第3話 花祭りの夜
三月は、桃の季節。
春の訪れを祝う花祭りは、乃柯里村が眠らない夜だ。
花びらを模した大小さまざまな提灯が、茶馬道の石畳に面した建物から滝のように吊るされ、日暮れとともに灯りがともる。
白内障を患っている芳寧には、白い光の連なりにしか見えないが、闇に溶け込んでしまう夜道を歩くことのない彼女にとって、この花祭りは”乃柯里村の新しい顔”が見える夜だった。
村を突っ切る茶馬道は、山道の石畳より整備されているとはいえ、馬車がすれ違えるほどの幅しかない。今夜は夜店も並んでいるため、いつにも増して人いきれが強く、芳寧にとって頼みの耳はあまりあてにならなかったが、不安はなかった。
桐儿は、何があっても離すまじとばかりに、芳寧の手を握りしめているし、すぐ目の前を安茶が先導してくれている。次から次に押し寄せる人波でも、ぶつかる心配はなかった。
桃色の提灯が揺れる通りは、音と香りで満ちていた。
父親に肩車をねだる女の子の声。
大道芸人の笛や太鼓。
ぱたぱたと駆けていく少年たち。
ほろ酔い気分で歌い出す男衆。
女たちの笑い声。
「かんざしは、いかが?」
「香り袋を見ていって」
「飾り提灯、いいのがあるよ!」
威勢のいい客寄せの声も、絶え間なく耳を刺激する。
飴細工、甘酒、焼餅の香り。とろりと甘い誘惑が風にのって漂い、芳寧の鼻をくすぐった。
「サンザシ飴!」
桐儿が、素っ頓狂な声をあげた。芳寧の手を握る指先に力がこもる。
「おいしそう!」
「買ってあげるよ。どれがいい?」
安茶は、すっかり兄貴気分だ。抜け目のない彼は、砂糖をしっかりまとった粒ぞろいの串を選んだうえ、店主との値段交渉も忘れなかった。
芳寧も懐銭で飴を買い、三人はぜいたくな甘酸っぱさを味わいながら、提灯の光が続く通りを先へ先へと歩いた。
茶馬道の両側には、家内工房で手作りした藍染めや木彫りを売る店も連なっている。桐儿が物珍しそうに立ち止まるので、芳寧や安茶も付き合った。
軒下で、薬草を売っている人がいるらしい。夜風が、苔むした癖のある香りを周囲にまき散らしている。
竹筒茶の香りが漂ってきた。普洱と同じ後発酵茶で、まろやかな味わいの茶だ。夜は店を閉める茶店も、この賑わいで繁盛しているらしい。
桟橋まで来たとき、たくさんの親子連れがいると桐儿が教えてくれた。紙でできた花舟に願い事をしたため、川に流しているのだ。無病息災や家族円満を願う乃柯里村の風習でもある。
「みんな、何してるかな……」
桐儿が、芳寧の横で、ぽつりと言った。
彼女の実家は、二里ほど離れた部落にある。住み込みで働くことになった彼女は、桟橋の光景に、家族を思い出したらしい。すでに幼い妹弟が三人いる長女でも、まだまだ父母が恋しい年頃である。
「願い事してみる?」
安茶が言った。
「家族が元気でありますようにって。それ……、僕が書いても叶うのかな」
芳寧の横で、冗談めかして笑う安茶の声は、どこか寂し気に聞こえた。
大家族で苦労している桐儿と、家族を知らない安茶。芳寧は、優しい父を声と輪郭でしか認識できない。思い描く家族の姿は、手を伸ばせば届くようで、なかなか手に入らない。
「あれ?!」
安茶が、突然叫んだ。
「銭入れがない!」
身体中をばたばた叩いて、在処を探している。
「落としたのかな? でも、どこで?」
「安茶お兄ちゃん、来た道を戻ってみようよ」
「これは、まずいぞ」
厳掌事からもらう給金を、安茶は肌身離さず持っている。全財産が入った銭入れがないとあっては、祭りを楽しむどころではない。
「桐儿、一緒に探してあげて」
芳寧は、握っていた手をそっと離した。
「でも……」
「私は大丈夫。桟橋の近くで人も多いし、明るいし」
安茶が頭を搔いているのが、気配でわかった。
「桐儿は、芳寧と一緒に戻ってきて。さっきのサンザシ飴の屋台で落ち合おう。ごめん、ちょっと見てくる」
安茶が、駆けていく。
芳寧は、桐儿の手を引いて言った。
「あなたも探してあげて。二人なら効率がいい」
「だけど、姐さんは目が……」
「来た道を戻るだけの一本道だし、人が多いから助けも呼べる。サンザシ飴の屋台で会いましょう。安茶を見失う前に、さあ行って」
「……はい」
芳寧に背中を押され、桐儿はためらいつつも安茶の後を追った。軽い足音が遠ざかっていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
提灯が道しるべになると当てにしていたものの、甘かった。
光が思いのほか眩しくて、視界がにじんでぼやけてしまう。
前方から次々に押し寄せる人の波に、身体がはじかれ、方向がわからなくなる。桐儿と歩いていた時には、まったく苦にならなかった石畳の段差が、あちこちで芳寧の足をもつれさせる。
「すみません……。ごめんなさい……」
絶えず通行人とぶつかってしまうので、芳寧は謝ってばかりだ。気遣ってくれる人も中にはいたが、迷惑そうに悪態をつく人もいた。
こんなことなら、杖を持ってくればよかった。後悔してももう遅い。
提灯が放つ光が、ただでさえ白い視界に光の帯を垂らす。まるで霧の迷路だ。杖がなければ、手探りで歩くしかない。目立ちたくはなかったが、仕方ない。
芳寧は、両手をぐんと前に伸ばした。
人や物にぶつからないよう、歩く空間を確保する。腕を伸ばし、恐る恐る歩く姿を眺めて笑う人もいるだろう。恥ずかしかろうと俯いてはいられない。とにかく、できるだけ早く、安茶と桐儿が待っているだろうサンザシ飴の屋台まで戻らないと。
誰かが芳寧の腕をつかんで、ぐいと引っ張った。
桐儿の小さな手のひらでも、安茶のかさついた手のひらでもない。
──知らない男の手。
思わぬ出来事に、芳寧は唖然となった。
『誰……?』
声にならないまま、強引な力に引っ張られてしまう。
人混みのざわめきが後方に薄れ、提灯の灯りが視界から消え、芳寧は暗い路地へと引き込まれてしまった。
「離して!」
やっと声が出た瞬間、首がしなるほど右の頬を叩かれた。よろけた拍子に何かにぶつかった。水桶が、がらがらと音を立てて地面を転がっていく。
目の前の誰かが、芳寧の身体を土壁に押しつけた。
「おとなしくしろ」
もあっと酒臭い息が、顔にかかる。
必死で、その顔を押しのけた。荒々しい呼吸を吸い込むのもおぞましい。
どんなに抵抗しても、羽交い締めにされて身動きできない。
大声を張り上げたいのに、喉から出るのは潰れた笛のような音ばかり。
もがいていると、左の頬を叩かれた。
男の手が衿に伸びてくる。
胸元を押さえた芳寧の指に、サンザシ飴の串が触れた。




