第33話 暴れ牛
姜府の茶畑は、茶山を模しているという。
小高い丘があり、小川が流れ、斜面には若い茶樹が段々に並ぶ。
茶摘み用の小道と、茶葉を運ぶ荷道まである。
敷地内のどこかには、茶樹王もあるらしい。
そよ風が吹けば、周囲は濃い茶の香りで満たされる。
「見つかったら、どうする?」
芳寧の背後で、陸峰が訊いた。
「出歩くなと言われたはずだ」
「その時は、その時よ」
ふり返りもせず、芳寧が答える。
二人は姜家の茶畑にいた。
身の丈ほどもある茶樹が群生している中に、潜んでいる。
昨日、姜家の女当家から『選抜会が終わるまでは倒座房で自省するように』とお達しがあったのに、芳寧は婿選抜会の次なる課題──茶摘み──を見に行くと言って聞かなかった。
八人の公子が、目の前の段々畑で茶摘みをしている。
距離があるので表情はわからない。
揚易棠は、三段目にいる(と、陸峰が教えてくれた)。
その隣には、四人の公子が並んでいる。
彼らの後ろにいるのは、茶摘みを査定している姜府の茶師たちだろう。
少し離れたところに、東屋があった。
孟管家ら使用人たちの姿が見える。
今日は、女性たちの姿は見当たらない。
数人の番人たちが、小道と荷道の間を行ったり来たりしていた。
芳寧は、茶畑を見つめている。
茶畑の中にいる揚易棠を見つめている。
茶摘みが始まって三十分も経つが、彼女はじっと動かない。
「なぜ、ここに来た?」
陸峰が、訊いた。
「茶摘みを見るためよ」
「揚易棠を見るためか」
芳寧は答えない。
「……揚公子が、好きなのか?」
芳寧が、陸峰をふり返った。
二人の距離が、近い。
慌てて身を引いた芳寧の足が、ずるりと滑る。
体勢を崩した芳寧の手首を、陸峰がとっさにつかんだ。
ぐいと引き寄せられ、頬が彼の胸にぶつかる。
あの日、井戸端で倒れかけたときと同じように。
二人は動けなかった。
春の風が茶樹を揺らすのに、触れ合った部分だけが温かい。
時間が止まったようだった──。
「あぶない!」
叫び声が、二人の静けさを壊した。
はっとして顔を上げる。
茶畑に、牛がいた。
茶葉を摘んだ荷車を引いている。
茶樹の間を、狂ったように暴れまわっていた。
「逃げろ!」
「こっちに来るな!」
「誰か!」
もはや茶摘みどころではない。
公子も茶師も、茶畑の誰もが逃げまどっている。
「ここで待て」
陸峰が、茶樹の茂みから駆けだしていった。
一瞬遅れて、芳寧も後を追う。
激しい衝突音が聞こえた。
小道と荷道が交わる場所にあった納屋の壁に、暴れ牛の荷車が衝突したのだ。そのまま牛は斜面を下っていく。
逃げようとした公子の一人が追いつかれ、弾き飛ばされた。
茶樹の茂みに落ち、もんどりうって起き上がる。
哀れなその公子は声にならない喘ぎ声をあげていた。
立ち上がれぬまま、四つん這いで逃げようとする。
勢いあまって公子を走り過ぎた暴れ牛は、激しく土を踏みしめた。
方向を変え、再び襲いかかろうとする。
間に合わない!
横から陸峰が飛び出した。
公子の前に立ち、指先を唇に当てる。
その唇から響くのは、耳をつんざくような甲高い笛の音。
鋭いその音色に、暴れ牛の耳がぴくりと動いた。
陸峰の口笛が、高く低く抑揚をつけて空気を震わせる。
暴れ牛の鼻息が、足の勢いが、次第に弱まっていく。
牛が一瞬、前脚を踏みしめた。
その刹那を逃さず、陸峰はひらりとその背へ飛び移る。
暴れる首の付け根を押さえつけ、あやすように肩を叩いた──。
暴れていた牛の興奮が、嘘のように静まった。
陸峰が主であるかのように、おとなしくなる。
背に乗せたまま鼻を鳴らし、ゆったりと荷道を下りはじめた。
茶畑に、拍手が沸き起こった。
芳寧は、揚易棠の姿を探した。
──こちらを見ている。
拍手をするでもなく、駆け寄るわけでもない。
ただ、こちらを見ていた。
やがて背を向け、茶師たちとともに茶畑を下りて行った。
芳寧の胸に、また不穏な渦が湧きおこる。
おとなしくなった牛を番人に預けた陸峰が、芳寧の方へ歩いてきた。
西風が吹く。
芳寧の鼻に生臭い気配が触れた。
「……血の臭いだわ」
陸峰が、眉をしかめた。
「またか。この茶畑は呪われているんじゃないか?」
「人じゃないわ。野生の臭いがする」
「どこから?」
芳寧は、牛が激突した納屋を指さした。
顔を見合わせ、二人は納屋へと向かった。
暴れ牛が引いていた荷車に破壊され、無残に砕けた壁がある。
むき出しになった柱には、大きくひびが入っていた。
安全を確認しながら、中に入る。
散らばった干し草の中に、黒い布切れを見つけた。
指先に触れた瞬間、生臭い匂いが立ちのぼる。
「これは、牛の血だ」
陸峰が言った。
「仲間の血の臭いに、牛は強く反応する」
「そのせいで──」
「興奮し、暴走したのだろう」
背後から、数人の足音が慌ただしく近づいてきた。
孟管家と使用人たちである。
「きみ達は、揚二公子の──」
(まずい!)
孟管家が言い終わる前に、芳寧は頭を下げた。
「すみません、戻ります!」
陸峰の腕を引っ張り、駆けだす。
「走って! あなたが走ってくれないと──」
ふっと笑った陸峰が、芳寧の手を握った。
力強く、そして優しく。
二人は風のように走った。
風が頬を切る。
こんな速さで走ったことはない。
陸峰の手が離れないかぎり、どこまでも行ける気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
倒座房に戻ると昼食と──克己が待っていた。
「お前たち、どこにいた」
芳寧と陸峰は、握りあっていた手を慌てて離す。
克己の小さな目に睨まれながら、黙って昼食を食べた。
ほかの従者たちがいる手前、克己も何も言えない。
暴れ牛のこと。
納屋に仕掛けられていた牛の血のこと。
──揚易棠のこれまでの行動のこと。
そろそろ打ち明けて、相談に乗ってもらうべきかもしれない。
芳寧は粥の器を、とんと置いた。
「父さん、実は──」
言いかけた時、垂花門が開いた。
正院から、正院付きの侍女が二人現れた。
「揚公子の従者の方」
「女当家からのお誘いです。今夜の宴に参加するように」
芳寧と陸峰は、顔を見合わせた。
克己の表情は──言うまでもない。




