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白い霧の向こう ― 茶馬道を北上する血の臭いが行きつく先は、白い瞳の少女が過去を失った場所だった ―  作者: 鬼丸 千


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第29話 中庭の怪

 すっきりした目覚めだった。

 昨日の疲れなど、まったく残っていない。


 背伸びをし、隣を見ると陸峰ルフォンの背中が見えた。

 その先に寝ていたはずの従者二人の姿は、もうない。


(何時?!)


 慌てて飛び起きた。

 今日は、婿選抜会の初日だ。


 陸峰ルフォンに声をかけようとして……言葉が、喉につかえた。

 名前を呼ぶほど親しいわけでもない。

 どう呼べばいいのか、迷う。


 ふと、山賊に襲われた山道で聞いた陸峰ルフォンの声がよみがえる。


芳寧ファンニン!』


 あの時、はじめて名前を呼ばれた。

 ──そんなことは、どうでもいい。今は起こさないと。


 呼びようがないので、身体を揺すった。

 寝台と寝台の間は、手を伸ばせば届くほどに近い。


 身体を揺さぶられて、陸峰ルフォンがこちらを向いた。

 ──ひどい顔である。

 熟睡できなかったようで、目の下に濃いくまがあった。


「大丈夫?」

「……ああ」


 辛そうに首を回し、肩を回している。

 寝心地がよくなかったのだろうか。


 髪と衣服を整え、室外に出る。

 陽の差し込む角度からして、六時を過ぎたあたりか。


 倒座房の広い軒下では、すでに従者たちが朝食を取っていた。

 粥の匂いが、まだ冷たい朝の空気に溶けている。

 もう食事を終えて、くつろいでいる者たちもいる。

 婿選抜会の初日とあって、夜明け前から動きだしていたようだ。


 芳寧ファンニン陸峰ルフォンも空いている席に座った。

 小婢シャオビたちが、朝食の盆を手際よく並べてくれる。


 湯気の立った雑穀粥と青菜の漬物に、細切り肉の包子バオズ

 汁物の具は、卵と三種の茸。

 お代わりは遠慮した。


「口頭試問は、午後かららしいぞ」


 従者たちの会話が聞こえた。


「午後から?」

「ああ。 午前中は茶葉の炒り作業だそうだ」

「公子たちに作業をさせるのか? なんと横柄な」

「それがジャン家なんだよ」


 どうやら選抜会には、実技も含まれるらしい。

 芳寧ファンニンの好奇心が、むくむくと頭をもたげる。


「作業工程は、私たちも見られるんですか?」


 従者たちは芳寧ファンニンの白い瞳に一瞬どきりとしたようだったが、それ以上に質問のほうが奇異だったらしい。

 

「見られるわけないだろう」


 残念。ちょっと期待したのだが。


「作業場は入れないが、茶畑なら見学してもいいらしい」


 芳寧ファンニンは思わず身を乗り出した。


「茶畑があるんですか? お屋敷の中に?」


 また怪訝そうな視線が集まる。

 従者たちは、当然のように続けた。


ジャン家は茶豪だぞ。ちょっとした茶畑くらいある」

「新種の研究をしたり、薬草に使ったり」


 茶葉を、薬草にまで用いるとは。

 そこから話題は、ジャン府の規模へと広がっていく。


「姜府にないのは、港くらいなもんだろう」

「薬房ときたら巍山ウェイシャン一だからな」

「鴨の養殖場から狩猟場まである」

「牢屋もあるぞ。捕まらないように用心しろよ」


 芳寧ファンニンは苦笑しながら、陸峰ルフォンと席を立った。


「茶畑に興味があるようだな」

「おおありだわ。見たことないんだもの」


 小婢シャオビたちが、茶畑のある中庭の場所を教えてくれた。

 倒座房の先にある屏門へいもんを抜けていく。


 立派な楼閣をいくつも通り、迷路のような小道をいく。

 

 しばらく行くと東屋があった。

 使用人に行き先を問われ、茶畑の見学だと告げる。

 まっすぐ行くよう案内され、門をいくつかくぐった。

 

 本当に、この先に茶畑があるのだろうか──。


 そう思った刹那、目の前が急に開けた。

 広がるのは一面の茶畑。

 中庭を突っ切る小道の両側に、みずみずしい茶葉が揺れている。


 芳寧ファンニンは、息を呑んだ。


 視力に自信がない彼女は、茶山に登ったことがない。

 茶葉にはいつも触れているのに、茶樹を間近にしたのは──あの山道で──陸峰ルフォンと見たあの茶樹王だけだ。


 風が吹く。

 茶葉の香りが芳寧ファンニンを包む。

 そこに、ほのかな花の香りが混ざった。


 金銀花キンギンカ。薬草にもなる甘い香り。

 杜鵑花ツツジの匂いもする。

 万寿菊まんじゅぎくまで植えてある。


 茶樹の下に花を育てる、もうひとつの理由。


(香りを茶葉にしみ込ませているんだわ)


 ジャン家の茶豪と呼ばれる理由が、ここにもある。

 茶商の子息たちが、こぞって集まるのも無理はない。

 ジャン府には、茶商として成功する鍵があるのだ。


 若い茶葉の香りに包まれながら、茶畑の中を歩く。

 両脇には、立派な石灯篭が連なっている。

 夜にこの道を歩けば、幻想のような世界を感じるだろう。

 

 幸せな時間が、ふと途切れた。


 はっとする芳寧ファンニンの緊張を、すぐ隣を歩く陸峰ルフォンがすぐさま察した。


「どうした」

「……血の臭いがする」

「なんだって?」


 陸峰ルフォンは、周囲を見回しながら聞いた。


「どこだ」


 震える指先で、芳寧ファンニンは前方を指さした。


「風が吹くと……かすかに感じるの」


 小高い丘になっている。

 視線は届かず、人影もない。


 陸峰ルフォンが「ここで待て」と小声で言った。

 茶樹の茂みに入っていく背中──。

 ある地点で止まり、身を屈めた途端、姿がすっと消えた。


 ──動きがない。


 不安が押し寄せる。いったい――


「何をしてるの?」


 背後から声がして、芳寧ファンニンは飛び上がった。

 振り返ると、淡い桃色の絹衣をまとった美しい娘が立っていた。


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