第35話 揚易棠の事情
吐血した公子の息は、今にも消えそうなほど弱い。
近づこうとした芳寧を、陸峰が制した。
「毒の種類がわからない。来るな」
回廊から慌ただしい足音がし、男たちが入ってきた。
一人は、灰白色の長衣をまとっている。
片手に細長い鍼箱を提げていた。医者らしい。
駆け寄り、公子の脈を診るその表情が険しくなった。
「ここで応急処置をする。湯をわかしてくれ!」
医者は袖をまくり、周囲に指示を飛ばす。
広間に転がり込むように孟管家が現れた。
どす黒い血でまみれた床に目を見張り、立ちすくんでいる。
敷布やたらいが、次々に運び込まれる。
青白い顔の公子が床に寝かされ、解毒の処置が始まった。
公子の口をこじ開け、医者が白湯を少しずつ流し込む。
やがて、公子が激しく嘔吐した。
激しい臭気が広間にあふれ、空気が凍りつく。
誰も動けない。
その時──。
芳寧の耳に聞こえた。
“チッ” という舌打ちの音。
顔を上げた芳寧の視線が、揚易棠と合った。
これまでに見たこともない表情だった。
嫌悪と憎悪と侮蔑が、彼の顔にはっきりと浮かんでいる。
ほんのわずか見つめ合い、揚易棠が視線をそらした。
孟管家が両手を振りまわしながら、大声で叫ぶ。
「みなさん、お部屋にお戻りください。さあ早く!」
急かされる公子たちに続いて、揚易棠も広間を出ていく。
芳寧が駆け寄り、その背中に声をかけた。
「揚公子、お話があります。お時間をいただけますか?」
揚易棠が、静かに振り返った。
彼女を見下ろす彼の口元が歪んでいるように見えた。
「話?」
「はい。二人で」
探るような視線を交わし合う。
「……わかった」
頷いた揚易棠は、芳寧に回廊を指し示す。
広間から出て行く二人を、陸峰だけが目で追っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
揚易棠が泊まっている部屋は、西廂房にある。
その裏手へ回ると、小さな東屋が月明かりに浮かんでいた。
揚易棠の後に、芳寧も続く。
長椅子に腰を下ろした彼の前に、芳寧は立った。
隣に座るよう勧められたが、首を振って断った。
「話とは?」
揚易棠が、訊く。
芳寧は耳をそばだて、周囲を見回した。
──人の気配は、ない。
「揚公子、もうやめてください」
「なにを?」
「わかっておられるはずです。もうやめてください」
揚易棠が、首をかしげた。
「やめるべき悪癖なら山ほどある。いったい、どれだろう。深酔いに夜更かし、金遣いも荒い。妓楼通いも少々──」
「もう誰も殺さないで」
芳寧が、押し殺すような声で言った。
沈黙が二人を包む。
正房からは、ひっきりなしに足音と叫び声が聞こえていた。
月の白い光が、西廂房の壁に反射している。
小さな羽虫が飛んでいた──。
芳寧と揚易棠は、互いを射抜くように見つめていた。
揚易棠が、ゆっくり長椅子から立ち上がる。
芳寧の胸がどきりと鳴った。
ひるんではいけない。
何としても、やめさせなければ……。
揚易棠の唇が開いた。
「なんの根拠があって、そのような無礼を口にする」
その声は氷のように冷たい。
「きみは私の使用人ではないが、身分をわきまえるべきだ。根拠もない誹謗中傷は、女であろうと衛門で厳しく裁かれる」
「根拠なら、あります」
芳寧は、懐に手を入れた。
取り出したのは、飾り房と小さな紙包みだった。
飾り房が目に留まり、揚易棠の表情が変わる。
「それは……」
「花祭りの夜に拾いました。遺体のそばに落ちていた物です」
そう言って、飾り房を差し出す。
「これは、今着けておられる香り袋の飾り房ですね?」
揚易棠は、自分の腰を見下ろした。
そこに下がっているのは、芳寧を百花茶館に送る道すがら、彼が『旅に出る前に、母が手縫いしてくれた乾香袋だ』と自慢げに語っていた家紋入りの香り袋ではなかった。
それよりひとまわり小さく、紫の紗で仕立てられている。
月明かりに淡く光るのは、愛らしい菊花の刺繍だ。
紫の飾り房が、四本垂れていた。
──芳寧が差し出す飾り房と同じものが。
「その香り袋は、花祭りの夜に何らかの理由で破れてしまい、中に入っていた白檀が遺体の……佐山の公子の髪についたのでしょう。私の腕にもついていました」
芳寧が、小さな紙包みを差し出す。
「茶発馬店の小川のそばで、揚公子とお話した後に拾った白檀です。香りで気が付きました。あの花祭りの夜……あの遺体の側に、揚公子、あなたもいたのだと」
揚易棠が、ふっと笑った。
「なぜ、そう言い切れる」
「舌打ちです」
芳寧が、 “チッ” と舌を鳴らした。
「あの花祭りの夜も、今日の広間で聞いたのと同じ舌打ちを聞きました」
「……」
「父との話の食い違いで気づいたことがあります。馬夫たちに私を探らせたのも、拉致させたのも、あなただったんですね?」
信じたくないけれど、もはや確信があった。
彼には怖ろしい計画がある。
それなのに、この端正な若者は、なぜ笑っていられるのだろう。
「私を脅すとは、たいしたものだ」
「脅してなんかいません。お願いしているんです」
何が目的かは、わからない。
でも、揚易棠を止めなければ。
「牛の血を納屋に仕掛けたのも、宴で毒を盛ったのも……公子なんですか?」
「わかっているだろうが──」
揚易棠が、毅然と言い放つ。
「白檀にしろ馬夫にしろ、すべてはきみの憶測だ。私が仕掛ける現場を見ているわけでもない。言いがかりはよせ」
「確かに、私は何も見ていません」
芳寧は、もう懇願するしかなかった。
「だから、お願いしているんです!」
握りしめていた飾り房と紙包みを、揚易棠の手に握らせる。
「お願いですから、もう人を傷つけないで!」
今夜の月は、恨めしくなるほどに眩しかった。
見たくもない表情が、手に取るようにわかってしまう。
それでも訴えるしかない。なぜなら──
「あなたは、いい人です」
急に目頭が熱くなってきた。
こんなことを続けても、公子自身が傷つくだけだ。
「お願いですから、自分をもう苦しめないで」
いつの間にか、正房の騒ぎは収まっていた。
怖ろしいほどの静けさの中、夜風だけがわずかに揺れている。
揚易棠の表情は、切ないほどに歪んでいた。
「私なりの裁きを下しているだけだ」
ぽつりと言った。
「公子と呼ばれる者にも階級がある。嫡子か庶子か、大公子か二公子か。跡を継げる者か、駒になる者か。……私は、すべてにおいて後者だ」
飾り房と紙包みを見つめる横顔は、あまりに寂しすぎた。
それでも、許されないことがある。
なんとか思い直してほしい。
これ以上、苦しまないでほしい。だから──
「選抜会は、辞退した方がいいと思います」
揚易棠の視線が、芳寧を捉える。
「余計な口出しだとは、わかってます。だけど──」
「どこに行けと?」
「え?」
「辞退して、どこに行けと? 揚家に戻れると思うか?」
「それは……」
やれやれというように首を振り、揚易棠はくるりと背を向けた。
芳寧を、夜の闇に置き去りにしていく。
これ以上、どんな言葉をかければいいというのだろう。
もう、芳寧には何も思い浮かばなかった。




