第2話 茶発《チャファ》馬店で
「芳寧がいてくれるから、茶師なんか雇わないよ」
ふうふう言いながら茶の準備をしている芳寧の横で、厳掌事が包子をほおばりながら言った。
次の宿場町をめざす茶隊を見送ると、小川のせせらぎが聞こえるほど静かになる。早朝からの慌ただしさが落ち着いたところで、茶発馬店の従業員たちはひと息ついていた。
羊肉と野菜を刻んで具にした今日の包子は、厨房から客の接待まで担当する店小娘、阿依のお手製だ。
「僕にも、ひとつ!」
馬房から戻ったばかりの安茶が、卓子の上の大皿にぐいと手を伸ばした。住み込みで働いている彼は、孤児だ。八歳だった彼が通りで物乞いをしている姿を不憫に思った厳掌事が、店小二(給仕)として雇ったらしい。
今日の茶は、烤茶。
焙煎に使う土瓶は、結構な重さがあるうえ、茶葉を入れたその土瓶を、火の上で小刻みに揺らし続けなければならない。油断していると茶葉が焦げてしまう。
香りが立つまでしっかり焙煎したら、少量のお湯を土瓶に注ぐ。
「ジュウ」という音とともに、泡が立つ。
熱湯をさらに継ぎ足せば、一煎目の烤茶のできあがりだ。
「芳寧の茶は評判がいいよ。茶師も顔負けだってね」
卓子に並べられた茶杯に、次々に手が伸びる。
阿依が芳寧の肩を、ぽんと叩いた。
「昨日のバター茶も濃厚で、すごく身体が温まった」
バター茶は、はるか北方の吐蕃王国が発祥だ。
茶葉を煮だし、ヤギの乳と塩を加えて攪拌することで、高地に暮らす人々にはありがたい栄養価の高い飲み物になる。煎れ方は、馬店の泊まり客だった吐蕃王国の行商人から習った。
学びたての茶であろうと、ちょっと失敗したかなと思った時でも、阿依はいつも褒めてくれる。
「ありがとう、阿依姐さん。また作るね」
「わあ、楽しみ」
「普洱茶には、この包子も合うけど……」
安茶が、大きな前歯を見せてにやりと笑う。
「葱油餅が食いたいな」
葱油餅は、安茶の好物だ。
「はいはい。豆お婆さんに頼んでおくわ」
豆お婆さんは、週に三回来てくれる七十歳を超えた経験豊富な厨娘で、芳寧たちを「あたしの孫たち」と呼んで可愛がってくれる。
その「孫たち」に今日、新しい仲間が加わった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「よろしくお願いします」
ちょこんと頭を下げる十歳の少女。
まん丸の瞳が愛らしい桐儿は、阿依の紹介で雑役として雇われた。大家族の娘だそうで、幼いながらすでに重要な働き手らしい。
可愛いね、よろしくね、頑張ってねと声をかけてくる先輩たちに、恥ずかしそうな笑顔を見せていた桐儿は、芳寧を見て一瞬、固い表情になった。初対面ではよくある反応だ。
「生まれつき目が白いの。はっきり見えない時もあるから、その時は助けてね」
芳寧が明るく言うと、桐儿はこくりと頷いた。
「目の代わりに、芳寧は耳で見るのよ」
阿依が自慢げに言う。
「鼻も鋭いよね。おならもできない」
安茶が、ふざける。
同じ背丈の彼の頭を、芳寧がこつんと小突いた。
茶発馬店の午後。
今日の宿泊客に出す茶は、烘青緑茶にしよう。
烘青緑茶は釜でなく、竹籠に入れて炭火の上でじっくり焙り、静かで柔らかな火を入れる。茶師の父から「炒ってから籠に入れ、しっかり炙って乾燥させる」よう教わった。準備に手間取るが、甘い焙煎香がお気に入りの茶だ。
「克己さんは、新しく茶器を買うんだって?」
豆お婆さんと献立てを確認していた厳掌事が、土間にいる芳寧に声をかけた。克己とは、父の名だ。
炭の準備をしながら、芳寧は答える。
「はい。あさっての茶芸で使う長嘴壺だそうです」
長嘴壺というのは、長い注ぎ口の急須のこと。
父の得意技は、高い位置から湯を注ぐ“高沖”だ。
「克己さんの茶坊も、繁盛してるそうじゃないか。芳寧を返してくれと言われそうで、なんだか複雑な気分だよ」
炭火をおこし終えた芳寧が、せっせと茶を煎れる準備をしていると、客房の方から入ってきた阿依が桐儿をつれてきた。
「この子に籠をもたせればいいよ。小さいけど力もあるし、交替でまわす方がいい」
視力の弱い芳寧の火入れは、炎の揺らぎや香りが頼りだ。
炭火の火力は強くなったり弱くなったり予測ができない。烘青緑茶は、一人が炭火を調整し、もう一人が籠をまわす方が格段に効率がいい。
「客が入るまで、芳寧の手伝いをしてて」
「はい!」
桐儿が気持ちのよい返事をした。
「ただいま、戻りました!」
そこに、安茶が飛び込んできた。
「遅かったじゃないか。どこで油を売ってたんだい」
厳掌事が、豆お婆さんお手製の葱油餅をもって、厨房から現れた。口は悪いが、安茶の帰りを待っていたのだろう。
「籠町通りで、明日の花祭りの準備をしてたんですよ。提灯をつけてくれと、屋台のおかみさん達に頼まれて……うわ、葱油餅だ!」
葱油餅を見ると、いつも騒々しい。
「花祭りに行ってもいいですか、みんなと一緒に」
子どもを亡くして離縁した過去のある厳掌事にとって、八歳から世話をしている安茶はわが子も同然。愚痴は言っても否定はしない。
「いいよ。新入りの桐儿も一緒に、子ども三人で眺めておいで。一時間したら、阿依を迎えに行かせよう。克己さんに、ここまで迎えに来てもらえばいい」
はしゃぐ声が響いた。
芳寧は、花祭りのにぎわいを思い浮かべて微笑んだ。
まさか血の臭いを嗅ぐことになろうとは、露とも思いもしないで──。




