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白い霧の向こう ― 茶馬道を北上する血の臭いが行きつく先は、白い瞳の少女が過去を失った場所だった ―  作者: 鬼丸 千


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第34話 毒の宴

 正房の外の提灯に火が入った。

 楽師の奏でる琴の音が、暮れていく空気に染みていく。

 宴の始まりである。


 七人の舞姫が、床を滑るように中央へ進み出た。

 上座には、まだ誰も座っていない。

 ぽつんと置かれた膳だけが、どこか不気味である。


 モン管家は「気楽に」と言っていた。

 明日の武技試験に向けた親睦会ということだろう。

 

 広間には、東西に四席ずつ席が設けられている。

 八人の公子の前には、豪華な膳がずらりと並んでいた。


 舞姫たちが艶やかに舞い始める。


 朱色の薄衣が、ひらひらと揺れた。

 彼女たちの両袖は、床に届くほど長い。

 しなやかな腕を振り上げるたび、袖は羽衣のように宙を飛ぶ。


 腰をきつく絞った珠帯の先には、金色の鈴が結わえてあった。

 彼女たちの腰が揺れるたび、チリンと鳴る。

 身体がくねれば、甘い香りがふわりと漂った。


 陸峰ルフォン芳寧ファンニンは、広間の端に控えていた。

 二人の身なりは、正院を司るチェン掌事により整えられていた。

 布の手触りも、香の匂いも、下人の衣とはまるで違う。


 宴に参加せよとは命じられたが、二人の膳はない。

 宴の様子を「眺めていろ」という指示だった。


 おいしそうな香りが漂ってくる。

 芳寧ファンニンのお腹が、小さく鳴った。


「これって罰なのかしら」 


倒座房とうざぼうで自省するよりは、まだましだ」


 しかし、退屈なのは確かだった。

 何もせず、ただ立っているだけ──その時間が妙に長い。


 舞姫たちは、新しい演舞を始めていた。

 贅を尽くした料理が、次々と運び込まれてくる。


 婿選抜会が始まって以来、不満げだった公子たちの声が弾み始めた。

 杯が進むにつれ、言葉も軽くなる。


「さすがはジャン家だ。気前がいい」

「料理も絶品。侍女はべっぴんだ」

「この竹葉青酒ちくようせいしゅは、実に香りが甘い。いい味わいだ」


 やがて、侍女たちの態度が変わった。

 しなだれかかる者。

 食事を口に運ぶ者。

 耳元でささやく者。

 膝に腰を下ろそうとする者までいる。


 公子たちの中には拒むことなく、応じる者もいた。

 

(この宴、いったい何なの?)


 目のやり場に困る。

 陸峰ルフォンと視線を合わせないようにして、揚易棠ヤン・イタンの気配を探った。


 彼の周りだけ空気が冷たい。

 怒りを押し殺しているような、重い静けさが漂っている。


 他の公子や侍女たちは楽しげなのに、彼の侍女だけがぎこちない。

 仕える相手の不機嫌さに戸惑っているのが、見えなくてもわかった。


 どぉんと、太鼓が鳴った。

 楽師たちの演奏がはたと止み、広間がしんと静まり返る。


 そこへ、モン管家と使用人たちが入ってきた。

 手に包みを二つ持っている。


「お疲れさまでした」


 にこやかな表情で、二人の公子に手渡した。


「日置のジャン公子、上岡のジン公子には、ここでご退場いただきます。気持ちばかりの贈答品ですが、お納めください」


 名を呼ばれた二人の公子は、顔を赤くしていきり立った。


「なぜだ?!」

「理由もなく、追い返すのか?!」


 そこに、軽やかな足音とともに数人の人影が入ってきた。


 女当家の姜善宝ジャン・シャンバオを筆頭に、同じ年頃──三十路と思しき──の美しい淑女が二人、しとやかに姿を現した。


「理由ならあるわ」


 芳寧ファンニン陸峰ルフォンの真横に立ち、凛と言う。


「少々の酒と色気に飲まれるようでは、ジャン家に入る資格はない。自制心のないような男は、最終候補にふさわしくないのよ」


 ふん、と公子の一人が鼻で笑った。


「たかが種馬探しの選抜会だ。こっちから願い下げだよ!」


 足音も粗く、広間を出て行く。

 モン管家から受け取った包みは、しっかり抱えて──。


 冷たい笑みを口端に浮かべ、姜善宝ジャン・シャンバオは上座へと進んでいく。

 背丈も身なりも似ている二人の淑女も、後に続いた。

 姜善宝ジャン・シャンバオの姉妹なのかもしれない。

 

「ご苦労さま。下がりなさい」


 姜善宝ジャン・シャンバオのひと言で、楽師たちや舞姫たちが申し合わせたように広間から出て行った。先ほどまで無礼講のふるまいだった侍女たちまでも、低く頭を下げて座を引いていく。


 上座に立った姜善宝ジャン・シャンバオは、無表情で残る面々を見回した。


「最終候補は六名。あなた方には、明日の武技に備えていただきます。今夜の宴はここまで。最後に祝杯をあげ、あなた方の健闘を祈りましょう」


 その言葉と同時に、使用人が入ってきた。

 黒々と光る陶器の酒壺を手にしている。

 

「……女児紅じょじこう?」

 

 公子の中の誰かが、酒壺に書かれた名を呼んだ。

 紹興酒の最高級品といわれる名酒だ。


 女児が生まれた日にかめを埋め、嫁ぐ日に開ける酒という。

 年代物ほど価値が高い。

 姜慧思ジャン・フイスが生まれた年に、埋めた酒なのだろうか。


 使用人たちが、公子たちの杯に注いでいく。

 姜善宝ジャン・シャンバオと二人の淑女も、杯を手にした。


「せっかくだわ。あなた達もご相伴にあやかりなさい」


 姜善宝ジャン・シャンバオが、芳寧ファンニン陸峰ルフォンに向かって言った。


「え……?」


 唖然としている二人の手に、杯が渡る。

 仏頂面の使用人が、そこになみなみと女児紅じょじこうを注いだ。


 琥珀色の酒が、灯りを受けて赤金色に揺れている。

 熟成香が、豊かに鼻を刺激する──。


「さあ、それでは」


 姜善宝ジャン・シャンバオが、杯を掲げた。


「最終候補に残ったあなた方の健闘を祈念して」


「乾杯!」

「乾杯!」

「乾杯!」


 舌にのせた瞬間、穀物の甘さが静かに広がった。

 甘さの奥に、ほんのりとした酸味がある。

 後から、香ばしい余韻が静かに残る。


 身体の内部が、じんわりと温まる酒だ。


「それでは、私たちはこれで失礼するわ。あなた方も食事を終えたら、明日の武技に備えて、部屋で休息をとるとよいでしょう」


 姜善宝ジャン・シャンバオに続き、二人の淑女も広間を去っていく。

 長身の女性と、芳寧ファンニンの視線があった。

 にこりと笑みを返され、慌てて会釈する。


 ジャン家の女性たちが広間からいなくなると、六人の公子たちは一斉にくつろぎ始めた。


「甘い誘いが罠だとは、最初から気づいていたよ」

「引っかかるとは、愚かなことだ」


 落選した公子の悪口に花が咲く。

 ──すると。


「ぐ……っ!」


 浅葱色の長衣をまとった公子が、席から転がり落ちた。


「……く、苦しい」


 みるみるうちに顔色が変わっていく。

 使用人たちが、あたふたと慌てる。

 陸峰ルフォンが駆け寄り、抱き起こそうとするが、拒絶するかのように首を振り、陸峰ルフォンの手を払いのけた。


「誰か! 医者を呼んでくれ!」

「早くしろ!」


 使用人が二人、慌ただしく駆けていく。


 芳寧ファンニンは、空気の変化に気づいた。

 酒の甘い香りが、妙に重くなっている。

 風に乗らず、空気に沈むような甘さ──。


 公子の手が、震えはじめた。

 その口元から赤いものがこぼれ、次の瞬間、激しく吐血した。

 女児紅じょじこうの甘い香りに、鉄の匂いが混じる。

 そのまま目を閉じ──動かなくなった。


 芳寧ファンニンは、唇を噛みしめた。

 揚易棠ヤン・イタンをふり向く。

 その瞳には、何の気配もなかった。

 ただ、じっと毒の宴の被害者を見つめているだけ──。


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