第九話
「それで、今度はまた何かやらかしたんだい?」
数日後。
下町の食堂を訪れたレオニードは、女将に相談を持ちかけていた。
セレスティアが働いていた頃から、彼女をよく知る女将である。レオニードの不器用さについても、妻を放置していた過去についても、当然ながら知っていた。
「花束を贈ればいいと聞いた。甘い言葉も試した」
「ああ、そうかい。それで?」
「熱があるのかと心配された」
「…………」
女将は、手にしていた布巾でゆっくりとカウンターを拭いた。
「そりゃあ、あんた。あの子はあんたのことを、まだ信用してないんだよ」
「……わかっている」
レオニードは目を伏せた。
その声には、いつもの強さがなかった。
妻を傷つけたのは自分だ。彼女が簡単に許してくれるはずがないことくらい、理解している。
それでも、そばにいたいと思ってしまう。
少しでも笑ってほしい。自分のことを、ほんの少しでも悪くない男だと思ってほしい。
そんな願いすら、今の自分には贅沢なのかもしれない。
女将は彼の顔をしばらく眺めてから、小さく息をついた。
「あの子はねぇ、飾らない温かいものが好きなんだよ」
「温かいもの……?」
「高価な宝石や、きらびやかな料理じゃない。誰かが自分のために用意してくれた、温かい食事。疲れたときに飲むスープ。そういうものさ」
女将は厨房の奥を指さした。
「ここで、あの子がどれだけ働いていたと思ってるんだい。客の注文を覚えて、料理を運んで、片づけをして。忙しいときだって、誰かが腹を空かせていれば、まずは食べさせようとしていた子だよ」
セレスティアは、誰かに何かをしてもらうことより、自分で動いて必要なものを手に入れることに慣れている。
だからこそ、見返りを求めず差し出される小さな親切が、彼女にとってどれほど特別なものなのか。
女将は、それを知っていた。
「……俺にも、作れるだろうか」
「料理かい?」
「ああ」
レオニードは真剣な顔でうなずいた。
「妻に、スープを作りたい」
女将はしばらく彼を見つめ、それから厨房の扉を開けた。
「よし。じゃあ、まずは野菜を切るところからだね」
そのとき、厨房にいた料理人が、ぎょっとした顔で振り返った。
「女将! まさか、この人に包丁を持たせるんですか!?」
「なんだい。包丁くらい使えるだろう?」
「敵の首を落とすのと、野菜を切るのは違うんですよ!」
「……失礼だな。俺だって料理くらいできる」
レオニードは、厨房の棚から包丁を取り出した。
そして、まな板の上に置かれた玉ねぎを見下ろす。
目標を確認。
武器を構える。
狙いを定める。
「…………」
「団長。なんでそんなに殺気立ってるんですか」
副団長まで、いつの間にか入口に立っていた。
「黙って見ていろ」
レオニードは包丁を振り下ろした。
――ガンッ!
まな板が割れた。
「…………」
「…………」
「…………」
厨房に沈黙が落ちた。
玉ねぎは、無傷だった。
「団長おおおおおっ! 何をどうしたら、まな板だけ割れるんです!?」
「力加減を間違えた」
「んな訳あるか――!」
女将は額を押さえた。
「……あんた、普段どんな料理を作っているんだい?」
「食事は、出されたものを食べていた」
「そりゃあ料理をしたことがないってことじゃないか!」
「そうかもしれない」
「なら、出来るなんて言うんじゃないよっ!」
女将の一喝に、レオニードは黙り込んだ。
妻のために何かをしたいと思いながら、自分ができることといえば、戦うことや重いものを運ぶことばかり。相手が何を望んでいるのか確かめることすら、ろくにできていなかったのだ。
「……もう一度、頼む」
レオニードは包丁を置き、深々と頭を下げた。
「今度は、教わった通りにやる」
その姿に、女将も料理人も副団長も、思わず口を閉ざした。
戦場でどれほどの敵を倒してきた男が、たった一杯のスープを作るために頭を下げている。
その不器用さを笑うことは簡単だ。
けれど、彼が本気で変わろうとしていることだけは、誰の目にも明らかだった。
「……よし。じゃあ、もう一度最初からだよ。包丁はそんなふうに握りしめるんじゃなくて、こう持つんだ」
「こうか?」
「もっと力を抜きな!」
「これ以上抜いたら、落としそうだが……」
「落とすんじゃないよ! まったく、先が思いやられるね!」
厨房には、女将の怒声と副団長の悲鳴、そして不慣れな包丁の音が響き続けた。
*
その日の夕方。
セレスティアは、いつものように屋敷の食堂へ向かっていた。
ところが、扉を開けた瞬間、彼女は足を止めた。
「……何ですか、これ」
テーブルの上には、湯気の立つスープと、少々不格好なパンが並んでいた。その隣には、手に包帯を巻いたレオニードが、なぜか胸を張って立っている。
「俺が作った」
「…………はい?」
「野菜のスープだ。女将に教わった」
セレスティアは、テーブルの上を見た。
スープは、見た目だけなら悪くない。細かく切られた野菜が浮かび、温かな湯気が立ち上っている。
ただし、パンは妙に平べったく、レオニードの手には包帯。
そして、厨房から漂ってくる焦げ臭さ。
「……何があったんですか?」
「少々、失敗した」
「少々?」
「まな板が割れた」
「まな板が?」
「その後、鍋の蓋が飛んだ」
「鍋の蓋が?」
「最後に、火が強すぎて鍋の底が焦げた」
「…………」
セレスティアは目を閉じた。
いったい、どうして料理を作るだけで、そこまでの惨事になるのだろう。
「……それで、その手の包帯は?」
「包丁で少し切った」
「少し?」
「大した傷ではない」
レオニードは平然としているが、包帯にはうっすらと赤い染みが浮かんでいた。
セレスティアは眉を寄せ、彼の手を取った。
「見せてください」
「……っ!」
レオニードの肩が跳ねた。
「何をしているんですか。傷口を放置したら、化膿するかもしれないでしょう」
彼女は包帯の具合を確かめ、傷が深くないとわかると、ほっと息をついた。
「これなら、きちんと洗って手当てすれば大丈夫そうですね。でも、料理をするなら、もう少し慎重にしてください」
「……ああ」
レオニードは、彼女の手元を見つめていた。
怒られると思っていた。
実際、呆れられているのだろう。それでもセレスティアは、自分の手を取って傷を確かめてくれた。
それは、レオニードには十分すぎるほど嬉しかった。
「……ありがとう、セレスティア」
「どういたしまして。それで、スープを作ったのは、私に食べさせるためですか?」
「ああ。お前に食べてほしかった」
セレスティアは、ほんの少しだけ目を丸くした。
高価なドレスや宝石を贈られたときとは、違う気持ちだった。
目の前の男は、料理ができない。包丁を握ればまな板を割り、火を扱えば鍋を焦がす。傭兵団の団長としては頼もしいのかもしれないが、家庭生活という点では、驚くほど頼りない。
それなのに、自分のために慣れないことへ挑戦したらしい。
どうやら彼は、本当に自分を喜ばせようとしているのだ。
――まあ、今さら気づいたところで、遅すぎるんですけどね。
「……いただきます」
セレスティアは椅子に座り、スプーンを手に取った。
一口、スープをすくって口に運ぶ。
「…………」
「どうだ?」
レオニードが、祈るような目で見つめている。
セレスティアは、もう一口飲んだ。
「……野菜は柔らかいですね」
「そうか!」
「少し煮すぎですけど」
「……そうか」
「あと、塩が足りません」
「塩……」
「でも、温かいです」
その言葉に、レオニードの表情が変わった。
セレスティアはスープの器を見下ろしながら、静かに続けた。
「……こういうの、嫌いではありません」
豪華な食事よりも、見栄えのする贈り物よりも。
誰かが自分のために用意してくれた、温かいもの。
それが嬉しいと思える自分に、セレスティア自身が少し驚いていた。
レオニードは何か言いかけ、けれど結局、口を閉じた。
余計な言葉を重ねれば、また彼女を困らせるかもしれない。
だから、今はただ、食べてくれている姿を見つめていた。
セレスティアは、そんな彼の様子に気づきながら、もう一口スープを飲んだ。
――本当に、不器用な人。
憎い。腹も立つ。過去のことを思い出せば、今でも許せない気持ちになる。
それなのに、こんなふうに必死になっている姿を見せられると、どうにも調子が狂う。
この男は、英雄と呼ばれているくせに、どうしてこんなにも頼りないのだろう。
そして、どうして自分は、そんな姿を見て微笑ましく思っているのだろう。
「……セレスティア」
「はい?」
「また、作ってもいいか?」
彼女はスプーンを止めた。
レオニードは、期待と不安の入り混じった顔でこちらを見ている。
「……まな板を割らないなら」
「努力する」
「鍋の蓋も飛ばさないでください」
「善処する」
「善処では困ります」
「……わかった」
レオニードは真剣にうなずいた。
セレスティアは、とうとう小さく吹き出してしまった。
ほんの一瞬の笑みだった。
けれど、レオニードにとっては、どんな勲章よりも価値のあるものだった。
*
翌日から、レオニードは食堂の女将のもとへ通うようになった。
包丁の握り方から教わり、野菜の切り方を覚え、火加減というものを学んだ。厳しい指導に何度も眉をひそめたが、決して投げ出さなかった。
その一方で、家庭菜園にも顔を出すようになった。
「セレスティア、この苗はどこに植える?」
「そこではありません。もう少し日当たりのいい場所です」
「ここか?」
「近すぎます。株同士の間隔を空けてください」
「……わかった」
以前なら、良かれと思って畑を広げ、部下たちまで動員していたところだ。
だが、今は彼女の指示を待つ。
苗を植える位置も、水をやる量も、勝手に決めない。わからないことがあれば、必ず尋ねる。
その姿を見ていた使用人たちは、こっそり顔を見合わせていた。
「旦那様と奥様、変わられましたね」
「ええ。以前は奥様は旦那様を威嚇して、絶対に近寄らせなかったのに……」
「旦那様、奥様に叱られるたびに嬉しそうです」
「……あれは、嬉しいんでしょうか?」
「少なくとも、怒鳴られているのに尻尾を振っている犬のようには見えますわね」
もちろん、レオニードに尻尾はない。
しかし、もしあったなら、今ごろ盛大に振られていたに違いない。
当の本人は、そんな噂など知る由もなく、セレスティアの隣で黙々と土を耕していた。
「……レオニード様」
「何だ?」
「最近、ずいぶんと頑張っていらっしゃいますね」
不意に声をかけられ、レオニードは顔を上げた。
セレスティアは苗の葉を確かめながら、淡々と続ける。
「料理も、畑仕事も。以前のレオニード様なら、人任せだったのではありませんか?」
「……そうかもしれない」
「どうして、そこまでするんです?」
レオニードは少し考えた。
どう言えば、彼女に伝わるだろう。
許してほしいから。好きになってほしいから。離婚したくないから。
どれも本当だ。
けれど、今の自分が一番伝えたいのは、それだけではなかった。
「お前が一人で頑張ってきたことを、俺は何も知らなかった」
土のついた手を握り、レオニードはまっすぐに彼女を見た。
「お前が何を好きで、何が嫌いで、何を望んでいるのか。俺は知ろうともしなかった。だから今は、少しでも知りたい。お前が喜ぶことを、俺自身の手でできるようになりたいんだ」
セレスティアは、返す言葉を失った。
その言葉に嘘はないのだろう。
少なくとも、今の彼は本気でそう思っている。
――まったく。どうして、もっと早くそうしてくれなかったの。
胸の奥に、複雑な感情が広がる。
嬉しいと思う気持ちが、ないわけではない。
けれど、それで過去が帳消しになるわけではないし、彼を許せるようになったわけでもない。
セレスティアは、そっと息を吐いた。
「……そうですか」
「ああ」
「では、次は雑草を抜いてください。そちらの畝に、まだ結構残っていますから」
「わかった」
レオニードは、すぐさましゃがみ込んだ。
その背中を見つめながら、セレスティアは小さく笑った。
以前は、ただの憎いクソ旦那だった。
今だって、その評価が完全に覆ったわけではない。
けれど最近、ほんの少しだけ思うことがある。
この人は、放っておくと何をしでかすかわからない。料理をさせれば厨房を壊しかけるし、畑を任せれば農場を作りかねない。甘い言葉を口にすれば病気を疑われるほど不器用で、誰かに助言されるたびに妙な方向へ突き進む。
……本当に、困った人だ。
けれど、困った人だからといって、必ずしも嫌いでい続けられるとは限らないらしい。
セレスティアは、その事実に気づかないふりをした。
気づいてしまったら、彼がますます張り切るに決まっている。
*
夕食のあと。
レオニードは、意を決してセレスティアに向き直った。
「セレスティア」
「何でしょう?」
「俺は、これからも努力する。お前が望むことを知って、できることを増やしていく。だから……」
彼は一度、言葉を切った。
「いつか、俺を夫として見てくれる可能性はあるだろうか」
セレスティアは、しばらく彼を見つめた。
以前なら、即座に「ありません」と答えていただろう。
今だって、簡単に答えが変わるわけではない。
「……努力なさるのは、結構だと思います」
「本当か?」
「はい。少なくとも、以前よりはずっと良いと思います」
レオニードの顔が、ぱっと明るくなった。
だが、セレスティアはそこで釘を刺す。
「ただし、それと離婚は別です!」
「なぜだ!」
「なぜも何も、別の話だからです!」
「俺は、まだ離婚するつもりはない!」
「私にはあります!」
結局、いつもの攻防戦である。
それでも、レオニードは以前のように、ただ拒絶するだけではなかった。
「……わかった。今すぐ答えを変えてほしいとは言わない」
「そうしてください」
「だが、諦めるつもりもない」
「それはもう、十分に伝わっています」
セレスティアは呆れたようにため息をついた。
けれど、その口元には、ほんのわずかな笑みが残っていた。
レオニードは、それを見逃さなかった。
――まだ、終わりではない。
そう思えるだけで、明日も頑張れる気がした。
たとえ料理に失敗しようとも。
たとえ雑草と間違えて大切な苗を抜きかけようとも。
たとえ妻から、何度「クソ旦那」と呼ばれようとも。
彼はもう、妻を一人きりにはしない。
そして、いつか。
セレスティアが自分の隣にいることを、苦痛ではなく喜びだと思える日が来るまで。
レオニードの不器用すぎる奮闘は、まだまだ続くのである。




