表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い霧の向こう ― 茶馬道を北上する血の臭いが行きつく先は、白い瞳の少女が過去を失った場所だった ―  作者: 鬼丸 千


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/45

第35話 揚易棠の事情

 吐血した公子の息は、今にも消えそうなほど弱い。

 近づこうとした芳寧ファンニンを、陸峰ルフォンが制した。


「毒の種類がわからない。来るな」


 回廊から慌ただしい足音がし、男たちが入ってきた。


 一人は、灰白色の長衣をまとっている。

 片手に細長い鍼箱を提げていた。医者らしい。

 駆け寄り、公子の脈を診るその表情が険しくなった。

 

「ここで応急処置をする。湯をわかしてくれ!」


 医者は袖をまくり、周囲に指示を飛ばす。

 広間に転がり込むようにモン管家が現れた。

 どす黒い血でまみれた床に目を見張り、立ちすくんでいる。


 敷布やたらいが、次々に運び込まれる。

 青白い顔の公子が床に寝かされ、解毒の処置が始まった。


 公子の口をこじ開け、医者が白湯を少しずつ流し込む。

 やがて、公子が激しく嘔吐した。

 激しい臭気が広間にあふれ、空気が凍りつく。

 誰も動けない。


 その時──。


 芳寧ファンニンの耳に聞こえた。

  “チッ” という舌打ちの音。

 顔を上げた芳寧ファンニンの視線が、揚易棠ヤン・イタンと合った。


 これまでに見たこともない表情だった。

 嫌悪と憎悪と侮蔑が、彼の顔にはっきりと浮かんでいる。

 ほんのわずか見つめ合い、揚易棠ヤン・イタンが視線をそらした。

 

 モン管家が両手を振りまわしながら、大声で叫ぶ。


「みなさん、お部屋にお戻りください。さあ早く!」


 急かされる公子たちに続いて、揚易棠ヤン・イタンも広間を出ていく。

 芳寧ファンニンが駆け寄り、その背中に声をかけた。


ヤン公子、お話があります。お時間をいただけますか?」


 揚易棠ヤン・イタンが、静かに振り返った。

 彼女を見下ろす彼の口元が歪んでいるように見えた。


「話?」

「はい。二人で」


 探るような視線を交わし合う。 


「……わかった」


 頷いた揚易棠ヤン・イタンは、芳寧ファンニンに回廊を指し示す。

 広間から出て行く二人を、陸峰ルフォンだけが目で追っていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 揚易棠ヤン・イタンが泊まっている部屋は、西廂房にある。


 その裏手へ回ると、小さな東屋が月明かりに浮かんでいた。

 揚易棠ヤン・イタンの後に、芳寧ファンニンも続く。


 長椅子に腰を下ろした彼の前に、芳寧ファンニンは立った。

 隣に座るよう勧められたが、首を振って断った。


「話とは?」


 揚易棠ヤン・イタンが、訊く。

 芳寧ファンニンは耳をそばだて、周囲を見回した。

 ──人の気配は、ない。


ヤン公子、もうやめてください」

「なにを?」

「わかっておられるはずです。もうやめてください」


 揚易棠ヤン・イタンが、首をかしげた。


「やめるべき悪癖なら山ほどある。いったい、どれだろう。深酔いに夜更かし、金遣いも荒い。妓楼通いも少々──」


「もう誰も殺さないで」


 芳寧ファンニンが、押し殺すような声で言った。

 沈黙が二人を包む。


 正房からは、ひっきりなしに足音と叫び声が聞こえていた。

 月の白い光が、西廂房の壁に反射している。

 小さな羽虫が飛んでいた──。


 芳寧ファンニン揚易棠ヤン・イタンは、互いを射抜くように見つめていた。

 揚易棠ヤン・イタンが、ゆっくり長椅子から立ち上がる。

 芳寧ファンニンの胸がどきりと鳴った。

 ひるんではいけない。

 何としても、やめさせなければ……。


 揚易棠ヤン・イタンの唇が開いた。


「なんの根拠があって、そのような無礼を口にする」


 その声は氷のように冷たい。


「きみは私の使用人ではないが、身分をわきまえるべきだ。根拠もない誹謗中傷は、女であろうと衛門で厳しく裁かれる」


「根拠なら、あります」


 芳寧ファンニンは、懐に手を入れた。

 取り出したのは、飾り房と小さな紙包みだった。


 飾り房が目に留まり、揚易棠ヤン・イタンの表情が変わる。


「それは……」

「花祭りの夜に拾いました。遺体のそばに落ちていた物です」


 そう言って、飾り房を差し出す。


「これは、今着けておられる香り袋の飾り房ですね?」


 揚易棠ヤン・イタンは、自分の腰を見下ろした。

 そこに下がっているのは、芳寧ファンニン百花バイファ茶館に送る道すがら、彼が『旅に出る前に、母が手縫いしてくれた乾香袋だ』と自慢げに語っていた家紋入りの香り袋ではなかった。


 それよりひとまわり小さく、紫のしゃで仕立てられている。

 月明かりに淡く光るのは、愛らしい菊花の刺繍だ。

 紫の飾り房が、四本垂れていた。


 ──芳寧ファンニンが差し出す飾り房と同じものが。

 

「その香り袋は、花祭りの夜に何らかの理由で破れてしまい、中に入っていた白檀が遺体の……佐山の公子の髪についたのでしょう。私の腕にもついていました」


 芳寧ファンニンが、小さな紙包みを差し出す。


茶発チャファ馬店の小川のそばで、ヤン公子とお話した後に拾った白檀です。香りで気が付きました。あの花祭りの夜……あの遺体の側に、ヤン公子、あなたもいたのだと」


 揚易棠ヤン・イタンが、ふっと笑った。


「なぜ、そう言い切れる」

「舌打ちです」


 芳寧ファンニンが、 “チッ” と舌を鳴らした。


「あの花祭りの夜も、今日の広間で聞いたのと同じ舌打ちを聞きました」

「……」

「父との話の食い違いで気づいたことがあります。馬夫たちに私を探らせたのも、拉致させたのも、あなただったんですね?」


 信じたくないけれど、もはや確信があった。

 彼には怖ろしい計画がある。

 それなのに、この端正な若者は、なぜ笑っていられるのだろう。


「私を脅すとは、たいしたものだ」

「脅してなんかいません。お願いしているんです」


 何が目的かは、わからない。

 でも、揚易棠ヤン・イタンを止めなければ。


「牛の血を納屋に仕掛けたのも、宴で毒を盛ったのも……公子なんですか?」

「わかっているだろうが──」


 揚易棠ヤン・イタンが、毅然と言い放つ。


「白檀にしろ馬夫にしろ、すべてはきみの憶測だ。私が仕掛ける現場を見ているわけでもない。言いがかりはよせ」


「確かに、私は何も見ていません」


 芳寧ファンニンは、もう懇願するしかなかった。


「だから、お願いしているんです!」


 握りしめていた飾り房と紙包みを、揚易棠ヤン・イタンの手に握らせる。


「お願いですから、もう人を傷つけないで!」


 今夜の月は、恨めしくなるほどに眩しかった。

 見たくもない表情が、手に取るようにわかってしまう。

 それでも訴えるしかない。なぜなら──


「あなたは、いい人です」


 急に目頭が熱くなってきた。

 こんなことを続けても、公子自身が傷つくだけだ。

 

「お願いですから、自分をもう苦しめないで」


 いつの間にか、正房の騒ぎは収まっていた。

 怖ろしいほどの静けさの中、夜風だけがわずかに揺れている。

 揚易棠ヤン・イタンの表情は、切ないほどに歪んでいた。


「私なりの裁きを下しているだけだ」


 ぽつりと言った。


「公子と呼ばれる者にも階級がある。嫡子か庶子か、大公子か二公子か。跡を継げる者か、駒になる者か。……私は、すべてにおいて後者だ」


 飾り房と紙包みを見つめる横顔は、あまりに寂しすぎた。

 それでも、許されないことがある。

 なんとか思い直してほしい。 

 これ以上、苦しまないでほしい。だから── 


「選抜会は、辞退した方がいいと思います」

 

 揚易棠ヤン・イタンの視線が、芳寧ファンニンを捉える。


「余計な口出しだとは、わかってます。だけど──」

「どこに行けと?」

「え?」

「辞退して、どこに行けと? ヤン家に戻れると思うか?」

「それは……」

 

 やれやれというように首を振り、揚易棠ヤン・イタンはくるりと背を向けた。

 芳寧ファンニンを、夜の闇に置き去りにしていく。

 これ以上、どんな言葉をかければいいというのだろう。

 もう、芳寧ファンニンには何も思い浮かばなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ