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白い霧の向こう ― 茶馬道を北上する血の臭いが行きつく先は、白い瞳の少女が過去を失った場所だった ―  作者: 鬼丸 千


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第28話 茶髄

 馬杭に馬をつなごうとするが、うまくいかない。

 陸峰ルフォンがやれやれと苦笑し、手を貸してくれた。


 広い前院だ。

 芳寧ファンニンは、ぐるりと周囲を見回す。


 隅の方に、井戸がある。

 数人の従者たちが、桶に水を汲んでいた。

 左手には、瓦屋根の倒座房とうざぼう

 戸口がずらりと八つ並び、軒下はかなり広い。


 長椅子に腰を下ろしている従者たちがいる。

 言葉を交わしている姿が、どこか張り詰めて見えるのは、明日から始まる選抜会のせいだろう。


 木戸が開く音がした。

 ふり向くと、垂花門すいかもんから克己クジが出てくるところだった。相変わらず儒生の身なりで、片手に提籠ていろうを下げている。


「おお、来たな」

 

 芳寧ファンニン陸峰ルフォンを見て、満面の笑顔になった。

 つい先刻まで、あれほど滞在を渋っていたくせに、だ。

 やはり、これほどのお屋敷に茶師として召されたことが誇らしいのだろう。


 ほかの従者たちのように、芳寧ファンニン陸峰ルフォンも井戸の水で手と顔を洗った。

 山道でひどい目にあった疲れと砂埃が、洗い流されるようで心地いい。


「部屋はこっちだ」


 克己クジが手招きする。

 ついていくと、提籠から漂う夕餉の香りが鼻孔をくすぐった。


 日はすっかり傾き始めている。

 馬に揺られて、身体が解けそうなほど疲れている。

 早く休みたい──。


 克己クジに続いて、倒座房の端の部屋へと入る。

 室内は、想像より薄暗かった。

 豪華なお屋敷だと思ったが、部屋は簡素だ。


 四つの寝台と木机、荷物棚があるだけ。

 それでも、ひとつひとつに格調を感じる。

 木机の上には、燭台と茶器一式が乗っていた。


「ここに泊まってるのは、父さんだけ?」

「あと二人いる。スン家の従者らしい」


 芳寧ファンニンは、四つある寝台を指さした。


「じゃ、私はどこで──」

「まずは食事だ。残り物しかないが、文句を言うなよ」


 提籠を木机に置いて、克己クジが言った。

 

 思えば、昨日の夜から食事らしい食事をしていない。

 芳寧ファンニンのお腹が、小さく鳴った。


 提籠の蓋を開ける。

 白粥の湯気と青菜炒めの香りがふわりと立ちのぼった。


 下段には、小ぶりの饅頭と鶏肉の蒸し物。

 小さな壺にはなつめ入りの生姜湯まで入っている。

 寒さや疲労に効く優しい飲み物だ。


 巍山ウェイシャンまでの出来事をあれこれと話しつつ、芳寧ファンニン陸峰ルフォンは、克己クジが呆れるほどの勢いで、あっという間に平らげた。


 なつめ入りの生姜湯を飲む頃には、戸外は夕闇に包まれていた。

 燭台の火が、明るい。

 食べ終えた食器を片付けながら、芳寧ファンニンは聞いた。


「父さん、単なる好奇心だけど──」

「なんだ?」

ジャン家は、どうして婿選抜会をするの?」

「……どうしてって」


 克己クジが、目をぱちくりさせる。


「あちこちから若君たちが集まって、まるで何かの大会みたい。普通に縁組みをすればいいのに、どうして選抜会なんてするのかしら」


「……そうだな。どうしてかな」


 今度は、陸峰ルフォンが口を開いた。


「普通の縁組みでは、婿の家が口を出す。ジャン家は女系だ。婿は家に従う立場になる。そのために、最初から『従う覚悟のある者』だけを選ぶのだろう」


 ──従う覚悟のある者?

 

ジャン家は、女性が一族を率いるの?」

「女系とは、そういうことだ」


 陸峰ルフォンは頷いた。


「今の女当家は、姜善宝ジャン・シャンバオ。彼女の娘が、今回の選抜会の主役である十五歳の姜慧思ジャン・フイス


「十五歳? そんな年で婿を選ぶの?!」


 驚いた芳寧ファンニンの声が、思わず大きくなった。

 克己クジが、慌てて芳寧ファンニンの口をふさぐ。


「うかつなことを言うな」


 しまった。

 男装していたことも、うっかり忘れていた。


 酒が入っているのか、隣の部屋から笑い声が聞こえてきた。

 燭台の炎が、風でふわりと揺れる。

 天井を仰ぎながら、陸峰ルフォンが言った。


ジャン家の娘は、十五になると婿を選ぶが、結婚はまた先の話だ。ふさわしい候補がいなければ、婚約は成立しない。」


「……やけに詳しいのね」

「鏢局とともに旅をすれば、うわさは嫌でも耳に入る」 

「だけど──」


 芳寧ファンニンが隣室を気にして、声を潜める。


「女系だから男の跡継ぎを認めないなんて……なんだか極端な気がする」


 湯呑みをもてあそんでいた克己クジが、ぽつりと言った。


ジャン家の娘には、特別な血が流れていると言われている。一族にとって、血脉と評判は命より重い」


 そして、ふうとため息をつく。


「茶髄を守ることで、茶豪としての地位を守ろうとしているんだよ」

「茶髄?」


 克己クジは、言葉を続けようとして口をつぐんだ。

 余計なことを言った、とでもいうように。


「……まあ、その話はいい」

 

 立ち上がり、提籠を手に取る。


「では、おやすみ」


 そのまま戸口を出て行こうとする。


「待って、どこに行くの?」


 芳寧ファンニンが、慌てて立ち上がる。

 燭台の炎がゆらりと揺れた。


ヤン公子の部屋だ。明日は口頭試問だからな。茶についての一夜漬け講義を頼まれているんだよ」


「じゃ、今夜父さんは──」


ヤン公子の部屋の長椅子で寝る」


「じゃ、私は──」


「従者のお前は、ここで寝ろ」


 そして、じろりと芳寧ファンニンを見る。


「男になったんだから」


 ちょうどその時、スン家の従者が二人、手拭いで顔を拭きながら入ってきた。芳寧ファンニンは身構える。名家の従者とはいえ、こんな夜更けに出会う見知らぬ男たちだ。


(嘘でしょう……。この人たちと同室?)


 彼女の警戒心を知ってか知らずか、克己クジは笑顔で声をかける。


「今夜からこの二人が泊まりますので、よろしく」


 従者二人は無言でうなずくと、外套を羽織ってまた出て行った。

 芳寧ファンニンの鋭い視線を感じ、克己クジは首をすくめる。


『三日間うちの娘の護衛を頼む』


 午後の茶店で、克己クジ陸峰ルフォンにそう言っていた。

 こういう事だったのか──?


「おい、陸峰ルフォン


 克己クジが声を落として言った。


「しっかり頼むぞ」 


 克己クジの足音が遠ざかる。

 倒座房の薄い壁越しに、夜風の音が残った。


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