだろうか。

 芳寧ファンニンは祈った。


(どうか何事も起こらないで……)


 揚易棠ヤン・イタンが、宝玉の飾り玉に手を伸ばした。

 負けじと、ほかの二人も飾り玉の房をつかむ。


 三本の手が、渾身の力を込めて引っ張り合った。

 鋭い破裂音がして、飾り玉がばらばらになる。

 朱と緑の布片が花火のように宙を舞った。


「飾り玉が壊れたぞ!」

「勝者は、誰なんだ?」


 群衆がどよめいた。


 姜善宝ジャン・シャンバオが、侍女にそっと耳打ちする。

 侍女はすぐにモン管家のもとへ歩み寄り、短く要件を告げた。

 うなずいたモン管家が、中央へ進み出て声を張る。


「飾り玉が壊れたため、この対決は引き分けとします!」


 場内から、どっと落胆のどよめきが広がった。


「新たな飾り玉を用意するまで、しばし休憩!」 


 不満そうな群衆のざわめきの中、四人の公子たちが梯子を下りてくる。

 どこからともなく拍手が起こった。

 健闘を称える声が注がれる。


 ──その時。


 芳寧ファンニンの横を、黒衣の男が走り抜けた。

 覆面をしている。

 芳寧ファンニンの耳に荒々しい息遣いが聞こえた。

 鳥肌が立つほどの殺気を感じた。

 

 駆け抜けながら、男が腕をあげた。

 そこにきらりと光るのは、一本の長剣。


 群衆の中から叫び声が起こった。

 ふり向いた揚易棠ヤン・イタンの肩に、剣先が振り下ろされる。


「く……っ!」


 揚易棠ヤン・イタンの身体が引き裂かれる寸前、陸峰ルフォンが素手で剣の軌道を逸らした。


「逃げろ!」


 陸峰ルフォンが、揚易棠ヤン・イタンを突き飛ばす。

 覆面をした黒衣の男は、それでも執拗に揚易棠ヤン・イタンをねらう。

 

 陸峰ルフォンが、手近にいた番人の剣を奪った。

 覆面の男の一太刀を危うくかわす。


 闘技場は、騒然となった。

 出口に殺到する群衆にもみくちゃにされ、視界の効かない芳寧ファンニンは広場の中央に押し出されてしまう。


 剣を手にした陸峰ルフォンの腕は、明らかに一枚上手だった。

 形勢不利と判断した黒衣の男が、懐から包みを取り出す。


 火をつけた。

 火花と同時に、辺り一面が白煙に包まれる。


 そして、激しい爆発音。

 足場の梯子が、大きくぐらりと傾いた。


「危ない!」


 芳寧ファンニンがふり向く。

 巨大な梯子が炎を受け、足場から外れて倒れかけている。


芳寧ファンニン!」


 女性の叫び声がした。


芳寧ファンニン! 逃げて! 芳寧ファンニン!」


 その声を耳にした瞬間、胸の奥が締めつけられた。

 立ちすくんだ芳寧ファンニンの視界に、ある光景が浮かび上がった。



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