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白い霧の向こう ― 茶馬道を北上する血の臭いが行きつく先は、白い瞳の少女が過去を失った場所だった ―  作者: 鬼丸 千


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第32話 茶商たるもの

 中堂に座したジャン家の淑女たちと侍女たち。

 平机の前の十一人の茶商の子息たち。

 そして、数十名ほどになるジャン府の使用人たち。


 彼らの視線が、陸峰ルフォンの背後にいる芳寧ファンニンに注がれていた。

 あちこちから、ささやき声が聞こえてくる。


「どこの従者だ?」

「確かに目が白い」

「見えているのか?」

「気味が悪いな」


 陸峰ルフォンが、こぶしを握り締めていた。

 変装までして、ジャン府に忍び込んだのに──。


「女のような顔つきだ」


 誰かがそう言った時、陸峰ルフォンの右手が芳寧ファンニンの腕をそっとつかんだ。


「侮辱にもほどがある」


 姜慧思ジャン・フイスに軽く一礼し、芳寧ファンニンの腕をつかんだまま、前院へと抜ける垂花門すいかもんへ歩きかける。


「逃げる気?!」


 姜慧思ジャン・フイスが、芳寧ファンニンの手首をつかんだ。

 芳寧ファンニンが反射的にはねのける。

 モン管家が、おろおろと中堂をふり返った。

 

 選抜会の張りつめた緊張感で、誰も言葉を発しない。

 その時──。


「私の従者が、何か無礼な真似でも?」


 揚易棠ヤン・イタンが、涼しげに言った。

 薄紫の長衣が、ひるがえる。

 

 ふん、と姜慧思ジャン・フイスが鼻を鳴らした。


ヤン家の下人だったわけね。礼儀知らずな態度は、主とそっくり」


 揚易棠ヤン・イタンが歩み寄ってくる。

 子息たちの視線を浴びながら、軒下まで優雅にゆったりと──。

 薄く笑みを浮かべ、陸峰ルフォンの肩をぽんと叩いた。


「私の従者たちが、お気に召しませんか?」


「気に入らないわ。今朝、この下人が私に講釈を垂れたのよ。ヤン家の下人は『茶商に仕えれば、茶がわかる』とでも思い込んでいるようね」


 顎をつんとのけぞらせ、姜慧思ジャン・フイス芳寧ファンニンの白い瞳をわざとらしく覗き込みながら言った。


「答えてみなさいよ。茶商にとって大事な三つの徳とは?」


 芳寧ファンニンは、姜慧思ジャン・フイスを見つめた。

 彼女の淡い桃色の絹衣には、高価で希少な沈香じんこうらんの香りが焚きしめられている。わずかに龍涎香りゅうぜんこうが感じられるのは、彼女の気位と自尊心の表れか。


 身分も身なりも違うが、芳寧ファンニンにだって自尊心はある。

 負けてたまるか。

 大きく息を吸って、答えた。

 

ミンミンミン


 陸峰ルフォンが、芳寧ファンニンの顔を見つめた。

 姜慧思ジャン・フイスが、きょとんとする。

 周りを取り囲んでいた従者たちの中から、吹き出す声が聞こえた。

 弾かれたように、姜慧思ジャン・フイスが高らかに笑う。


「何なの、それ。蝉にでもなったつもり?」


 芳寧ファンニンは視線をそらさなかった。

 父の克己クジが、覚えやすいようにと教えてくれた心得だ。

 こんな他人に笑われてはたまらない。


「茶商にとって大事な三つの徳とは──」


 お腹の底から声を出す。


「まずは清明チンミン。心を純粋に保つこと」


 茶商たるもの、利欲にとらわれてはならない。

 正直であらねばならない。

 人を騙してはならない。

  

「次に精明シェンミン。技を見極めること」


 茶商たるもの、茶の技に通じなければならない。

 極めなければならない。

 小手先の製法に甘んじてはならない。


「最後に賢明シエンミン。判断に節度をもつこと」

 

 茶商たるもの、正しく判断せねばならない。

 立ち居振る舞いにも配慮し、賢く生きねばならない。


 その声は震えていなかった。

 むしろ、周囲の空気をわずかに変えるほど澄んでいた。


 先ほどまで笑顔だった姜慧思ジャン・フイスに、とどめを刺す。


「あなたには、賢明シエンミンが足りない」


「ぶ……無礼な!」


 姜慧思ジャン・フイスが、芳寧ファンニンを突き飛ばす。

 よろけた彼女の背に、陸峰ルフォン揚易棠ヤン・イタンの手が伸びた。


「そこまで!」


 誰の耳にも姜善宝ジャン・シャンバオの声だとわかった。

 剣のように鋭い声が、空気を裂いた。


 中堂から靴音が近づいてくる。

 ジャン家の女たちが、一斉に動き出していた。


 腰を下ろしていた茶商の子息たちも、慌てて席を立つ。

 コツコツコツ……。

 ゆっくりと威厳を石畳に叩きつけるかのような足取りで、ジャン家の女当家が三人の前に立った。


 芳寧ファンニンの目に映った彼女の面立ち。

 剃りあげた眉が、不自然なほど優雅に弧を描いていた。

 その下の瞳は、鷹のように鋭い。

 細く通った鼻筋と薄い唇が、姜慧思ジャン・フイスと似ていた。

 

ジャン家の秩序を乱す者は、どんな言い訳があろうと罰を与え、追放処分にすると警告したはず」


 そして、じろりと姜慧思ジャン・フイスを睨む。


慧思フイス。たっての望みで立ち合いを許したけれど、選抜会への参加はここまでとするわ。部屋に戻って『茶経』を百回書写なさい」


「母上!」


「そもそも婿となる相手は、大人が決めること。子どもに口を出す権利はない」


 姜慧思ジャン・フイスは、ぷいと顔を背けた。

 軽く膝を曲げて行礼すると、足音も高く正房の奥へと引っ込んでいく。

 

 芳寧ファンニンは、静かに屈膝礼をとり頭を垂れた。

 次は、自分の番だ。


 頭の上から姜善宝ジャン・シャンバオの声がした。


「あの子に挑発されたとはいえ、お前のふるまいは礼を欠いていた。ヤン公子の選抜会が終わるまでは倒座房とうざぼうで自省し、出歩かぬように」


 芳寧ファンニンは、深く頭を垂れた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 倒座房とうざぼうの部屋に戻ると、克己クジが荷造りをしていた。

 荷造りといっても、変装前の服をまとめた包袱バオフーが二つきりである。


「父さん、どうしたの?」


 陸峰ルフォンも、芳寧ファンニンの後から入ってくる。


「帰るぞ。今()()に!」


 克己クジが、鼻息荒くなる。


「お前がどうしてもと言うから、条件をつけて許してやったのに、その結果がこれだ! あんな騒ぎを起こすとは!」


「私のせいじゃないわ! あの……つんと澄ましたお嬢さんのせいよ」


「何と言おうと、もう駄目だ。私も一緒に村へ帰る! 陸峰ルフォン、世話になったな。じゃあこれで」


 克己クジが、芳寧ファンニンの手を引っ張る。


「父さん、待って!」


 父親の手を振りほどいた芳寧ファンニンは、陸峰ルフォンの背後に隠れた。


ヤン公子の選抜会が終わるまで、この倒座房とうざぼうで自省しなさいと言われたわ。出歩かないようにって。このまま出ていけば、父さんも徳を失っちゃうわよ」


「知ったことか! 私は茶師だ。茶商ではない!」


 その時、戸口に影が立った。

  

「なんの騒ぎだ?」


 ──揚易棠ヤン・イタンだった。


「いいところに、ヤン公子。急ぎの用向きができましたので、私と娘はこれで失礼します」


「それは困る。明日は茶摘みと宴だ。そもそも選抜会が終わるまで残ると約束したはず」


 困ったように、克己クジ芳寧ファンニンを見る。

 陸峰ルフォンの後ろに隠れたままだ。


芳寧ファンニン、さっきの攻撃はよかった」


 ──え、攻撃?


ジャン家の連中は、生まれついて傲慢だ。誰かが思い知らせてやる必要がある。……たかが茶ごときで馬鹿馬鹿しい」


 これまでに聞いたことのない声音だった。

 ジャン家への皮肉なのか、自嘲なのか。

 揚易棠ヤン・イタンの表情からは、どちらともわからなかった。


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